フィボナッチの兎 偉大な発見でたどる数学の歴史

マリー=ソフィ・ジェルマン

 これまでに行われた実験の中で、 もっとも美しいもののひとつは、ドイツの物理学者エルンスト・クラドニが行った振動板上の実験だ。クラドニは金属板の上に砂を散らし、バイオリンの弓ではじいた。すぐに砂が跳ね、 クラドニ図形と呼ばれる素晴らしい模様が浮かび上がる。ほとんど魔法のようだ。

 ナポレオンもまさに魔法だと思った。1808年、クラドニが彼の目の前で金属板をかき鳴らしたときだ。皇帝ナポレオンは、何が起こっているのかを説明できる数学者に、 金1キロの賞金を与えると告げた。 しかしほとんどの数学者は歯が立たず、大金を得ることができなかった。そこでひとりの若い女性、マリー=ソフィ・ジェルマンが問題に全力で取り組み、金属が応力を受けて曲がったり跳ね返ったりする仕組みを解明し、弾性理論に大きな進歩をもたらした。

 マリー=ソフィ・ジェルマンは数学史の中でもっとも並外れて優れた人物のひとりだ。1776年、パリに生まれ、13歳のときにフランス革命を経験した。 家に閉じ込められたソフィは、 父親の書斎で見つけた数学の本に夢中になった。 しかし数学に情熱を傾ける姿勢が女性にはふさわしくないと考えた両親は彼女の暖かい服と火を取りあげて、夜に勉強するのを止めさせた。 ソフィは寝具の下で震えながら、両親が折れて許してくれるまでさらに熱心に本を読みつづけた。

 ソフィ・ジェルマンは男性名オーギュスト・ル・ブランを名乗って名門エコール・ポリテクニークに入学したが、 結局、 学科主任を務めていた偉大な数学者、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュに身元を明かさなければならなくなった。ラグランジュは彼女の数学的な能力に感銘を受け、生涯にわたる後援者となった。

 ジェルマンが困ったのは、女性ゆえに、学校の課程のいくつかを履修することが許されなかったことだ。 そのため、天賦の才能を持ちながら、 数学の基本的知識の一部を学ぶ機会を逃してしまった。 その後オイラーの研究に触発され、1811年に弾性方程式をつくりあげ、クラドニ図形の賞の審査を行っているフランスの研究所に研究成果を提出した。 しかし、唯一の応募者だったにもかかわらず、 初歩的なミスがあったために受賞はできず、賞は翌年に繰り越された。

 ラグランジュは、彼女の研究を助ける方程式を提案した。 ジェルマンは、ラグランジュの方程式が実際にいくつかクラドニ図形を生み出すことを実証できていたものの、数学的な誤りを犯した。 そんなわけで、2度目の挑戦でまたもや唯一の応募者だったジェルマンは賞を受けられず、「名誉ある言及」 を受けただけだった。

 その後、1815年に3回目の募集があり、ついにジェルマンは賞を授与された。しかし、ほろ苦い受賞だった。彼女はほかのすべての数学者が諦めた問題の答えを出し、ようやく賞をとったが、式典の直前に賞の審査員のひとりであり、 弾性理論に取り組んでいたシメオン・ポアソンがちょっとしたメモを送ってきたのだ。 ジェルマンの論文には欠陥があり、数学的な厳密さが欠けているという指摘だった。

 その後もジェルマンは弾性現象の研究をつづけ、1825年に論文を研究所に提出した。 しかし、 ポアソンらで構成される研究所の委員会はこれを無視し、55年のあいだ論文は行方不明になっていた。 最終的に論文は1880年に発表され、ジェルマンが弾性研究の歴史において重要な一歩を踏み出していたことが明らかになった。

 ジェルマンの知己のひとりだった数学者オーギュスタン=ルイ・コーシーは、ジェルマンの失われていた論文を読み、出版するように助言した。 1822年、コーシーは、 応力波が弾性材料をどのように伝わるかを示す、画期的な論文を書いた。この論文は、「連続体力学」という科学分野のはじまりを告げた。 この分野では、材料を粒子の集合ではなく、連続した物体として扱う。ジェルマンの成果がコーシーに大きな影響を与えたとしても不思議ではない。

 ジェルマンの研究はさらに、クラドニ図形が板に表れるのは、板上の振動しない部分だということを示した。 バイオリンの弓が板を振動させると、砂は徐々にいくつかの振動しない領域に向かって揺れ動き、そこにとどまって溜まっていく。これらの振動しない領域の模様は、バイオリンの弓にこすられた板がわずかに曲がる、その曲がり方によって決まる。もちろん、板が曲がるのは1度だけではない。それは、ねじれた定規のように、前後にわずかに曲がって振動する。板のわずかな歪みは、板を通過する波として広がる振動といえる。

 ジェルマンは、弾性体に伝わる波の形状に関する研究成果を総括して、次のように述べている。 「弾性体の表面上の1点で、その点における表面の主曲率半径の総和と弾性は比例する」。

(略)

 ジェルマンは晩年をフェルマーの最終定理の研究に費やした。彼女は部分的な証明のひとつを考え出し、ある種の素数も定義した。この素数は現在ソフィ・ジェルマン素数と呼ばれている。この研究は、1990年代におけるこの難問の最終的な解決に大きく貢献した。

ナイチンゲール

 大学教育から女性が排除されていた時代のイギリスで、フローレンス・ナイチンゲールは、先進的な家庭のもと、高水準の教育を受けた。 彼女が情熱をかたむけて学んだのは、数学、特に統計学だ。彼女は9歳で家庭菜園の農産物の詳細な記録をつけていた。ナイチンゲールチャールズ・バベッジなど当時の主な知識人の面識を得て、統計学の新たな領域に触れた。

 ビクトリア朝時代、印刷と通信技術が発展し、 「ビッグデータ」の収集やその分析が可能になった。 新しいデータを手間なく収集するには、データを完全に理解し、データ内のパターンを識別する、新たな数学が必要だった。

 ナイチンゲールは、 データを表す新しい方法として棒グラフと円グラフに注目し、 そして社会問題の調査にデータを使用するという新たな試みをはじめた。 彼女は、 定量的な証拠によって、政策、特に公衆衛生に関わる政策を変えられるかを模索したのだ。その頃、人道主義者たちが、女性に看護師として働くよう呼びかけているのを知った。彼女が属する階級の女性が看護師の職に就くのは珍しかった。しかし、彼女にとって看護師は自分の考えを実地に試す完璧な職業だった。1853年、彼女はハーレー通りにある婦人科病院の無給の看護師になった。翌年3月、クリミア戦争が勃発したのだ。

 戦争中、 死者の大部分は病気によるもので、死亡率はおそらく戦闘を原因とする負傷によるものの10倍に及んでいた。こうした病気の多くは予防可能だった。今日では、よりよい食生活や感染症の防止策、衛生状態の向上などに取り組めば、 多くの命が救われるのは明らかだとわかっている。しかし当時の医学界と軍の上層部にとっては明らかではなかったようだ。

 1854年11月、ナイチンゲールコンスタンティノープルのスクタリにある陸軍病院に着任した。状況は最悪だった。最初の冬に4000人を超える患者が亡くなり、彼女が後で書いたように「兵士たちは兵舎で死ぬために入隊したようなものだった」。状況の表面的なみすぼらしさではなく、ナイチンゲールはその根本的な原因、つまり管理上の混乱に気づいた。汚物と栄養失調に加えて、処置に一貫性がなく、患者には生き残るチャンスがほとんどなかったのだ。

 ナイチンゲールはすぐに体系的にデータを収集しはじめた。 標準化された医療記録、病気の一貫した分類、食事の正確な記録、幸運にも助かった患者の回復までの時間などだ。確かなデータに基づいた分析により、解決策も明らかになった。病院の徹底した「衛生改革」と看護要員の厳格な訓練だ。ナイチンゲールの在職期間中、60%だった死亡率は2%まで低下し、彼女がイギリスに英雄として帰還したときは、詩に 「ランプ (光) を手にする貴婦人」と讃えられた。しかし彼女は、手にランプではなくデータを持つ女性でもあったのだ。

(略)

[確かな証拠を集めること]にもまして難しいのがデータの分析結果をいかに表現するかである。ナイチンゲールは後者の困難を克服するために役立つグラフを考案した。それは、腰が重い政治家たちを突き動かすほど説得力のある、わかりやすいグラフだった。

(略)

視覚的で、色分けされた図は、表の数値を比べるよりはるかに人の目を引き、 かつ有益だ。実際、広範な医療改革につながった。(略)

エミー・ネーター

 100年ほど前、ある数学者が、現代物理学を形づくる定理を発見した。 それは非常に画期的な定理で、物質とエネルギーに関する新たな洞察を生み出す上で、今なお大きな役割を果たしている。その発見者は、ドイツの数学者エミー・ネーター(1882~1935年) だ。 アインシュタインはネーターを「創造的な数学の天才」と称した。それにもかかわらず彼女は、専門家の学界の外ではほとんど知られていない。

 この不十分な評価は、おそらく彼女の性別によるものだ。当時、女性数学者に対する偏見は根強く、ネーターは彼女の足を引っ張る障害にずっと直面していた。ゲッティンゲン大学で彼女はいくつもの偉大な研究成果を上げたが、大学当局は女性が数学の講義を行うのを許さず、4年間 「ダフィット・ヒルベルトの助手」として教壇に立った。彼女の数学研究は最先端のものだったため、 専門家以外には彼女の研究の意義がなかなか理解できなかった。

 1915年、アインシュタイン一般相対性理論を世界に発表した。それは非常に理解しにくい理論だったが、 それでも数年後にネーターの定理が登場したおかげで、アインシュタインの理論に開いていた大きな穴がふさがれ、物理学の保存則に関する新たな洞察を深めることになった。

(略)

 ニュートンの運動法則のひとつは、運動量保存則だ。横一列に並んだ金属球の両端の球だけが左右に振れる不思議な動きで目を楽しませてくれるニュートンのゆりかご (日本では 「カチカチ玉」とも呼ばれる) は、運動量保存則を表す格好の例だ。ほかに角運動量保存則もある。 スピンするスケーターが、腕を縮めると速度が上がるのも角運動量保存則が成り立っている証拠だ。

(略)

一方、エネルギー保存則は、19世紀以来、 自然のもっとも深遠な法則のひとつとして認識されている。これは、どんな系においてもエネルギーの総量は常に変わらないという法則だ。 (略)この法則は非常に基本的であり、どんな物理理論でも無視できないとされた。

 しかし、 アインシュタインの理論においては事実上無視されていた。

(略)

ヒルベルトとクラインは、不変量の数学の専門家の助けが必要であることに気づいた。(略)そして彼らはゲッティンゲンにいる同僚、エミー・ネーターに声をかけた。

 ネーターは物理学にまったく興味がなく、エネルギー保存則の問題を純粋に数学的な問題として捉えていた。 彼女はこの問題に、当時の最先端の数学である変換と対称性を用いて取り組んだ。変換とは、たとえば物体を拡大、回転、平行移動 (場所のみを移して他に何も変えない)したときに何が起こるかについて考える分野である。一方、複雑な代数方程式を解くために対称性 (類似した項の群) を使うという発想は、 さらに1世紀前、ガロアによって導入された。ネーターの頭脳は、代数方程式を解くために使うのと同じように、 対称性を使って保存則を探索しはじめた。

 ほどなくネーターはふたつの定理に行き着いた。そのうち2番目の定理は、一般相対性理論が特殊な事例であることを示した。 ヒルベルトとクラインが疑っていたとおりだ。エネルギーは、一般相対性理論のもとでは局所的に保存されないかもしれないが、宇宙全体では保存される。そして、真に画期的だったのは1番目の定理のほうだった。

 ネーターの1番目の定理は、すべての保存則に共通する性質があることを示した。 エネルギー、運動量、角運動量、そのほかすべてだ。すべてが対称性によってつながっているのだ。すべての保存則にはそれにかかわる対称性があり、その逆も成り立つ。ネーターの定理は、各保存則の基礎にある対称性を見つけるための方程式を提供する。エネルギー保存則には、時間の並進対称性、運動量保存則には、空間における平行移動の対称性がそれぞれ対応する。言い換えれば、これらの保存則は、物体がどちらの方向を向いても、時間をさかのぼっても同じだからこそ成り立つ。基本的な物理方程式は、空間や時間に左右されないのだ。

 ネーターの論文 「不変量の変分問題」は1918年7月23日に発表された。

(略)

 ネーターの画期的な論文以来、彼女の1番目の定理の影響力はますます大きくなっている。1970年代、物理学者はすべての既知の素粒子を、標準モデルと呼ばれる枠組みに収めた。これはネーターの定理によって組み上げられた枠組みで、対称性に依存する。対称性によってヒッグス粒子の存在が予測され、2012年に最終的に確認された。

 驚くべきことに、今日の物理学者はネーターを保存則と対称性に関する定理の発見者として崇拝しているが、その一方、数学者は、ネーターを抽象代数学へ大きな貢献をした人物として記憶している。抽象代数学は、代数的構造の全体を理論的に研究する分野だ。エミー・ネーターは、間違いなく20世紀のもっとも偉大な数学的頭脳のひとりだった。