ムーンウォーク マイケル・ジャクソン自伝

新装版。原著が1988年、翻訳は2009年出版。マイケル29歳。

チャイルド・スターの苦悩 

いったんスタジオに入ると、子供ならベッドに入らなきゃいけない時間をとうに過ぎた夜遅くまで、僕は実際に歌っていたんです。モータウン・スタジオの通りを隔てた向こう側には公園があって、僕はよく、そこで遊んでいる子供たちを眺めたものです。何も気にせずにそうやって楽しく遊んでいられる生活が、僕には想像もできなかったので、目をまんまるくして“ヘェー”って見つめていたのです。そうして、僕にもあんな自由があって、このまま歩いていって彼らと同じような生活が送れればなあって、そればかり思いました。仲間になれればどんなにいいだろうかって考えました。子供心には、かなりつらいものでした。チャイルド・スターというのは誰でもそういうものなんだと思います。私も同じように感じていたのよ、とエリザベス・テイラーが僕に話してくれたこともあります。

(略)
 だから僕は、幼い頃から働いていた人のことは、とてもよく理解できます。どんな苦労をしたのか、 何を犠牲にしたのかをです。でも、学んだのは何かってこともわかります。僕が学んだのは、ひとつ歳をとるごとに新たなチャレンジが始まる、ということでした。

 僕は自分がどこか年老いているような気がしています。

性のめざめ

 その頃、僕らが働いていたナイトクラブで、ストリッパーが入っていたのは一軒だけではありませんでした。僕はよく、シカゴの店の舞台の袖に立って、メアリー・ローズという名の女性を見つめていたものです。僕は確か、九歳か十歳でした。この女性は服を脱いでいき、そうしてパンティも脱ぐと、それを観客に向かって投げるのです。店にいた男たちはそのパンティを拾いあげると、クンクン鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、イエーイと叫び声をあげたものでした。兄さんたちと僕は、これを眺めて、見物していたのですが、父さんは気にもかけない梯子でした。(略)

ある場所では、ミュージシャンのドレッシング・ルームの壁に穴があいていて、その壁の向こう側が女性用のトイレだったこともありました。その穴から覗き見ができたのですが、僕はその時のことを忘れないでしょう。(略)

当然、僕と兄さんたちは、その穴を覗きにきた連中と闘いました。「どいてくれよ、僕の出番なんだ!!」。その場所を確保するために、みんなは押し合いへし合いしたものです。
 その後、僕らがニューヨークの“アポロ劇場”で演った時のことです。ある出し物を目にした僕は、本当にびっくりしてしまいました。というのも、僕はこの世にそんなことが存在するなんて思ってもみなかったんです。それまでにもずいぶんとたくさんのストリッパーを見てきましたが、その夜は、ゴージャスなまつ毛と長い髪の少女が出てきて、ショーを始めたのです。彼女は見事なまでの演技で観客を圧倒していました。ショーの終わりに突然、彼女はかつらを取り、ブラの中からふたつの大きなオレンジを取り出しました。実はメーキャップの下は男性だったのです。これには大変驚いてしまいました。だって、まだ子供だった僕には、そんなことがあるなんて思いもよらなかったんです。

前座時代、ジャッキー・ウィルソン

前座を務めている間に、僕はできるだけのことを学ぼうと、出演スターたちの動きを、注意深く観察してきました。彼らの足元や、腕の組み方や、マイクのつかみ方を見て、彼らが何をしようとしているのか、何でそういうふうにしているか、その意味を読み取ろうとしたものです。ステージの袖からジェームス・ブラウンを観て、僕はひとつひとつのステップを、うなり声を、スピンを、ターンを学びました。

(略)

自分の好きなアーティストを観ると、ぼくはそこに自分をおいてみました。ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイブ、オージェイズ、彼らはまさに観客を興奮させる術を知っていました。僕はおそらく他の誰からよりも、どんなことからよりも、ジャッキー・ウィルソンから多くを学んだように思います。(略)

演奏を終えた人たちが汗びっしょりで戻ってくるのを眺めていたものです。僕は畏敬の念に打たれ、彼らが通り過ぎていくのを見ているだけでした。彼らは皆、美しい黒のエナメル靴を履いていました。僕は、黒いエナメル靴を手に入れることだけを夢見るようになっていました。だから小さな子供サイズのエナメル靴は作ってないと聞いて、とっても残念に思ったのを覚えています。

(略)

あのピカピカに磨かれて光っていて、ライトが当たると赤やオレンジ色に変わるステージ・シューズみたいな靴が欲しかったものですから、とっても悲しくなりました。ああ、僕がどれほどあのジャッキー・ウィルソンの履いていた靴に憧れたことか。

ダイアナ・ロス

  ダイアナ・ロスが最初に僕らを見出してくれたというわけではないのですが、その当時、彼女が僕らにしてくれたことは、どんな恩返しをしても十分ではないと思っています。ようやく南カリフォルニアに引っ越してからも一年以上は、時おりダイアナのところで彼女と一緒に暮らしていたのです。何人かがベリー・ゴーディーのところに、そして残りがダイアナと生活をともにしていて、時々交替していたんです。彼女は本当にすばらしい人で、母親のように僕らに接し、僕らが本当にくつろげるように気遣ってくれました。彼女は、僕らの両親がゲイリーの家をたたんで、家族全員で住める家をカリフォルニアに見つけるまで、少なくとも一年半もの間にわたって、僕らの面倒をみてくれたのです。

(略)

 僕の人生の中でも、この頃は重要な時期でした。というのも、ダイアナは絵画がとても好きで、絵画のよさがわかるようになりなさいと勧めてくれたのです。(略)僕らは毎日のようにふたりだけで外に出かけては、鉛筆や絵の具を買ったものでした。デッサンや絵を描いていない時には、美術館に行きました。彼女から、ミケランジェロドガといった偉大なる芸術家の作品を紹介されて、その時から僕のアートに対する一生の興味が始まったのです。彼女は本当にたくさんのことを教えてくれました。それはとっても新鮮で刺激的でした。寝ても覚めても音楽ばかり、明けても暮れてもリハーサルばかりという、それまでの僕の生活とはまるで違ったものでした。
 ダイアナのようなスーパースターがわざわざ時間をさいてまで、小さな子供に絵の手ほどきをしたり、芸術について教えてくれるなんて信じられないかも知れませんが、でも、彼女は本当にそうしてくれたんです。僕はそんな彼女が大好きだったのです。いや、僕は今でも彼女のことを愛しています。本当に彼女に夢中なのです。彼女は僕の母であり、恋人であり、そして姉であり、そうしたすべてが一緒になった驚くべき存在だったのです。

殺到する女性ファンへの恐怖

[70年秋から]大規模なジャクソン5のツアーが始まりクレージーな日々が続くことになりました。

(略)

僕らの人気はもう高まっていたので、ちょっとした買物に出てもファンのおかげで、まるで素手の決闘のような状態になりました。ほとんどヒステリー状態の女の子たちに襲われるのが、その頃の僕にとっては一番恐い体験のひとつでした。つまり、彼女たちっていうのは、とても荒っぽいのです。(略)

カンターは倒され、ガラスは割られ、キャッシュ・レジスターも押し倒されてしまうのです。ちょっと服を見たかっただけだというのに!

 そんな騒動が起こると[さらに人が殺到し](略)

もう僕らの手におえるものではなくなってしまいます。

(略)

彼女たちに悪気はないんでしょうが、でも、大勢の人に襲われるのは痛いってことを、この僕が証明します。窒息するか、手足がバラバラになっちゃうんじゃないだろうかって気分になるんですからね。千本もの手が、僕をひっつかもうとするんです。ある女の子が手首を握ろうとし、また違う女の子は腕時計をひったくろうとします。髪の毛を掴んで強く引っ張られると、火が出るんじゃないかと思うほど痛いんです。(略)
 僕の体にはたくさん傷跡が残っているのですが、僕はひとつひとつ、これはどこの町で、いつついたものか思い出すことができます。(略)

一番大切なのは、手で目を守ることです。そういう時の女の子たちは、スターに会えたということでとても興奮していて、爪を持っているということを忘れていますから。

にきび

 十四歳になった頃から、僕の容貌は明らかに変わり始めました。背がぐんと伸びたのです。僕に会ったことがない人は、可愛くてちっちゃなマイケル・ジャクソンを紹介されると思って部屋に入ってきて、僕のすぐ傍を通り過ぎて行ってしまうのです。「僕がマイケルです」と言うと、彼らは疑わしそうな顔をしたものでした。マイケルは、可愛くてちっちゃな子供だったはずでした。でも僕は、五フィート一〇インチに届こうという、ひょろ長い青年になっていたのです。僕は彼らが期待していた人間でも、会いたいと思っていた人間でもありませんでした。思春期というのは、ただでさえ不安定なものですが、体の変化による心の不安は、他人の否定的な反応で、余計に高まってしまうものなのです。

(略)

 それはつらいことでした。みんな僕のことを長い間“可愛い”と言っていたのに……。いろいろな変化とともに、僕の肌はにきびだらけになってしまったのです。(略)

 僕は潜在的に、その肌のことで怯えるようになってしまいました。ひどい顔だったので、とてもシャイになって、人に会うのさえ恥ずかしくて仕方なかったのです。(略)容貌のせいで僕は落ち込み始めました。(略)性格を破壊してしまうほどでした。(略)

もう、外に出かけることもしたくないと思いました。実際、僕は何もしなかったのです。

ドラッグ

芸能界にいた子供の多くが、ドラッグをやり、自分を目茶苦茶にしてしまいました。フランキー・ライモン、ホビー・ドリスコール、その他にも多くのチャイルド・スターがドラッグに走ったのです。若くして彼らにのしかかってきた、ものすごい量のストレスのことを考えると、なるほど、彼らがドラッグに走ったのがわかるような気もします。大変な人生ですよ。(略)

僕自身はといえば、ドラッグをやったことはありません。マリファナもコカインも何もやっていません。僕はそんなもの試したことすらないんです。
 本当にないんですよ。
 何も誘惑がなかったと言うわけじゃありません。僕らはドラッグをやることが当たり前だった時代に活動していたミュージシャンです。裁くつもりはありません。僕にとって、それは道徳的な問題にもなりませんからね。しかし、僕は、それにイカレてしまったばかりに、あまりにも多くの連中が破滅していくのを見てきたのです。確かに、僕は天使じゃないし、悪いくせとかもあるかも知れないけども、ドラッグだけはやらなかったのです。

危機感

熱心なファンは、「アイ・アム・ラヴ」とか「スカイライター」といったレコードにもついてきてくれました。これらの曲は、洗練されたストリングス・アレンジを使った、サウンド面では野心的なポップスだったのですが、僕ららしさはありませんでした。確かに、僕らは一生「ABC」をやっていくなんていうわけにはいかないし、また、それは一番やりたくないことでもあったのですが、昔からのファンまでが、「ABC」の方にノってしまうのです。そのことは、受け入れがたいことでした。七〇年代中盤、僕はまだ十八歳にもなっていなかったのに、僕らはオールディーズのグループになる危機に瀕していたのです。

次回に続く。