ムーンウォーク マイケル・ジャクソン自伝・その2

前回の続き。

 モータウンからの独立

スティーヴィー・ワンダーが、論争の的になった[ニクソン批判の]「ユー・ハヴント・ダン・ナッシング」という力強い曲のバック・コーラスを僕らにさせてくれたことは、モータウン時代の最後の、いい思い出のひとつです。スティーヴィーとマーヴィンはモータウンに残り、戦い、そして、自分自身のレコードを出すだけでなく、自分の曲に関する出版の権利をも勝ちとったのです。にもかかわらず、モータウンは僕らジャクソン5に対しては、これっぽっちも態度を変えようとしませんでした。(略)彼らからみれば、僕らはまだ単なるガキでしかなかったわけです。

(略)

 僕は、おかしいと思った時にははっきりとそう言わないと気がすまない人間です。(略)

[兄も父も何も言わなかったのでベリー・ゴーディーと]直談判するのは、僕の役目になったわけです。(略)

それは、僕が今までにしてきたことの中でも一番ヘビーなことのひとつでした。(略)

 もちろん、僕はベリー・ゴーディーが大好きです。(略)[天才で巨匠で]聡明な人です。僕は、まさに、彼を尊敬しています。

(略)

ベリーは、怒りにまかせて話していました。それはつらい話し合いでしたが、今はまた、ふたりはいい友達同士です。

(略)

 僕らはついに思いを遂げて、自分たちを縛っていたものを断ち切って、ほっとしたのですが、ジャーメインがモータウンに残ることを決めた時には、とても荒んだ気持ちになりました。(略)

 彼なしで演った最初のショーのことは、はっきりと覚えています。僕にとって、それは本当につらいものだったわけですからね。僕がステージに立ち始めた頃からずっと、ゲイリーの自宅の居間で練習していた時から、いつだってジャーメインは僕の左側に、ベースを持って、立っていました。(略)彼なしの、僕の隣に誰もいない最初のショーを演った時、僕は生まれて初めて、舞台の上で自分が丸裸になっているような気分を味わったのです。

(略)

 ジャーメインが抜けた当時、僕らはテレビのくだらない夏の特別シリーズに出演していたために、状況はさらに複雑になっていました。その番組をやることに同意したのは、本当に愚かでした。僕はその番組のすべてが、嫌で嫌でたまらなかったのです。
 僕は以前の、ジャクソン5のアニメ番組が大好きでした。土曜の朝、よく早起きをしては言ったものです。「僕がアニメになっちゃった」。しかし、今度のテレビ番組をやるのは嫌でした。(略)

レコーディング・アーティストにとって、テレビのシリーズ番組なんて最低の仕事だと思います。(略)

僕らはこっけいな衣装を着て、すでにテープに録音された笑い声に向かって、馬鹿げた喜劇のおきまりの所作を演じなくてはなりませんでした。本物ではなかったのです。(略)

デッドラインに間に合わすために、一日に三曲もダンス・ナンバーを作り出さなくてはならないのです。毎週毎週、二ールセンの視聴率が僕らの生活を支配していました。僕はもう、二度とこんなことをしたいとは思いません。

(略)

 僕はコメディアンではありません。僕は番組の司会者でもありません。僕はミュージシャンです。だから、グラミー賞アメリカン・ミュージック・アワードの司会を断ったのです。心の中ではおかしくも何ともないと自分では思っているのに、舞台に上がっていくつか軽い冗談を言って、ただ単に、僕がマイケル・ジャクソンだからということで人々に笑ってもらったとしても、それが果たして本当に面白いことなのでしょうか。

(略)

[エピック移籍時]ニューヨークのCBS本社で会談が行われた時、僕はまだ十九歳でした。十九歳にしては重責を背負っていたのです。

孤独、恋人

『オフ・ザ・ウォール』がその後大成功を収めたとはいえ、この時期は僕の人生の中でも一番つらい時期でした。当時、僕にはまったく親友がいなくて、すごく寂しかったのです。(略)友達にまでなれそうな人と出会えるかも知れないと思って、僕は、よく近所をうろうろしたものです。僕が誰なのか知らない人と会いたかったのです。誰かということなど関係なく僕のことを気に入ってくれて、自分と同じように友達を欲しがっている人を求めていたのです。誰かに会いたかったのです。近所の子供とか、誰でもよかったのです。
 成功は確実に孤独をもたらします。これは真実です。人々は、「ラッキーだな、すべてを手に入れて」と考えます。どこにでも行けるし、何でもできると考えるのですが、それは的外れです。人は基本的なものを渇望するのです。

(略)
 初めてのちゃんとしたデートは、テータム・オニールとでした。(略)

[クラブで電話番号を交換し、電話でよく話すように]

初めてのデートは、ヒュー・ヘフナーのプレイボーイ邸宅でのパーティー(略)
突然、柔らかな手が差しのべられ、僕の手を包んだのでした。それが、テータムだったのです。およそ人には、こんなことはどうでもいいことなのでしょうが、僕にはとても重大なことでした。彼女が僕に触れた!そんなふうに感じたのです。(略)

僕は彼女に、そして彼女は僕に恋をし、長い間、とても親しく付き合いました。結局は、良き友達という関係になってしまったのですけれど。今でも時おり、僕たちは話をしますが、彼女は僕の初恋の人だったと思います。ダイアナは別として。
 ダイアナ・ロスが結婚すると聞いて、僕は喜びました。彼女が喜びでいっぱいだと思ったからです。とはいえ、僕の知らない男性とダイアナが結婚したことに、感きわまったふりをして歩かねばならなかったので、結構つらいものがありました。彼女には幸福になって欲しかったのですが、少しは傷つき、嫉妬したことを認めなければいけませんね。だって、僕はずっとダイアナのことを愛していたわけですし、そして、これからもずっと愛していくのでしょうから。
 もうひとりの恋人はブルック・シールズでした。僕たちはしばらくの間、真剣にロマンティックな恋をしていたのです。

 エルヴィス・プレスリー

[ジャクソンズ『トライアンフ』についての話の中で]

ひとつだけ、異色な曲があります。「ハートブレイク・ホテル」です。誓って言いますが、これは僕の頭から出てきたフレーズで、書いている時に、他の曲のことなど考えていませんでした。エルヴィス・プレスリーの曲との誤解を避けて、レコード会社はジャケットに、「ジス・プレイス・ホテル」と表記しました。音楽界にとってエルヴィスは、白人だけでなく黒人にとっても、重要な存在だったのですが、僕は、まったく彼の影響は受けていません。思うに、僕にとって、彼はひと昔前の存在だったのです。出会いのタイミングがなかったのかも知れません。この曲が世に出る頃、人々は、僕が今のような隠遁生活を続けるなら、エルヴィスのような死に方をするかも知れないと考えていましたからね。僕に関する限り、彼と似ているところなどありませんし、僕は人を驚かすような戦術はあまり好きじゃありません。でも、エルヴィスが自分を滅ぼしていった過程には、興味を持っています。僕は、そんな道を歩きたくはありませんから。

グラミー賞への怒り

『オフ・ザ・ウォール』は、その年最も売れたレコードの一枚だったのに、僕はたったの一部門、R&B最優秀ヴォーカル賞にノミネートされただけだったんです。その知らせを聞いた時のことは今も覚えています。同業者に無視されたように思い、傷つきました。業界でもそのことには驚いた人が多かったと、後になって知りました。僕は落胆し、同時に、次のアルバムのことで頭がいっぱいになりました。僕は「次の機会を待つんだ」と、自分に言い聞かせたのです。連中は次のアルバムも無視するというわけにはいかないはずです。授賞式はテレビで見ました。

(略)

僕はひたすら考え続けました。「次回だ、次回だ」。いろんな意味で、アーティストは仕事次第なのです。

(略)

この経験で、僕の魂に火がつきました。僕は次のアルバムのこと、今度は何をやるかといったことしか考えられなくなったのです。本当にものすごいアルバムにしたかったのです。

ムーンウォーク

[モータウン25周年番組のために兄弟たちと練習]

少しばかりジャクソン5の時代のようで、素敵に感じられました。

(略)

 僕は翌日マネージャーの事務所に連絡をして、こう言いました。「スパイの帽子を取り寄せてくれないか、寒色のフェードラ帽みたいな、ほら、諜報部員の連中が被るようなやつだよ」。僕は不吉で特別なやつを、本当に縁のたれた種類の帽子を求めていました。そのくせ、僕にはまだ、「ビリー・ジーン」をどう演るかについては、いいアイディアがなかったのです。

(略)

収録の前の晩になっても、ソロ・ナンバーをどう演るかについては、依然としてアイディアがない状態でした。そこで、僕は自宅のキッチンに降りていき、「ビリー・ジーン」をかけたのです。大きな音で。僕はひとりで(略)曲が僕に語りかけてくれるのをじっと待ちました。(略)

ビートが体に入ってくるのを感じると、例のスパイ帽を被り、「ビリー・ジーン」のリズムが動きを作ってくれるままに、ポーズを取り、ステップを踏み始めました。(略)

 パフォーマンスの大部分は、実際、即興で湧いてきたものなのですが、いくつかのステップと動きを、僕は以前から練習していました。ムーンウォークの練習にはそれなりの時間をかけました。(略)
この頃までに、このムーンウォークはもう路上のダンサーたちの間では流行りつつあったのですが、僕がやったことで、少しばかりその評価が高まったと思っています。ムーンウォークはブレークダンスのステップとして、黒人の子供たちがゲットーの街角で作り出した“ポッピング”というタイプのステップから生まれたものです。(略)

ムーンウォークを僕に教えてくれたのは三人の子供たちでした。彼らから、その基本を授かると、ひとりで何度も何度も繰り返し練習しました。それから僕は、他のステップと組み合わせてみました。

(略)

兄さんたちとの演奏を終えると、僕はステージを横切り、こう話しました。「みんな、とっても素敵だよ!僕は、あの頃はとってもいい日々だったと思う、ジャーメインも含めて、兄さんたちと一緒に、魔法にかけられていたような時だったと思うんだ。だけど、僕が本当に気に入っているのは……」ネルソンが僕の手に帽子をそっと渡しました。「……もっと新しい歌なんだ!」。僕は振り向き、帽子をつかみ、「ビリー・ジーン」の強烈なリズムに入っていったのです。僕には観客が心から僕のパフォーマンスを楽しんでくれたことがわかりました。

(略)

本当にいい気持ちになりました。でも、それと同時に、自分に対してがっかりしてしまったのです。僕の計画では、かなり長いスピンをし、両足のつま先で止まり、しばらくそのまま静止しているはずでした。ところが、僕は、自分が望んだほど長くは静止できなかったのです。僕は回転し、片方のつま先で着地したのでした。僕は、凍ってしまったように、そこで静止していたかったのですが、思っていたほどにはうまくいかなかったのです。
 バックステージでは、戻ってきていた人たちが僕を祝福してくれました。僕は依然としてスピンのことで気分が滅入っていました。ずっとそのことだけに神経を集中させてきたのですし、僕は完璧主義者ですからね。

整形疑惑への反論

[菜食主義になり]

 体重が減るにつれて、徐々に僕の顔は今のようになっていったのですが、形成美容で容貌を変えたと、マスコミは僕を非難し始めたのです。

(略)

古い写真では、僕の顔は丸くて太っています。髪形はアフロ・ヘアをしていて、照明もひどいものです。最近の写真では年齢も上になり、より成熟した顔になっています。(略)それに、最近の写真では、照明も見事なものになっています。こんな比較は本当にフェアじゃありません。

(略)

 ここで、僕の形成美容に関する記録を正しいものにしておきたいと思います。僕は頬や目は手術していません。唇を薄くしたり、皮膚をこすってはがしたり、むいたりもしていません。そんなことをするなんて、馬鹿げています。もし、それらが事実なら、僕はそう言うでしょう。しかし、事実ではないのです。鼻は二回手術しましたし、最近、あごに割れ目をいれました。でも、それでおしまいです。もう言うことはありません。他人が何と言おうと僕は気にしません。これが僕の顔です。僕にはわかっているのです。

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