山内静夫 プロデューサー
城戸さんの意見は小津さん、非常に気にしていましたね。(略)
でも、言ったって「あいつは聞かねえ」ってことは、城戸さん分かってたけど(笑)。
(略)
[予算は]小津組の場合は条件よかったですよ。普通なら一万フィート(約一一〇分)の作品だったら二・五万フィートくらいが許容量だと思うけど、(小津組の場合は)だいたい四万フィートくらい用意するんだ。小津先生はね、「フィルムはケチっちゃダメだよって」(笑)。(略)
[『秋日和』で岩下志麻の起用を]決めるときに四、五人、顔見世で監督の前に呼んだらもう一発だった。ああいうところは小津さん、ものすごく感性がいい人ですよ。編集でもそう。頭の中にもうイメージができてるから、カットにしても、もう何コマで切るってやるからね。すごいよ。
(略)
『大根役者』。これは映画にならなかったけど、進藤英太郎が主役やる予定だったんだよ。(略)
[溝口常連の進藤も]大乗り気で、「ありがとうございます。小津先生に次は出られる」って、すごく喜んだんだ。
(略)
[野球なら]タイガースじゃないか?アンチ巨人。(略)小津さんは威張ってるのはきらい(笑)。
(略)
小津さんは見てたと思うよ。だけども評価は低かったね。あんまり良く言っていなかった。ひねりすぎだって。ものの考え方がね。松竹ヌーヴェル・ヴァーグもあったけど、こちらも評価低かった(笑)。監督だとウィリアム・ワイラー好きだった。正統派でしょ。大作に正面から取り組む監督が好きなんだ。ジョン・フォードなんかもそうだね。
溝口監督と小津監督は正反対ですよね。小津監督の現場では朝セットに入ると、すでにカメラの位置が決まっています。溝口監督の場合はセットに入ると椅子に座ってね、「はい、やってみてください」っておっしゃるだけなんです。もう、どうやったらいいのか全然わからなくて。だいたい動きがわかってから、はじめてキャメラの位置を宮川一夫さんがお決めになっていたように記憶しています。
撮影最初の日、私気絶したんですよ(笑)。朝の九時に入って、十七時頃まで撮影がありました。初めての現場は緊張でいっぱいでした。ライティングとか、カメラの位置を決めているときなんて、たとえばテーブルにお茶があるでしょう。それを「大船ヘ一〇センチ」「いや、ちょっと鎌倉に戻して」といった具合に、位置を決めていくのね。後ろにある額も、それを五センチ――って動かしていく。普通はスタンド・インを使いますけれど、先生は構成が厳密だから、ずっと座って待ってたのね。初めてで緊張していて、いよいよ本番!回しましょうというときに、気が遠くなってしまいました。それで午後から開始になったの。ほんとに唾ものみこめない、そんな撮影だったんです。でも何日か経つと、ああ、これが小津調なんだって。何を求めてらっしゃるかがだんだんにわかってくるんです。
(略)
[台本の読み合わせで]
一番先生が気になさってるのは(台詞の)音程なの。一オクターブ上げてとか、下げてとか。それにあわせてリハーサルをするのが、ほかの監督にはないやり方ですね。(略)
あんまりね、早くとか、ゆっくりとかはおっしゃらなかった。(略)
[『小早川家の秋』の]関西での撮影の間、三日ぐらい休みがあったんです。どうしようかって話になって。原さんは泳ぎがお好きだから、「じゃあ、海に行きますか」って、明石の海へ行ったの。私はカナヅチなのに、原さんはさっさと水着に着替えてた(笑)。髪には赤いリボンを結んで。「淡路島あそこでしょ。あそこまで泳いでいきましょう」って。それで私は、「えっ、ちょっと待って!待ってください!」って(笑)。
(略)
そのときの明石の海は、夕方でした。赤く染まってて、そこへ立たれた水着姿の原さんはほんとうに素敵でしたよ。
(略)
[『紀ノ川』の]撮影の中盤ぐらいに原さんが、自分で車を運転して、松竹撮影所まで[差し入れに]きてくださったの。(略)
天下の原節子の、手製のサンドイッチを食べられるなんて。そうしたらサンドイッチにもう、バン!と肉が入っていて、卵がバン!って。原さんはこんなのを食べていらっしゃったから、あの寒い海も平気なんだと思って(笑)。思いやりがうれしいわね。以後、私生活でも電話をしたり、しょっちゅう長い話をしたりしていました。
[63年にお見舞い]
先生が飲んでいらっしゃるアミノ酸を「これは身体に良いんだよ」とおっしゃって。液体でしたが病院のソファに並んで、座って一緒に飲みました。そのあと、先生はベッドに横たわり、「僕は何も悪いことはしていないのにネ」とおっしゃって涙を流されました。
小津安二郎の言葉 「性格と表情」
表情がうまい、というだけでは、いけないと思うんだ。悲しい表情、うれしい表情が巧みに出来る――つまり顔面筋肉の動きが自由自在だ、というだけではダメ、それならヤサシイと思うんだ。
いまの、日本の映画俳優は、表情は決して乏しくないョ。日本人は無表情だとよく言うけれども少くとも、俳優の場合は、アメリカ人にくらべて表情は乏しくないと思うんだ。表情がうまいから、上手な役者だとは、言えない。表情のうまい、まずいは、おれに言わせれば問題じゃないと思うんだ。
大事なのは性格だな。性格をつかむことだと思うんだ。性格をつかんだ上で、感情を出すんでなければダメだと思う。性格をつかめないで、ただ感情を出そうとするから、表情だけうまい役者が出来る。(略)
監督は、俳優に感情を出させるんじゃなく、いかに感情をおさえるかだョ。(略)性格とは何かというと――つまり人間だな。人間が出てこなければダメだ。
(略)
おさえることだな。いかにして、おさえにおさえて、性格を表現するか――『荒野の決闘』のヘンリー・フォンダが、床屋で香水をつけて来て、ヌーッと立っている――あれだな、ジョン・フォードのえらいのは。フォンダが柱にあしを突っぱって、椅子の上にノケぞって、ウフンといってる。(略)ジョン・フォード作品のヘンリー・フォンダはいつもいい。『怒りの葡萄』でも、『ヤング・ミスター・リンカン』でも。
(略)
(「キネマ旬報」昭和二十二年十二月号)
伝記 小津安二郎
明治の終わり頃に生まれ、日露戦争、韓国併合と日本が近代国家として軍事的にも拡大路線を進むなか、小津は育った。
(略)
[19歳、浪人するも不合格、小学校代用教員に]
五年生男子四十八人の組を担任した。(略)[一年で辞め]
母の異父弟・中條幸吉が松竹に土地を貸しており、彼の口添えがあって八月、松竹キネマ蒲田撮影所に入社(略)演出部には空きがなく、撮影助手となり(略)
体格の良かった小津は、重い撮影機材も軽々と運んだ。鑑賞した映画の細部まで語れるなど、記憶力が卓越しており周囲の者を驚かせた。
(略)
[22歳、入隊から1年、計画通り将校にならず伍長で除隊、撮影所に戻る]
[25歳『肉体美』]撮影中画面に入らないようにするため、床の電気ケーブルをいちいちどかすのが面倒なこともあり、初めてローアングルで撮影を行った
(略)
[34歳、応召。最年長の陸軍歩兵伍長、毒ガスを扱う部隊に]
[35歳]上海への公用出張の帰路、句容にいた山中貞雄を訪ねる。(略)短い時間しか面会できなかったが、その晩山中は、嬉しくて大はしゃぎしたという。(略)
[南京事件から半年後に入城]佐野周二と出会う。
友人に宛てた手紙には、戦死者の「眼窩一杯に盛り上った蛆」のことや、喉が渇き「みぢんこがゐれば毒の無い証拠」と小川の水を腹ばいになって飲んだことなどが書かれ、過酷な戦況の様子が窺える。「仲間の坊さんは頭をやられた。脳味噌と血が噴きこぼれ物も云はず即死だった」「手術室に、戦友は手足を縛って腹を割った。痛がる度に腸は切口から噴きこぼれた。(略)
現地の住職から「無」の書を受ける。(略)
九月、山中貞雄が赤痢で戦病死。その報[に](略)小津は突然口をつぐみ、数日間無言でいたという。
(略)
三十六歳
戦場で二度目の正月を迎える。城外に慰安所がもうけられ、慰安券二枚・星秘膏(性病予防薬)などが配給される。戦友の中には、小津が出入りする姿をみかけたことがなく、不思議がる者もいたという。(略)
三月、修水河の戦闘に参加。毒ガス弾三千発、毒ガス筒五千余発など、多くの毒ガスを使用したとされる戦闘だった。続いて南昌へ進撃。
(略)
六月、帰還命令を受ける。七月に九江を出航、神戸港に上陸した。(略)
戦争を経た小津のさまざまな発言が残っている。映画制作に関しては「僕はもう懐疑的なものは撮りたくない。何んというか戦争に行って来て結局肯定的精神とでもいったものを持つようになった」と語っている。(略)同時期に、「フィルムというものを信用できるかと反問すると、信用できないという気持ちになってきたんだ。ものすごい現実に直面すると、その不安があるんだね」「俺はフィルムが信じられなくなった」とも言い残した。戦闘については、「敵の弾を初めて経験したのは氵除県、情けないがビクリと来ました。が段々なれて来ました(略)。しまいには平気です。人を斬るのも時代劇そっくり。斬ると、しばらくじっとしている。やアと倒れる。芝居は巧く考えてありますネ。そんな事に気がつく程余裕が出来ました。」と振り返った。
(略)
八月、京都大雄寺の山中貞雄の墓に参った。
(略)
[37歳『お茶漬けの味』]出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べる場面が「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」とされ[制作中止](略)
小津のような名のある監督の脚本が却下されたことは、映画界に衝撃を与えたという。
(略)
[40歳『ビルマ作戦 遙かなり父母の国』勇ましい映画でないと製作中止に]脚本には銃撃戦があり、戦車なども出てくる。しかし大筋は、一個部隊をまるで家族のように描き「中隊長を父、班長を母とし、一つの部隊の一家団欒を前面に押したて」た脚本だった。
(略)
内務省の検閲官(名目上は試験官)も務めていた関係で、黒澤明の処女作『姿三四郎』を公開前審査することになった。(略)
他の検閲官からは「欧米的である」と批判があり公開が危ぶまれたが、小津は「一〇〇点満点として一二〇点」と絶賛、黒澤を祝福して銀座の飲み屋に誘ったという。
(略)
軍報道部映画班員としてシンガポールヘ派遣される。(略)
「陸軍から監督の指名はとくになかったが、小津監督は何となく煙たいので、小津さんに決めた」と、撮影所所長だった狩谷太郎(略)
[41歳]チャンドラ・ボースと会見、ジャワなどで情景撮影も行った。しかし戦況がさらに悪化したため、結局撮影は休止となった。
仕事のなくなった小津らはテニスに興じるなど穏やかに過ごしていた。また軍報道部の検閲試写室で映写機の点検と称して秘密裏に外国映画百本余りを観た。これほどまでに多くの海外映画を観たことはなかったと、のちに小津は語っている。英軍が撤退した後のシンガポールには日本に輸入されていなかった作品が大量に放置されていたのだ。以前から好んでいた監督の作品を多数観た。
(略)
なかでも新人オーソン・ウェルズの『市民ケーン』を、チャップリン以上だと絶賛。(略)
ディズニーの『ファンタジア』には、「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかしたと思いましたね」
(略)
[42歳、終戦。シンガポールでの]抑留中はゴム林での労働や、抑留所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集に従事し、挿絵なども描いた。
(略)
[第一次帰還者のクジに当選したが]「俺は後でいいよ」と妻子あるスタッフに当選を譲った。映画班の責任者として、他の者の帰還が終わるまで残留した。
(略)
[53歳『東京暮色』山村聰が舞台で出られず父親は笠智衆に。次女は予定していた岸恵子が他作出演&結婚で有馬稲子に]
小津は『早春』で岸を大変評価しており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えた。
(略)
[55歳]ロンドン映画祭で『東京物語』が、イギリスの映画監督リンゼイ・アンダーソンらにより賞賛される。(略)サザランド賞を受賞。小津作品んを海外で最も早く評価したのは、このロンドン映画祭だった。
次回に続く。