モータウン〜 その3 競争、マナー、振付

前日の続き。

競争

 毎年デトロイトのフォックス・シアターで行なわれるクリスマス・ショーもまた、激しい競い合いの場だった。まる一週間、一日五回のショーが行なわれるこの期間、モータウンのトップ・アーティストたちはベリーにあおられるようにして、互いに相手よりもすごいステージをやろうと全力を尽くした。評判のよいアーティストほどプログラムの後の方に出演できるという原則が決められ、“出番の後の拍手歓声で、次の出演者の紹介も聞こえないほど”だった場合にのみ期間中でも出演順が差し替えられる仕組みになっていた。ショーとショーの合間でも、フィルムの上映中でも、あるいはショーの最中でさえも、ベリーや彼の姉たち、その他モータウン・ファミリーの一員であれば誰でも批評を述べて出演順位の変更を提案できた。アーティストの自尊心は容赦なく傷つけられ、そこかしこで言い争いが起きた。全員が最高のステージにしようと闘志を燃やしたが、それこそベリーの狙いだった。
 このようにいつも張りつめたような状況には暗い一面もあった。何人かの作曲家が作曲中に盗聴されたといって騒いだこともあったし、ジョーベートの下積み作曲家の書いたすぐれた曲をプロデューサーがすばやく買い取り、自分の作品としてクレジットし、印税を不正に稼いでいるという噂もあった。クラレンス・ポールが後日デヴィッド・リッツに語ったところでは、「曲が盗まれるなんてことは日常茶飯事だったし、クレジットもいいかげんなことが多かった」ということだ。ビーンズ・ボウルズは〈フィンガー・ティップス・パート2〉を言いたのはじつは自分だと言っている。マーヴ・ジョンソンは〈カム・トゥ・ミー〉の作者はベリーではなく自分だと、デトロイトのある新聞紙上で語った。もっともこの二件に関して、二人とも印税の支払いを求める訴訟を起こしたりはしていないが。
(略)
モータウンでは、本当にすべてが競争だった。それが、次々とスターを生み出す原動力になっていたんだ」とノーマン・ホイットフィールドは言う。
 つねに緊迫した雰囲気は、販売部門にもみられた。
(略)
[バーニー・エイルズ]はディストリビューターのでたらめを許さなかったし、モータウンにさまざまな便宜をはかるよう要求し、支払いについてもきびしい態度をくずさなかった(略)
 あるモータウンの古株の回想。「彼が電話しているのをよくそばで聞いてたけどね。『うるさい、とにかくそのレコードを売るんだ!』って彼が言うと、本当に売れはじめたから不思議だよ。『どういう意味だ? そんな言い訳など聞かん!』とかよくどなってたな」エイルズはディストリビューターの扱いが巧みだった。支払いが悪いと、話題のレコードが発売になっても流すのを遅らせるとか保留にするとか、他のディストリビューターにのりかえるとか言って脅したのである。
(略)
[CBS副社長談]
“そのうちモータウンだって落ち目になる。そうしたら今度は俺たちが儲ける番さ”と誰もが思っていた。でもモータウンは落ち目にはならなかった」(略)
集金がうまくいかない地域があると、その筋の知り合いに『あいつが金を払おうとしないんだ』って頼みこむ。すると何日か後にはちゃんと金が入ってくる。そんな時代だった」
こういう物騒な状況の中で、バーニー・エイルズの容赦ないやり方は効果的だった。
 かといって、モータウンがもうすこしソフトな方法を心得ていなかったわけではない。当時のインディー・レーベルでは常識となっていた(そして現在のレコード業界でも一般的に行なわれている)“ディール”という一種のディスカウント契約である。“ディール”の基本単位はレコード1300枚。(略)
ディストリビューターが1000枚のオーダーをした場合、300枚の無料レコード、別名“無料の粗品”がついてくる。この300枚に関しては、契約上モータウンは印税をごくわずかしか払わないかまったく払わないかのどちらかだ。しかし、1300枚が基本単位といっても、モータウンの場合いったんヒットになればオーダー数はずっと多くなる。この方法でゆくと多額の現金がよりスムーズに流れることになった。

スティーヴィー・ワンダー

モータウンのスタッフの中で、スティーヴィーにとって後々まで一番重要な影響をおよぼすことになったのはA&Rアシスタント・ディレクターのクラレンス・ポールだった。シンガーの母親を持ち、ショービジネスの世界に親しんで育ったポールはスティーヴィーを自分の子供のように扱ったし、本当の父親に接するチャンスがあまりなかったスティーヴィーも、親代わりになったモータウンの人々の中でもとくにポールを、一番大切に思ったのだった。「クラレンスは本当にスティーヴィーのおやじといった感じだった」とチョーカー・キャンベルは言う。「彼がスティーヴィーを正しい方向へ導いたんだ」ギタリストでヴァイブ奏者のデイヴ・ハミルトンも同じ意見だ。「クラレンスがスティーヴィーを作りあげたと言っていい。スティーヴィーはよくクラレンスの家へ行って〈マスカレード〉みたいなスタンダード曲を教わってたな。そんな曲を、彼のような年の子供が歌うのを聴いて、みんなびっくりしたもんさ。クラレンスは彼自身すごいシンガーだったから、歌い方を教えることもできたんだよ」
(略)
学校が終わると彼はよく、当時まだA&R部門の秘書をしていたマーサ・リーヴスのところへ遊びにやってきた。一緒に歌ったり、冗談を言い合ったり、またリーヴスが忙しい時には、リトル・スティーヴィーは彼女の後ろへこっそりまわり、A&R部門備えつけのテープレコーダーをいじくって遊んだりした。彼はテープレコーダーの構造を解明しようとして四つも壊してしまい、これ以上やられてはたまらないと考えたモータウンは彼専用のものを一台買い与えたのだった。スティーヴィーはまた物真似の天才で、かたくるしい英国風のアクセントから、無茶苦茶に大げさなジャイヴ・トーク、果てはベリー・ゴーディーのボスぶった話し方まで自由に使い分けた。ベリー・ゴーディーの真似はじっさい天下一品で、スティーヴィーはよくモータウンの人間にでたらめの指示をしてからかい、家族以外ではベリーと一番親しかったスモーキーでさえ、何度かだまされたほどだった。
(略)
 ヒッツヴィルをうろつくスティーヴィーのおかげで、レコーディング・セッションはビクビクものだった。スタジオの扉の上にある“録音中”の赤いライトがついていても見えない彼は、かん高い声でしゃべりながら乱入し、せっかくの録音をだめにしてしまうこともしばしばだった。こうしたことに加えて、アーティストの中には自分たちには望むべくもない特別扱いを彼が受けていることに腹を立てる者もいて、スティーヴィーは何人か敵を作ってしまった。
(略)
 ツアーの生活で、スティーヴィーは全国的なスターの気分を満喫したばかりでなく、初めてのセックスの冒険も体験することになる。(略)
[ツアー・バンド・メンバー談]
『パーティーやってるんだろ?かわいい女の子がいっぱいいるみたいじゃない。ねえ、一人まわしてよ、かわいい子を一人紹介してよ』と言うんだ。スティーヴィーは13か14で、まだ小遣いをもらってただけの頃さ。お付きの先生〔テッド・ハル〕がそばにいた。僕らはハルを追い出すと女の子に言ったんだ。『おい、スティーヴィーがやりたいんだってさ』僕は一番かわいい子を選んでやった。『えーっ、スティーヴィー・ワンダーと寝られるの』 『そういうこと』 『でもちょっと待って、私もプロなんだからさ、タダってわけにはいかないわよ。その気はあるのよ、でも……』僕はこう言ったんだ。『ここに20ドルあるから、さっさと行けよ』 彼女はスティーヴィーの部屋に降りていった。一時間ほどで帰ってきた彼女は言ったね、『ワオ』それから30分もするとスティーヴィーがまた僕の部屋のドアをノックするんだ。(略)「また世話してくれる?」(略)「自分で買いな」

メリー・ウェルズ離脱

ウェルズの離脱がもし1963年の出来事であったなら、ベリーの強い男というイメージは崩れるわ、会社は確実な稼ぎ手を失うわで、モータウンは致命的な打撃を受けていたかもしれない。ところが、1964年になってめきめき台頭してきたシュープリームスのおかげで、モータウンの衝撃は大幅にやわらげられたのである。
 そのうえ、モータウンを離れた後ウェルズのたどった道も、モータウンの価値を改めて思い知らせる結果となった。20世紀およびアトコから、ウェルズは6枚のシングルをチャート入りさせたが、34位以内に達したものはなかった。〈マイ・ガイ〉はその頃もステージでのハイライトではあったがウェルズの人気は急速に下降線をたどった。その後20年間に、時おりレコードを出しはしたものの、彼女の人気が再上昇することはなかった。
 「ウェルズのたどった運命を見て、モータウンのアーティストたちはみんな、モータウンを離れないようにしようと考えたと思うよ」と元スタッフのトム・ヌーナンは言う。「『ほら見ろよ。彼女はモータウンを離れた時はビッグ・スターだったのに、うまく行かなくなっちまった。やっぱりモータウンの作曲家やプロデューサーには何か特別な力があるんだ』ってね」

モータウン経理システム

シュープリームスにせよマーヴィン・ゲイにせよ、モータウンと契約したアーティストは同時にジョーベート音楽出版の一員にされた。そのため、アーティストのステージ出演から得られる収入をがっちり管理するかたわら、モータウンは、彼らがレコーディング・アーティストとして利益を生むかぎりあらゆる方法で金を吸い上げた。こうしたあきらかに矛盾するやり方は今ではほとんど見られないが、当時の黒人アーティストにとっては、アトランティック、サン、チェス、その他どんな黒人中心のインディー・レーベルでも、こうした仕組みは普通であった。利益につながらないレコーディング・セッショソの経費を、作曲料から差し引くという勘定の相互担保化は、経費を削減し、資金繰りをスムーズにするのにはきわめて有効な手段であった。
(略)
あきらかに意図して、白人が確立した、黒人アーティストとレコード会社の不公平な関係をそのまま維持したのだった。
 フローがシュープリームスという名を決めた後、モータウンはその名前の所有権を主張し、「もし貴方がグループから身を引いたり、いかなる理由からにせよ、ステージ活動やレコード録音に参加することをやめた場合には、そのグループ名をいかなる目的にも使用する権利はなくなるものとする」と言い渡したのだった(モータウンはいつでもアーティストの名前の管理には熱心だった。それは彼らが本名でレコーディングしていた場合でさえ同様で、1962年にアーティストとしてモータウンと契約したビーンズ・ボウルズなどは、会社を辞めた際に自分の名前に関する権利を取り返すのにわざわざモータウンと交渉しなければならなかったほどだ)。

マナー教育

[白人層獲得のためにマナー教育。教養モデル学校経営のマキシン・パウエルを招聘。インタビューにおける優等生的回答を教えたり]
 とても容認できない、洗練されないステージ・マナーは、パウエルの頭痛の種だった。彼女はスピナーズのボビー・ヘンダーソンに、歌う時に前かがみにならないよう忠告を与えた。また、シンガーたちにはステージの上から客席に向かってお尻を突き出すのは、まるで聴衆をバカにしているみたいだからやめるよう注意した。それから、アーティストに大股を開いて立たないように、ともうるさく指示した。ちょっと色っぽいステップを踏む時にも(彼女としては、本当はそんなものは必要ないと思っていたのだが)、なるたけ明るく楽しそうにして、変に注意をひきすぎないようにと注文をつけた。彼女から見て、マーヴィン・ゲイのステージ・マナーは文句なかった。ただし、彼がそうするつもりの時は、である。残念ながら彼はしばしば気が変わって、余計なことをした。技術的な点でマーヴィンのたった一つの問題は、歌う時に目を閉じることだった。これがパウエルには気に入らなかった。スモーキーはよく中腰になってシャウトした。彼女はスモーキーと話し合って、それをいかに上品な感じに見せるかを検討した。またスモーキーにはステージで軽く顔をしかめる癖があったが、彼女はその回数が多すぎると判定した。彼にしてみればそれは、歌に感情をこめている証拠なのだが、体の具合が悪いと思われかねないというのがパウエルの言い分だった。
 このようにしてパウエルは、デトロイトでは自分のところへやってくるアーティストたちの癖や欠点を直していたが、ツアー中はモータウンのガール・グループ、とくにシュープリームスのお目付け役であった。

振付師チョリー・アトキンズ

 デトロイトに移ってきたとたん、アトキンズは新曲リリースにあわせて次から次へと新しいステップを依頼してくるアーティストたちの要請に応えるため、ほとんど昼夜の別なく働きつづけた。「ツアーに備えて半年ごとに、すべてのアーティストのショーを構成し直さなければならなかった」とアトキンズは語る。「新しいシングルが出るたびに、その曲をステージに組み込まなきゃならないもんだから、アーティストの時間がすこしでもあいていると彼らをスタジオに呼んで、振付けを教えたものさ」
(略)
[皆型で押したように同じだという批判に]
 私は相手に合わせて仕事をする。相手の可能性を考えたうえで、何をすべきか決める。だから誰も彼も同じに見えるなんてことはないんだ。それぞれの能力に合ったやり方からベストなものを引き出すしかないからね。
(略)
 個性を尊重するという言葉にもかかわらず、彼の考えは、モータウンのアーティストはラスヴェガスや“しゃれたサパークラブ”といった、彼が長年仕事をしてきた場所を最終目標とするべきだという点で、ベリーやパウエルと完全に一致していた。
(略)
私はそっちに関してはそれこそ世界じゅうであらゆる経験をつんできた人間だ。だから私はR&Bのアーティストにつきっきりで指導し教育して、チトリン・サーキットからラスヴェガスヘ飛躍できるよう仕込んでいるわけなんだ。
(略)
 モータウンのアーティストが次々と成功をおさめてゆくにつれて、アトキンズの仕事はやりにくくなっていった。成功とともに怠惰、自己満足、そしてそんなに一生懸命働く必要もないじゃないかという気分がめばえてきたからだ。フォー・トップスは協力的ではあったが、結局はその昔ジャズを歌っていた頃の地味なアクションに戻っていった。マーヴィン・ゲイ(アトキンズに言わせると「彼は新しい世代のサム・クックにだってなれた」)はアトキンズのアイデアをとりいれることにあまり積極的ではなかった。ヒット曲に恵まれなかったスピナーズはアトキンズのスタジオで鬼のように練習に励み、テンプテーションズの振付けなど本人たちと同じぐらいうまくやれるほどになった。シュープリームスは積極的にアトキンズの助言を求め、彼の振付けの中でも最も女性らしい、デリケートなアクションを与えられた。アトキンズがシュープリームスのために考え出した、手をくねらせる動作や気どった体の振り動かし方、前に出たり引っこんだりするステップ(略)は、今日にいたるまでガール・グループの一つのあこがれとなっている。

次回に続く。