カフカの<中国>と同性愛

カフカの“中国”と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟

カフカの“中国”と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟

ミシェル・フーコーが論じるように、もとより男色という「行為」であった男同士の性愛は、近代に入って同性愛者という「種類」へと形を変えられた。その状況下では、自分が同性愛者に分類されることを恐れる心情(ホモフォビア)が広まり、ノーマルな男同士の関係はそのつど、自分は異性愛者であるというポーズを前提とせざるをえなくなる。(略)ところが、これに対して世紀転換期のドイツ語圏では、性愛的なものをも含む男同士の関係を「男性的な男性」の健全な文化として推奨し、ホモソーシャルなものとホモセクシュアルなものの連続性を可視化するような動きが起こったのである。

カール・クラウスの『万里の長城

[若い皇帝と側近を苦々しく思っていた引退後のビスマルクは彼等の同性愛疑惑を示唆。ハルデン主幹の雑誌『未来』が記事にして皇帝は高官・将軍三人を解任。そのひとりモルトケ伯がハルデンを名誉毀損で訴え裁判に。その最中の1907年カール・クラウスは]
「女性的なものを男の中にまで求める者は『同性愛的』だとは言えず、同性愛的行為を行なっていても『異性愛的』である」。彼の考えでは、相手が同性であるという心理的抵抗を超克してまで男性のもつ女性的魅力を愛でることができるほどの「全き男性」は、「病人」としての同性愛者(=女性的な男性)の、むしろ対極にあるような存在なのである。(略)
[さらに1909年エッセイ「万里の長城」では「黄禍」が]
キリスト教文明の中で「とうに女になっている」白人男性に対する黄色人種男性の性的脅威として捉えなおされている。クラウスは、中国で出生率がきわめて高いらしいことを一つの根拠に、ニーチェ流の超人じみた性的強者としての中国人像を執拗に描き出す。(略)
中国で社会的に認められた「少年愛」とは男性が同性のもつ女性的な要素を愛するという行為であるのに対し、西洋の「同性愛」なるものは、性への罪意識にもとづくキリスト教道徳によって歪められた性生活から生まれた病理学の、そのまた落とし子であるというのだ。クラウスは、あいかわらず典拠不明の性風俗研究を参照しながら、中国では男性同士の性愛が上流社会に、ひいては皇帝の周辺にまで及んでいると語る。(略)
エッセイ全体の結論として、キリスト教道徳という名の「長城」(壁)で囲われているのは、実は中国ではなく西洋社会のほう(略)西洋文明の抑圧的な性秩序と、中国における解放的な性愛のあり方(とクラウスの考えるもの)とが対置され、後者の優越が説かれている
[マックス・ノルダウ『退化論』に代表されるように、西洋文化が病んでいるという強迫観念はまさに時代の空気であった]

エーレンフェルス

白人の社会が「黄色」の奔流に蹂躙され「モンゴル化」される希望を語ったのは、実はクラウス一人だけではない。(略)
性的豊穣を奨励したクリスティアン・フォン・エーレンフェルスの教えは、ただし決して性的放縦を擁護するものではなく、逆に「禁欲」の勧めを基調とする、むしろピューリタン的なものであった。(略)
単婚制のせいで白人という種は生物学的退化の危機に瀕しており、この状況を変えるためには単婚制からの「男性解放」が必要である。さもなければ、いずれ新たな「競争相手」、すなわち多婚制ゆえに日の出の勢いで増殖しつづけるモンゴル人種に敗北し、白人全体が「モンゴル化」される危険性があるというのだ。(略)
カフカプラハ大学で、このエーレンフェルスに教えを受けた。
[マックス・ブロートは自伝で「大昔のような服装」でプラハの街中を闊歩する孤独な「奇人」として敬意をこめて描写している。彼の説は]
当地の市民社会で「抗議の嵐」を巻き起こし、さらにエーレンフェルスが自らユダヤ人の血を引いていることを認め、その事実を「誇りにする」と言明したために、反ユダヤ主義的な風潮を煽り立てることになったという。

ハンス・ハイルマン

[カフカが「中国人学者」のイメージを汲んだ『中国抒情詩集』編訳者]
 こうした帝国主義批判の姿勢にもかかわらず、というよりもその姿勢ゆえに、ハイルマンは「偏見を排した」中国像を提示するどころか、逆に一段と古い固定観念へ接続することになる。(略)
[中国民族は周以来停滞状態にあり]
「男らしくない」中国人たちが住まう「何も変わらない」平和な家父長制社会
(略)
多婚制の導入以降、公的領域からの女性排除と極端な男性支配が現出した(とハイルマンが考える)中国社会(略)
李白杜甫などの詩人たちが皇帝とも個人的友誼で結ばれつつ「詩人同盟」を形成し、情熱的に同性間の友情を謳い上げているという構図であった。(略)
ハイルマンは、黄禍論に対抗してむしろ古色蒼然たる中国人ステレオタイプに依拠することで、結果的に、「非男性的な男性同盟」とでも言うべき二律背反的な図を読者の眼前に描き出したのであった。
 杜甫李白に贈った詩に特別な愛着を示したというカフカもまた、その図を十分に意識しつつ中国詩集を読んだと見なすのが妥当であろう。

流刑地にて

[『流刑地にて』を寓話としてではなく、具体的事柄として解釈するのが現在流行。転換点となったのはW・ミュラー=ザイデルの研究]
流刑地にて』というテクストが同時代の現実的状況にいかに深く結びついていたかを明らかにした。つまり、若き日のカフカが体験した世紀転換期はドイツ語圈において流刑を法制度に組みこむ可能性がにわかに現実味を帯びた時期に他ならなかったのである。(略)植民地獲得競争に出遅れた国ドイツは、もとより流刑植民地というものを所有しなかった。しかし1880年代中盤を境にドイツが植民地経営に積極的に乗り出すようになると、1890年代から20世紀初頭にかけて、流刑制度の導入は活発な議論の対象となったのだった。(略)
[カフカプラハ大学で刑法を学んだハンス・グロースは浮浪者・アナーキスト・同性愛者などを植民地で自然淘汰に委ねることを提唱。刑法学者ローベルト・ハインドルは仏英等の流刑植民地を歴訪、当地の刑法制度を見聞し]
1913年、旅行記流刑地への旅』にまとめた。[流刑囚や拷問装置の]豊富な写真資料を収録して現地の様子を生々しく伝えるハインドルの書物は、出版後まもなく大きな反響を呼んだ。カフカが『流刑地にて』を書く前年のことである。

責苦の庭

フランスのアナーキスト作家オクターヴ・ミルボーが1899年に出版し、1901年にはドイツ語に訳された(略)H・ビンダーは、『流刑地にて』がほぼ全編にわたってミルボー作品からのモチーフ借用によって成り立っている事実を徹底的に洗い出してみせたのだった。
(略)
ミルボーがドレフュス事件の渦中にあって執筆した作品であり、そこには反ユダヤ主義に狂奔するフランス社会への批判が結晶している。(略)カフカは同時代のユダヤ人の一人として、ドレフュス事件には強い関心を寄せていた。(略)カフカの描く流刑地で「フランス語」が話されている点は、ドレフュスが悪魔島へ流刑されたことを思わせる。

彼は二年間の別離を経て、とある中国南部の町でクララと再会する。この町には「責苦の庭」と呼ばれる処刑場があり(略)そこで凄まじくも多種多彩な拷問・処刑のありさまを見聞することになる。(略)憑かれたように残虐行為を求めるクララの姿には、ありとあらゆる拷問が行なわれる「責苦の庭」そのものが重ね合わされ、そのすべてが病気と死と腐敗する肉のイメージで染め上げられていく。そこでは主人公の白人男性から見た他者としての「女性」および「中国」が一つに融合している観がある。
(略)
[主人公を挑発するクララの言葉]
あなたはヨーロッパの色男でしかないのね。臆病で、寒がりの子猫ちゃん、カトリシスムのおかげで自然を怖がることと、セックスを憎むことを馬鹿みたいに教えこまれてしまったのね。あなたの中の生命の感覚は教会のおかげで歪められ、腐らされてしまったんだわ