GS関係者などへのインタビュー
グループサウンズ文化論 - なぜビートルズになれなかったのか (単行本)
- 作者: 稲増龍夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/12/06
- メディア: 単行本
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岸部一徳
[コーラスのうまさ]
たまたまなんですよ。みんなで沢田のメロディーに下とか上とかつけているうちに、それぞれの声の特徴が出せたんですね。そのバランスが絶妙だと気づいてくれたのが、すぎやまこういちさんだったんです。
(略)
[人気ピーク時、先行きへの不安は?]
それはあんまり思わないですね。当時、ビートルズがいたりストーンズがいたりで、僕らも同じような熱狂の空間にいるんだという感覚ですね。いつか人気がなくなるんじゃないかなという心配は多分何もしていなかったです。
(略)
[人気の陰りで解散ではなく]
解散すれば、タイガースでできなかったことを違うかたちでやれるかな、という気持ちになっていきましたね。(略)
渡辺プロダクションは、沢田はソロで十分にやっていけると思っていたけど、いきなりソロはきついので(略)PYGを結成しました。おそらく[マネージャーの]中井さんのアイデアだったと思うんですけど。
宇崎竜童
[義兄のプロダクションに入社し、ガリバーズを担当]
あの時代のGSはほとんどがストーンズの曲をコピーしていたのに、彼らはモンキーズやビージーズもコピーしていたんです。
(略)
[オックスが]「テル・ミー」で失神するなら、自分たちは「朝日のあたる家」で失神するんだとか(略)[小柴英樹が]ピート・タウンゼントみたいに、ギターをバーンと叩き割ったことで話題になったり(略)
ボーカルは失神して、そこにマネジャーが出ていってジェームス・ブラウンみたいにマントで覆って連れていくなど、ともかく目立つために必死でしたね。
(略)
[GSがダサかった76年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドで『GS』という名前のカバーアルバムを出した意図は]
七〇年代以降、キャロルも含めて、たくさんのロックバンドやブルースバンドが出てきましたけど、それはGSのおかげだ、ということをみんなに示しておきたかったんです。レコード会社で洋楽のディレクターをしていた筒美京平さんや、広告代理店のコピーライターだった阿久悠さんのような、いわゆる専属作家ではない人たちが、曲を書いたり詞を書いたりできるようになったのはGSのおかげだと。(略)
僕は、ブルー・コメッツの井上大ちゃんや三原綱木さんを尊敬していました。GSの人たちが築いた基礎があったからこそ、「プロデューサーやディレクターのいいなりにならなくていいんだ」と確信できたのです。ただしGSも、中期からは大人のいいなりにならざるを得なかったですけどね。(略)
その歴史的意義を主張したかったですね。だから、ほぼアレンジはしないで完全にコピーしました。かまやつひろしさん、アイ高野さん、デイヴ平尾さんにも参加してもらいました。その当時、音楽シーンの中にGSの人たちが輝ける場所がなかったのはあんまりだと思っていたんです。GSがなければニューミュージックもないはずですから。今でもそう思っています。(略)
[ゴールデン・カップス五〇周年記念ライブでマモル・マヌーさんとかエデイ藩さんが、GSはくだらなかったということを盛んに言っていたがと話を振られ]
GSの人たちは、どこかに屈折したものがあって、それを引きずっているのかもしれませんね。たしかに、意に反して歌謡曲を歌わされていたということで、当事者たちは歯がゆいものがあったと思います。ただ、僕は裏方としてそこに一緒にいた者の一人として、当時を誇らしい時代だったと思います。たとえばガリバーズでもブルー・コメッツでも、欧米並みのロックの音というものを目指していたわけですが、音を出すと、ミキサーの人がアンプのほうの音を下げさせてしまう。音の録り方がものすごく邦楽的だから、メンバーが望んでいる音にはなっていかないんですよね。でも、そういう日本的なGSの音の作り方が、後に欧米の音楽ファンから、ガレージミュージックみたいだと注目されましたよね。(略)
ファズを使ってエフェクトをかけているのに、歌謡曲みたいに録っていて、変なロックなんですよ。それが、欧米の若い人からすると、キッチュなサウンドだったんじゃないですかね。
(略)
[ガリバーズのメンバーはファッションや髪型にもこだわり]
どうやったら女の子にキャーキャー言ってもらえるかとか、何がかっこいいか、どういうサウンドがかっこいいか、本当に貪欲でしたね。(略)
そういう不良性みたいなものが肝でした。極端に言えば、不良がたまたま音楽もできたという自己顕示欲みたいなものがグワーッと出てきたんじゃないかなと。だから爆発的エネルギーがあったんでしょうね。
(略)
我々ダウン・タウンにしても、メンバーが醸し出す不良性を隠さずに、そのまま音楽の世界にぶちこんじゃえば、他にない曲が作れるだろうなと。自分が歌っているにもかかわらず、どこかプロデューサーみたいに思っていました。
近田春夫
プロの世界に入ったきっかけは、一九七〇年頃、当時渡辺プロダクションにいた大里洋吉(現アミューズ会長)さんから、高校生の僕に電話がかかってきて、自分が担当しているロック・パイロットとワイルドワンズ、それからソロのアラン・メリルのキーボードを担当してくれないかと要請されたんですよ。
(略)
[ラジオDJは]
七七年からの「オールナイトニッポン」が先です。バンド活動をしている時の私のしゃべりが面白いということで、ラジオに紹介してくださる方がいたのです。自分は、とにかく歌謡曲、特に筒美京平さんに詳しかったんで、番組ではそういう音楽をガンガンかけました。その流れで、ちょうどGSが一番時代遅れと言われていた時期に、あえてGS、それも売れなかったB級GSを取り上げたのです。リスナーも聴いたことがない曲だらけだし、かっこいい曲もあれば笑える曲もあって話題になりましたね。TBSの人がその番組を気に入ってくれて、ハ〇年から今度は「パック・イン・ミュージック」をやり出したのです。当時は、ラジオ局のレコード資料室にB級GSのレコードがゴミみたいに転がっていましたからね。
(略)
[B級GSのは何が魅力だった?]
それは、「笑える」ということです。どういうつもりでやっているんだろうかという思いですね。僕は音楽を聴く時は、どういうコンセプトで作っているかが気になっちゃう。だから本当に舞台袖で見ている感じというか、作品に感情移入できなくて、制作意図や裏側が気になりますね。B級GSの人たちは事務所のいいなりで何も考えていなかったですから、とにかく目立てばいいということで、とんでもなくシュールな音楽が生まれたりしたのです。(略)
[GSの衰退理由は?]
やっぱり、職業作曲家を起用したことが原因だと思いますね。というのは、いい悪いじゃなくて、職業作曲家の人たちは純粋にメロディーラインを考えるわけですよ。そうするとエレキギターのコンボである必要がなくて、出来上がった曲は普通にオーケストラが入っても成立してしまう。それならバンド自体も、リードボーカルだけいればすむじゃない、ということになっていったわけです。――それは当時のGS側に、まだ、そこまでの能力がなかったからではないですか。
テンプターズの最初の二曲「忘れ得ぬ君」と「神様お願い」は、リードギターの松崎由治さんが書いています。しかも「忘れ得ぬ君」の時には、ショーケンはリードボーカルじゃなくてハーモニカを吹いているだけです。僕は最初に「忘れ得ぬ君」を聴いた時に、今まで誰も作ったことがない何かがあると感じました。構造がミニマムになっていて、ずっと同じことの繰り返し。そういう曲の構成はそれまでなかったし、あの詞からは、ムンクの「叫び」みたいな、荒野に嵐が吹きすさぶような本当に荒涼とした景色が見えて、まだ子どもながら、これがロックの景色なのかと思って感動したのです。ところが「エメラルドの伝説」になると、頭からストリングスが入っていて、悪い曲じゃないけど、今言った意味でのゾクゾクするような危険なものが感じられなかった。要するに、職業作曲家が作るようになると何かが違うな、と感じたんです。だから、テンプターズが自作を貫いていたら、日本の音楽シーンは変わっただろうといまだに思っています。
――だとすると、今の日本のJ-POPは、基本的に自作自演が多いから安泰なんですか。
ところが彼らは、基本的に洋楽が下敷きにないんです。やっぱりポップスとかロックというのは、洋楽的要素を学習したうえでないと面白味は引き出せない気がするんです。結局、日本語って英語と違い、高低アクセントでメロディーとの関係が少し強いから、ビートやリズムと言葉がうまく立体的に絡み合った時に初めて面白くなっていくので、その構造を、ある程度ロジカルに体得していないと、いい曲は書けないと思うんですよ。(略)
ただ、それとは矛盾しますけれども、そうならなかったからこそのはかなさが面白いという風流な楽しみ方はありますね。自分の中でどっちがいいのかいまだに分からないです。ただ、テンプターズの「エメラルドの伝説」を聴いた時に、これでGSブームは終焉に向かっていくだろうな、と幼心にはっきり思ったことを覚えています。
すぎやまこういち
GSは、日本歌謡界に対する大きな革命でした。
(略)
[スリーコードの歌謡曲よりハーモニー進行が変化に富み]
もう一つ、バスの進行。 (略)今までは曲のコードがラドミであればバスはラだけ。(略)それがクラシック音楽と同じように、メロディーに対するバスの進行を僕は重視したのです。たとえば「亜麻色の髪の乙女」でいうと、歌詞の「亜麻色の長い髪が」の部分は「ソソソミミミ、ソソソレレレ」に対して「ドシラソ」とバスが下りてくる。それまでの歌謡曲ですと、ソシレだから「ドソラミ」となるはずのところが、「ドシラソ」とバスが動いてくる。
(略)
[最高傑作を一曲選ぶなら「シーサイド・バウンド」]
リズムもそうだけど、実は「シーサイド・バウンド」の肝はメロディーで、曲が沖縄音階でできているんです。ドミファソシドという、完全に沖縄音階で、レとラは出てこない。(略)[ブルース音階に]背を向けて、ばっちり沖縄音階を使った。それがこの曲の一番の肝です。
コシノジュンコ
[最初にタイガースの衣装担当の話が色々あり]
スパイダース、ワイルドワンズ、オックス、カーナビーツなど、もうたくさんやりました。GSはほとんどうちが手がけていたようなものです。
――その中で印象に残っているのは。
やはりスパイダースですね。とにかく、(ムッシュ)かまやつさんは断トツでおしゃれでした。スパイダースの衣装は、かまやつさんと二人でああしよう、こうしようって言いながら作ったものです。(略)
[かまやつが中心]だからやりやすいの。「ムッシュがこう言っていたよ」「じゃあそうしようか」みたいな感じですね。ミリタリーが流行ると、あんなの作りたいねと話してみて、ムッシュがいいとなったら、それで作るんです。他の人は言うとおりにする。かまやつさんの場合は、お父さまがティーブ釜萢さんで音楽一家でしょう。だから根が違うというのかな。そういう意味では、かまやつさんのことは、みんな尊敬していましたね。かまやつさんが結婚される際の奥様のウェディングドレスも私が作りました。
亀渕昭信
[寺内タケシもC&W出身。ホリプロ、サンミュージック創業者も同様]
そのカントリー&ウエスタン出身者がロカビリーを作って、渡辺美佐(渡辺プロ)さんがロカビリーの女王さま。一九五五~五六年にはもうプレスリーの影響で、ロカビリーが社会現象になっていったわけです。ありていに言えば、そこにお金のにおいがしてきた。その結果、だんだん組織的ビジネスになっていきました。そのブームを牽引したのはやはり日劇ウエスタンカーニバルだと思うんです。
(略)
GSブームは必然だったと思うんです。GSは突然生まれたわけじゃなくて、新しい歌謡曲が出現したという印象ですね。それまでのレコード会社は作詞家、作曲家、歌手を専属で抱え、著作権も独占していた。でも、GSブームから出てきた若手作家たちは、自分の曲を多くの歌手に歌ってもらいたいので専属になることを嫌がった。そして、音楽業界もそのほうが利益が出ることを知り、少しずつ世の中が変わってくるわけです。そういった動きがあり、音楽好きの若者がどんどん増え、フォークソングというものが出てくる。フォークソングは自分たちで曲を書くんだと。既成の作詞作曲家に頼らない、自分たちで書いた曲が売れる。そして“原盤を持つ”という意識が出てくる。新しいビジネスモデルができたわけです。
(略)
今の芸能プロダクションの方たちはGS出身者が多いですよね。(略)
近年の日本の芸能界はGSの皆さんが作ったといっても過言ではないと思いますね。
次回に続く。
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