ほんとうに判断を下せるのは党派だけである。しかし党派である以上、党派は判断を下すことはできない。そのためにこの世には判断の可能性はない。あるのはただそのほのかな照り返しだけである。
誰もが真実を見ることができるとはいえない、しかし真実で〈ある〉ことはできる。
狩りに行くという口実のもとに、彼は家を出ていく。狩りに行くのだとわかっていなければ、われわれは彼を引きとめるのだが。
すべての責任が君に課せられると、君はその一瞬の機会を利用して、責任の重さに屈服してしまおうとすることもできる。しかしそうしてみたまえ、君は気づくだろう、君にはなにひとつ課せられてはいなくて、君がその責任そのものなのだということを。
訊ねなかったら、お前は押し戻されていただろう、訊ねたから、お前は大海原もう一つ分先へ、押し流される。
鳥籠が、鳥を探しに出かけていった。
悪の手に乗って自分自身を信じ込ませられないこと――そうすれば悪に対して、なにかと秘密をもつこともできるはずなのだが。
お前は練習問題だ。どこをみても生徒はいない。
どうやって世の中のことをうれしく思えるだろうか、そこへ逃げてゆくとき以外に?
ゴールはあるが、道はない。われわれが道と呼ぶのは、ためらいのことである。
悪に対して分割払いはきかないのだが、人はしょっちゅうそれを試みている。
二つの可能性――自分を無限に小さくすること、それとも無限に小さく〈ある〉こと。最初のほうは完成、つまりは無為、二番目のほうは開始、つまりは行為。
悪というものはときによると、こちらが気づいているかどうかは別として、道具のように手のなかにある。そのつもりになれば、苦もなく脇にどけることができる。
お前が家を出て行く必要はない。じっとお前のデスクに坐って、耳を澄ますがいい。耳を澄ますこともない、ただ待つがいい。待つこともない、すっかり黙って、ひとりでいるがいい。お前の前に世界は姿を現わし、仮面を脱ぐだろう、世界はそうするほかないのだ。恍惚として、世界はお前の前で身をくねらすことだろう。
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