カフカとの対話

面白いけど、こんなにカフカとの対話を明確に覚えているものだろうかと思っていたら、解説によれば「<偽書という嫌疑>を内蔵した『対話』」らしい。(ついでにBL受けしそうな雰囲気全開w)

偽書批判についての解説

著者から送られてきた原稿にカフカの姿がありありと再現されていることに驚いたマックス・ブロートは、カフカ最後の伴侶ドーラ・ディアマントからも

ヤノーホが書きとめている言葉づかいや思考はカフカならではのものだ、という証言を得た。こうしたことからブロートは『カフカとの対話』を評して、エッカーマンの『ゲーテとの対話』に比肩する貴重な書物、カフカ文学を読み解く鍵となる記録と高く持ち上げたのである。かくて『カフカとの対話』は、カフカについて書かれた本のなかで特別の位置を得ることになった。そこからさらに、まるでカフカ自身による著作のような扱いを受け、日記や手紙とならぶ正統性を有する書物として言及される事態さえ生じた

しかし著者が喪失原稿を増補したあたりから、主に増補部分に対し「偽書」との批判が高まり、解説者によれば

おそらく『カフカとの対話』は、その増補個所を中心に、かなりの部分がヤノーホの想像力の所産だろう。(略)
いったい作家言行録とは、それが第三者によって書きとめられる以上、書き手による取捨選択や読み込み、つまり一定の編集・加工の操作が入り込んでいて当然のテクストなのである。この種の書物のおもしろさや意義もまた、まさにそこから生じるといってよい。
 そのさい重要なのは、言行録の書き手が、テクスト化作業をとおして結ばれる対象イメージの写像としてのありようにどれほど意識的であるか、という点だろう。『カフカとの対話』の場合、ヤノーホはそこで提示される作家像があくまで「私のドクトル・カフカ」、言いかえれば「個人的な、しかし同時に、単なる個人を超えて働く私的宗教」の偶像にすぎないと、くりかえし断っている。そのことは、「古い追憶を選別し、整理し、訳出するにとどめておいた」というヤノーホの述懐とけっして矛盾しない。本書が提出しているカフカ像は、作家の言動にできるだけ寄り添いたいという思いから積極的な意味での「主観的」な対象理解に徹した所産、つまりかぎりなく作品に近いのだ。カフカという契機にふれたことでヤノーホの内部に必然的に起動した創造力のはたらきを指すのが、先の「私的宗教」という言葉にほかならない。そのかぎりでヤノーホは、自著の特質をよく知っていたと思われる。

著者はカフカの日記では帰ってほしいカフカの気持ちを無視して自分の関心事を語り続ける困った芸術青年として描かれている。

人間は動物に戻ってゆきます。そのほうが人間の生活よりもずっと簡単なのだ。居心地よく家畜の群に投じて、人は都市の街路を仕事場に向かって行進します、飼葉桶と満足感に向かって。それはちょうど役所におけるように、一分の狂いもなく計測された生活です。そこには奇蹟はなく、正確な使用説明書と、書式と、訓令があるだけです。人間は自由と責任を怖れ、その故にむしろ、自分ででっち上げた鉄格子のなかに窒息することを、よしとするのです

親が金持ちですよねと言われて

富とはなんでしょう。誰にだって、古ぼけたシャツ一枚がすでに富です。ある者は億万の財を抱いて貪しいのです。富とはまったく相対的で、飽き足ることのないものだ。究極のところ、あるひとつの特殊な状況にすぎないのです。富とは、人が所有する物件への従属を意味します。そうしたものを人は所有しているが、さらに新たな所有によって、つまり、つねに新たな従属によって消滅を防がねばならぬ。それはつまり物質と化した不安定、にすぎないのです。ともかく――それは両親のものなので、私のではありません

『変身』

『変身』は怖ろしい夢です。怖ろしい観念です。夢は現実をあばくけれども、その背後に観念は残るのです。これが生活における恐怖――芸術における震撼です。

スケッチ

私が近づくと、彼は用紙の上に鉛筆をおいたが、そこには投げやりな筆のスケッチで、奇態な絵が紙を埋めていた。
(略)
 「しかしこれは、人に見せられるような絵ではありません。まったく個人的な、だから読み取ることのできぬ象形文字にすぎないのです」
 彼は用紙をつかむと、両手でくしゃくしゃに丸めてしまい、机の脇の屑籠に投げ込んだ。
 「私の図形には正しい空間のプロポーションがない。それ自身の水平線というものがない。私が輪郭を捉えようとする形象の遠近感は、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に――つまり私の内部にあるのです」
(略)
「ではこの小男たちは――彼らはどこにいるのです」
「彼らは暗闇から現れて、暗闇に消えるのです」(略)「私が描きとばすのは、じつは、つねに繰り返しては失敗に終わる、原始魔術の試みなのです」

「罪とか、神への憧れとかいうものは見当たらない。すべてがじつに地上的で、目的にかないさえすればそれでよい。神はわれわれの存在の彼岸にあります。だからまたわれわれは、等しなみに良心の麻痺のなかに生きるのです。(略)われわれは身動きしない。じっと立っているだけだ。いや、立ってさえいない。私たちの大部分は不安の汚物でもって、安っぽい主義原則などというぐらぐらの椅子に貼りつけられています。これがあらゆる生活の実態です。
(略)
それから私は両親の店に行き、なにかを食べ、入金のおくれている債務者に鄭重な督促状を二、三書くのです。なにごとも起こりはしない。世はすべて事もないのです。私たちは教会の木像のように硬直しているにすぎないのです。ただし祭壇というものはありません」――彼はかるく私の肩に手を触れた。「さようなら」

デモ

 「インターナショナルの力ですね」と言って私は微笑ったが、カフカの顔は曇った。
 「あなたの耳はどうかしている。あの人たちがなにを歌っているのか聞こえませんか。あれは古いオーストリアの、およそ民族主義的な歌じゃありませんか」
 私は抗議するようにたずねた。「それなら赤旗はどういうことになるのです」
 「どういうこともなにも! 古い情熱を新たに包装し直したにすぎません」(略)
 「私はああいう騒々しい街の騒ぎに耐えられないのです」カフカは息をついて言った。
 「あのなかには、神から解放された、新しい宗教戦争の恐怖がひそんでいます。それは旗と歌と楽隊に始まって、掠奪と流血に終るのです」
(略)
「私たちは悪の時代に生きています。なにものもその正しい名前を帯びてはいないことを見ても、それは明らかです。人は国際主義という言葉を使う。それはつまり、普遍的な人類、したがってひとつの道徳的価値というつもりです。ところが国際主義という言葉は、主として地理的な実際問題を表わすにすぎないのです。概念が、実を抜いてからになった胡桃の殼のように、あちらへ転がされ、こちらへ転がされするのです。たとえば故郷ということを言います。それも現に、人間の根がすでにとっくの昔に大地から引き抜かれてしまっているこの瞬間に、です」
(略)
どのような批評が、俳優の成果を正当に評価することができるでしょう。批評というものは俳優とともに一つ舞台の上にいるのですから。そこには距離というものがない。そのためにすべてが不確かとなり、すべてが不安定となるのです。私たちは、腐敗する虚偽と幻影の泥沼に生きていて、そこでは残忍な怪獣が生まれては、リポーターの向けるカメラのレンズに向かって親しげに微笑みかける。しかも――誰もが気づかぬうちに――じつは着々と、数百万の人間を虫けらのように踏み潰してゆくのです」

表現主義の詞華集について

 「いい加減な、言葉のサラダということですか」
 「いいえ。それどころか、この本はおそるべく率直な、解体の証しです。言語は、ここではもはや疎通の手段ではない。作家はここでは、めいめいがもっぱら自分自身に向かって語るにすぎない。彼らはまるで、言葉は自分たちだけのものだ、といったやり方です。しかし言葉は、生けるものには、ただ当座の間、貸し与えられているにすぎません。私たちには、ただそれを使うことしかないのです。事実は、言葉は死者と、そしていまだ生まれぬものとに属しています。彼らの持ちものであるなら、それは慎重に扱わねばなりません。そのことを、この本の作家たちは忘れてしまったのです。彼らはことばの破壊者です。これは重大な犯罪です。言葉を傷つけることは、つねに感情と頭脳とを傷つけることであり、それは世界の暗黒化、一切の凍結を意味します」

明日に続く。