新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書・その2

再読。というか読んだことを憶えてなかった。
kingfish.hatenablog.comのつづき。

新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書

新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書

映画『ウィズ』で得たもの

 モータウンの制作だからと尻込みしていたマイケルに、ダイアナ・ロスが「彼はそんな小さな人じゃないわ」とオーディションを受けることを勧めたと言われています。実はこの頃には、ダイアナとゴーディの恋愛関係は冷えきっていました。ですから、ゴーディ自身ダイアナを主役に選んだものの、すでにそれほど『ウィズ』に肩入れしていませんでした。
 当初はコメディアン、ジミー・ウォーカーでかかし役を決めかけていたシドニー・ルメット監督はマイケルを見て「新しい時代のジェイムス・ディーンになる」と方向転換しましたから、監督の意向も大きかったと思います。とはいえ、マイケルは横やりを入れなかったゴーディに感謝しました。
 この映画がなければ、いろんな意味でこの後のマイケル・ジャクソンは存在しなかったでしょう。なぜなら、『ウィズ』においてマイケルは、世話になったシドニー・ルメット監督に恩を感じて音楽監督を(いやいや)務めることになったクインシー・ジョーンズとはじめて仕事をするからです。後に《オフ・ザ・ウォール》《スリラー》《BAD》という歴史的な名作を作り上げることになる黄金コンビが生まれるきっかけは『ウィズ』だったのです。
(略)
 『ウィズ』の撮影は、クインシーとの出逢いのほかにもマイケルに副産物を運んできてくれました。この撮影のために、マイケルはニューヨークに長期滞在をすることになったのですが、その時(略)姉のラ・トーヤが面白そうだとついていきました。(略)彼らはふたりでマンハッタンの高級住宅街サットン・プレイスのアパートの37階に部屋を借りて暮らしました。いままでずっと「引きこもり」のようにエンシノの豪邸の中でひっそり暮らしていた19歳のマイケルと21歳のラ・トーヤは、この時はじめて両親から離れ、刺激的なニューヨークを全身で浴び、さまざまな経験をしたのです。
(略)
 時代は1977年。いわゆる「ディスコ」の全盛期です。(略)[二人は]伝説的なディスコ「スタジオ54」の常連となりました。
(略)
ジャクソン家の中でも最も純粋培養なふたりが、狂乱と退廃渦巻く77年のニューヨークで「セレブリティ達の集うナイトライフ」(略)「セックス、ドラッグ、ディスコ・ミュージック」をはじめて体験したのです。
(略)
VIPルームでアンディ・ウォーホールウディ・アレンライザ・ミネリミック・ジャガースティーヴン・タイラーらと出逢い、歓迎され、可愛がられました。
(略)
ダンスフロアの空気感を吸いこんだマイケルは、自分達のやり方を卒業しなければならないと強く感じ、心を決めました。

フレディ・マーキュリーとの交友

 マイケルは《オフ・ザ・ウォール》前後に、頻繁に連絡をとるようになったクイーンのヴォーカリストフレディ・マーキュリーに心酔し、多大な影響を受けました。マイケルは頻繁に彼らのライヴやスタジオに足を運んでいました。
(略)
[当時の]インタビューなどで、フレディはマイケルのアルバム《オフ・ザ・ウォール》を必ずフェイヴァリットに挙げています。
(略)
《オフ・ザ・ウォール》リリースの約一年後のことです。80年6月末にリリースされたアルバム《ザ・ゲーム》を聴いたマイケルが、直後7月上旬にロサンゼルスで行われたクイーン「ザ・ゲーム・ツアー」のライヴ終演後に楽屋を訪れ、「〈アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト(地獄に道連れ)〉を絶対にシングルにしたほうがいいよ」とメンバーに強力に勧めたのです。
(略)
[ロジャー・テイラーブライアン・メイはロックじゃないとボツにしようとした]
「クイーンらしくない」黒人音楽的でダンサブルな曲です。この曲でのフレディのヴォーカリゼーションは当時仲のよいマイケルの歌唱法をほとんどパロディと呼べるほどに模倣しており
(略)
[メンバーも半信半疑でシングル・カットすると、黒人層にも支持され初の全米1位に]
それまで自分の作品をがんじがらめでコントロールされ続けていたマイケルにとっては、友達関係の口約束から作品を生むことが出来るという「非常にロック的な」体験は興奮するものでした。
(略)
 フレディからの影響は音楽作りだけにとどまりません。(略)「ザ・ゲーム・ツアー」での黒と赤のレザーの衣装は、後のマイケルの〈ビート・イット〉や〈スリラー〉の衣装を彷彿とさせます。

フレディとの共同作業の顛末

[82年]9月15日、全世界をツアーしてきたクイーンがロサンゼルスまでやってきました。この日は全米ツアーのファイナル。フレディ・マーキュリーにとっては翌月の日本公演まで、しばしのオフでした。このオフの期間に、彼とマイケルはずっと約束し楽しみにしていた共同作業・コラボレーションをしてお互いの作品に入れて発表するつもりでした。
(略)おおまかな構想の全貌はこうです。
〈A〉まず1曲目は(略)〈ステイト・オブ・ショック〉。これをフレディとデュエットし、マイケルのソロ・アルバムに「マイケル・ジャクソンフレディ・マーキュリー」として収録する。
〈B〉そして、2曲目がフレディ作の珠王のバラード〈ゼア・マスト・ビー・モア・トゥ・ライフ・ザン・ディス(生命の証)〉。この曲をフレディは自らのソロ・アルバムでマイケルとデュエットするために作ってきました。
〈C〉最後にお互いのバンド同士ジャクソンズとクイーンで〈ヴィクトリー〉という曲を共作し、一緒にアルバムに入れればいいね、と。
(略)
 しかし、ツアーが一段落して上機嫌のフレディを横目に、マイケルは「どうやってこのことをクインシーに伝えよう」と浮かない気持ちになるのでした。もう《スリラー》の枠はほとんど残っていなかったからです。
(略)
[クインシーに却下され、ジャクソンズのアルバム《ヴィクトリー》にミック・ジャガーとのデュエットで収録される]
 結局、仲のよかったマイケルとフレディは《スリラー》に〈ステイト・オブ・ショック〉が入らなかった頃から、すこしずつギクシャクしてしまいます。(略)
 そもそもロック・シンガーのフレディは「アーティスト本人のソロ・アルバムで、自分がやりたい曲がアルバムに入れられない」というマイケルの置かれた状況をあまり理解出来ません。なので、その後のインタビューなどで「せっかく約束して《スリラー》に共作曲が入るはずだったのに、入りそびれて損をした。もし入ってたら俺はものすごい金持ちになれたのにな」などと、冗談気味に答えたりしている映像が残っています。
 そして、マイケルは「自分の責任じゃなかった」のに責められたことに腹を立てます。そして「お金持ちになれたのに」という発言には(こういうことに関しては一番神経質です)、ロック的な「しゃれ」が通じないので、まるでお金のために自分と仲よくしていたかのようだととらえ「せっかく友達だと思ってたのに」と真剣に傷ついてしまったのです。
(略)
[《スリラー》の大成功で]強気になっていたマイケルは「フレディより明らかに格上」なロック・シンガーを選びたいと[ミック・ジャガーを起用、それを知ったフレディは〈B〉を自身のソロ《ミスター・バッド・ガイ》に収録](略)
マイケルはこの曲を愛していて、どうしても自分に欲しいと言ってきたそうですが、フレディはその希望を断りました。
〈C〉(略)〈ヴィクトリー〉というタイトルをそもそも提案したのはクイーン・サイドのようで、それが結果的にジャクソンズのアルバムやツアー・タイトルに無断で使われたことにフレディは不満を述べています。
[マイケルは反対したが、経緯を知らない兄弟達に押し切られた]

エディ・ヴァン・ヘイレン

[フレディとブライアン・メイの関係を再構築しようと、エディ、スティーヴ・スティーヴンス、スラッシュとロック・ギタリストを次々起用したマイケル]
クインシーによると、〈ビート・イット〉はホットな曲だとずっと言ってたんだ。そうすると、右のスピーカーから火花が飛び散り本当に燃えていた。40年のキャリアがある私でさえみたことのない光景だった」とのことです。
 引火したのはスピーカーだけではありませんでした。なぜかノー・ギャラでこのゲスト出演を引き受けたことで、エディは(略)他のメンバー、マネージャーから「なめられてる、なんでちゃんともらわないんだ」と激怒されてしまったそうです。エディは「おれがやりたくてやったんだ。誰かに利用されたわけじゃない。やりたいからやる、やりたくないならやらない、それだけだ」とコメントを残しています。(略)
「このとき〈ビート・イット〉に呼ばれた経験が、俺達の《1984》や〈ジャンプ〉に影響したよ。連中からヒットのコツを学んだんだ」との言葉も残されています。

モータウン25』
凋落モータウンの起死回生イベント25周年ライヴ、出演を保留したのがマーヴィン・ゲイとマイケル。プライドを捨てたゴーディはまずマーヴィンをランチに誘い頭を下げる。その場で参加を決めたマーヴィンは「ちょっとばかり、ぼくをスペシャルに扱ってほしいんだよ、BG」。残るはマイケル。

粘るゴーディに条件を出しました。(略)「(あの限りなく優しい声で)〈ビリー・ジーン〉を歌えるなら、出てもいいですよ」と。
 これはゴーディにとっては屈辱的な一言でした。(略)自分の業績が褒めたたえられる会場で、なぜ一番のハイライトがマイケルの新曲になってしまうのか……。(略)
[〈ベン〉とか他にもヒット曲は沢山あるじゃないかとゴーディ]
マイケルが「じゃあ、いいです。会場には行きますし、客席であなたを祝福してますから」と、スタジオに戻ろうとします。さらに、「もし出演した場合、ヴィデオの編集も最後までやらせてくださいね」(略)
ゴーディは結局、その厳しい条件を受け入れるしかありませんでした。
(略)
 勝負師の自分に心理戦でまっこうから挑んできた24歳の「教え子」マイケル。「恩師」である54歳のゴーディは、彼の最も得意な「交渉」で敗北したのです。
(略)
[当日]
またまた遅刻してきたスティーヴィー・ワンダー(略)、そして「スペシャル」なマーヴィン・ゲイ。彼はドラッグのせいか朦朧とした様子で〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉を歌いました。そのときは誰も予想しませんでしたが、これが多くのモータウンの盟友達にとって、翌年父親に射殺され命を落とすことになるマーヴィンの最後のステージとなったのです。
 そして、ついに訪れたジャクソン・ファイヴのショータイム。マイケルは長年離れていたジャーメインと抱擁し、8年ぶりに彼とジャクソン・ファイヴのヒット曲達をパフォーマンスしました。ジャーメインは〈アイル・ビー・ゼア〉をデュエットしながら涙を浮かべていました。中盤でエピック移籍後に正式加入した弟のランディも加わり、彼らはジャクソン・シックスに。観客は大人になりモータウンに帰ってきた兄弟達に釘づけでした。そして曲が終わると、兄弟達は舞台袖へと次々と去っていきました。
 マイケルはひとり残され、微笑みながらこう話しはじめました。
 「モータウンでの日々は本当に楽しかった……。ジャーメインと一緒に歌えたし、兄弟仲良く……、素敵なメロディーばかりだ……。でも、今、ぼくが歌いたいのは………新しい歌なんだ!(きっぱり)」
 その瞬間〈ビリー・ジーン〉の強烈なリズムが会場に鳴り響いたのです。マイケルは後にトレードマークとなった黒い帽子を斜めにかぶって踊りだし、一心不乱に歌いました。そして、すべてのオーディエンスが食い入るように見つめる中、間奏部分ではじめてあの「ムーンウォーク」を披露したのです。
(略)
翌日からは、全米の教室で、会社でムーンウォークのことしか話題にならないくらいだったといいます。

スタジオのマイケル

 アルバム《インヴィンシブル》の楽曲6曲をマイケルと共同でプロデュースしたロドニー・ジャーキンスは、『サウンド&レコーディング・マガジン』(2001年9月)で、彼とのレコーディング体験をこう回想しています。
 「マイケルは非常に実践的で、ミキシングのときも常に一緒にいるし、細かいレベル調整などの作業にも同席する。いつもスタジオにいるんだ。彼はどうしたらいい音にできるかという方法論をきちんと理解していて、例えばパンチがきちんと効いてない音があったときにどんなエフェクト処理が必要かということがすぐにわかるんだ。イコライザーの周波数ポイントまでね。そう言う意味ですごく印象的だったね。ほとんどのアーティストはぼくたち任せで、いったん歌ってしまったらスタジオには戻ってこない。マイケルは何時であろうと必ずスタジオに来ていた。
(略)
“ミックスが聴けるのは何時頃になる?”と聞いてきたから、ぼくは“多分夜中の3時くらいかな”と答えたんだ、するとマイケルは驚くことに3時ピッタリにスタジオに現れて“さぁ、聴かせてくれ”と言ったんだ。彼はとにかく音楽に対して真剣だね。

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