植草甚一 ジャズ・エッセイ 1

60年ほど昔の、1960年前後のジャズ・エッセイ集。

ファンキーというジャズのスタイル

 ファンキーという言葉が、最近すっかり流行語となってしまって、漠然とした広い意味で、いい加減な使われかたをしております。それで、まず最初に、この言葉の本来の意味から調べることにして、普通の辞書をひきますと、ファンキーは「臆病な」となっているので何だか辻つまがあいません。実際のところ、この意味でファンキーという言葉が使われることはほとんどなくなってしまい、廃語同様になっているのです。
 ためしにこんどはスラングの辞書をひっぱってみましょう。おや!「汗くさい」という意味が出てきました。まるで違いますね。けれど、この意味のままで使われることもほとんどないといっていいでしょう。
 ではなぜジャズ用語になったか? といいますと、黒人の社会では、ファンキーという言葉を日常会話のなかでよく使っておりまして『おまえ臭いぞ!』と冗談まじりにいうような意味あいに転化しました。(略)「汗くさい」よりもどぎつい黒人独特の異様な体臭を指しています。
 ところでまた黒人の社会では白人に意味がつうじないような言葉を使ったり、わざと意味を逆にして使ったりするようなことがおおく、これが白人にたいする反抗のかたちをとってきました。たとえば白人を指してオフェイといっても意味がつうじませんが、じつは「敵」という黒人スラングなのです。ブルースは白人をからかった歌詞が非常におおいのに、白人はそれを知らないでうたっています。ジャズの曲目で、まるで見当がつかない題名があったりするのも、わざと白人には分らないようにしたわけであります。
 アメリカ人のジャズ通にむかってファンキーの意味を教えてくれといいますと、みんな口をそろえたように、それは「ブルース的で」bluesy「たましいがあり」soulful「土のにおいがする」earthyと説明づけてくれます。けれど、これだけでは充分な解答といえませんから、以上のような黒人独特の感じかたからファンキーという言葉をジャズでも使うようになったということを頭にいれておいて、これからもうすこし具体的に考えていくことにしましょう。
 ファンキーがこうも盛んに演奏されるようになった直接の原因といえば、ピアニストのボビー・ティモンズが作曲し、ジャズ・メッセンジャーズが演奏した「モーニン」がすばらしかったからであります。
(略)
 といってファンキーは最近になってあらわれたジャズ・スタイルではなくて、ずっと以前からモダン・ジャズとして黒人グループが演奏していました。テナー・サックス奏者のジーン・アモンズやハンク・モブリーが演奏した四年くらいまえのレコードをきいてみると、おや!ファンキーをやっているじゃないかというようなことになって、この当時からジャケット解説にファンキーの説明が出るようになったのであります。ファンキーな演奏をきいていますと、気持が浮きたつようになりますが、これはブルースの要素とニグロ教会でうたわれるゴスペル・ソングの要素がいっしょになっているからであって、ボビー・ティモンズは、とくにゴスペル・ソングの要素をつよく押しだしています。アモンズやモブリーの場合は、この要素が稀薄だったので目立たなかった一方、ロックン・ロール的でした。このロックン・ロールも都会的なものとなる以前は黒人独自のリズムをもっていましたし、レイ・チャールズがこの点では一流の演奏者であり「ソウル」といわれてジャズの根源とむすびつく要素が、このスタイルの特色となっていました。念のため「ザ・グレート・レイ・チャールズ」「ファンキー/レイ・チャールズ」「ミルト・ジャクソンレイ・チャールズ」をきいてごらんなさい。ロックン・ロールがファンキーとむすびついていることがわかるとおもいます。
 ティモンズ以前にゴスペル・ソングの要素をブルースとむすびつけて特殊な味をだしたのがピアニストのホレス・シルヴァーであって、彼が作曲した「ザ・プリーチャー」(説教師)も有名です。ホレスもジャズ・メッセンジャーズが一九五五年に編成されたときの第一次メンバーですが、あるとき黒人霊歌「帰り道を教えて」を演奏したあとで、この曲に興味をいだき、コード進行をそのままにメロディのヴァリエーションを考えた結果がファンキーになってしまったというわけです。
 ゴスペル・ソングは、ブルースが黒人の悲しみや絶望をうたいあげるのとは反対に、黒人に希望をかんじさせるようにします。(略)
黒人たちは子供のころから教会音楽をきかされているので、すっかり身にしみこんでしまい、自然とこれが演奏中にも出てしまうわけで、本来ならばファンキーは意識的にやろうといったものではなかったのです。
 では、どうしてこの傾向が濃厚になったかといいますと、若くして死んだトランペット奏者のクリフォード・ブラウンが元気だった一九五四年ころのことでした。当時のモダン・ジャズはウェスト・コースト派、すなわち白人グループの天下で、クール・スタイルのジャズが流行の波にのっておりましたが、このため、バップ・スタイルのジャズがすたれてしまった。(略)
[バップ復活のために]生まれたのがハード・バップであり、強烈な刺戟をあたえてくれました。
 そうこうするうち、アメリカ各州から才能のある若い黒人ミュージシャンたちがニューヨークにあつまるようになり、名実ともにイースト・コースト派の全盛期をむかえると同時に、たとえばセロニアス・モンクが再認識されたり、ソニー・ロリンズジョン・コルトレーンが評判になったりするうち、ファンキーがハード・バップを単純化したスタイルとして注目をあつめるようになったしだいです。最近ではキャノンボール五重奏団の「ワーク・ソング」「ジャンニイヌ」あたりをきいてみれば分るように、ファンキーはそれ自体が洗練されながらハード・バップを継承して力強いビートをうちだしているのです。

MILESTONES OF A LEGEND

MILESTONES OF A LEGEND

ハード・バップの八年間について、ジャック・クックの意見をきいてみよう

「ジャズ・マンスリー」四月号に、ハード・バップの発生と発展と消滅について論じたイギリスの批評家ジャック・クックの記事が出た。「ハード・バップ時代のアウトライン」と題してあって、その要領のいい展望のしかたと、なるほどと思う鋭い突っこみかたで感心させた。
(略)
 まず最初に頭に入れておきたいことは、ハード・バップがビ・バップ運動のなかから、ほとんど目につかないようなかたちで、それも非常にゆっくりと発生し、と思っていると、またゆっくりと目につかないようにして、オーネット・コールマンを中心にした運動のなかに溶け込みながら、消えてしまったということである。
 そういったハード・バップは、だからジャズ年代的にいうと一九五〇年代なかばに生きていた音楽であった。そして、もっとも華やかだった時期は一九五四年から一九五八年までの足かけ五年間だったのである。
(略)
それは、すでに確立されていたハーモニー理論を基礎にして考えていき、メロディ・ラインは、そう強くは押し出さないかわりに、リズムのほうは、たえず激しい調子にしていくという音楽だった。いいかえると、それまでのビ・バップの特色をとりいれ、あらたに息吹きをあたえながら発展させようとした試みなのだった。
 ここで振りかえってみると、一九五〇年になったときだが、ジャズは、じぶんの新しい言葉をハッキリと摑みとることができた。だが、まだ方向がシッカリときまっていない。これはジャズの大きな変化だったし、そうなったのはビ・バップの創始者たちのおかげであった。そして彼らは、ビ・バップ理念の根本的なものは樹立したのであるが、それをもっと力づよい動きにしなければならないという立場に置かれたのである。
 というのは、クール・スタイルが幅をきかせていて、べつにたいしてスイングしないのに、みんなにありがたがられ、そのうえ実験だといって、余計な真似をやりだしたからだ。こんなのはニセモノじゃないか!そうビ・バップ創始者たちは思ったのだが、といってクール・スタイルにたいするバップ・スタイルのよさを発展させていく者がいないのだ。バップ・スタイルのなかには、新しい発見がたくさんあり、そこからもっと新しいものが発見されていいのに、それにはソッポを向いて、みんながクール・スタイルに傾いているのだった。
(略)
 このようにクール・スタイルの流行のなかで、なんだか目だたない存在であった、バップ・スタイルに、ゆっくりと合体していったのがハード・バップだったから、いつそれが発生したかということは非常にむずかしい問題となってくる。しかしハード・バップの考えかたが、いつ結晶化し、具体的なものとなったかということ、つまりビ・バップが生んだ根本的なアイディアの単なる復習ではなくて、それ以上のものをハッキリと押し出したのは、いつだったかということは指摘できるのだ。
 それは一九五一年十月のことで、マイルス・デイヴィスがプレスティッジ・レコードのために、ソニー・ロリンズジャッキー・マクリーンアート・ブレイキーを加えた六重奏団で吹き込んだときだった。これらの四人は、このとき以来ずうっと、ああこれがハード・バップだな、と聴くとすぐ分るようになり、またしだいに興味をいだかせるようになった演奏形式と結びついていく重要なミュージシャンである。
(略)
一九四八年と四九年の有名なナイン・ピース・オーケストラは短命で終ったが、クールの流行というのは、このときのマイルスの試みから派生したものなのである。マイルスの個性を発揮させた、あのためらいがちで、断片的なフレーズを重ねていくやりかたと、ソフトな音の出しかたは、クール派のミュージシャンに非常な影響をあたえた。といって彼自身は彼らと殆どなんの関係もなしに自分の道をすすんでいったのである。またクール派の連中から教えられるものもなかった。
(略)
 いっぽうブルー・ノートは一九五三年に、若いトランペット奏者クリフォード・ブラウンを、はじめて売り出してやっている。彼は驚くほど楽器を器用にこなす素質と素晴らしいイマジネーションにめぐまれていた。これら初期のレコーディングを聴いただけでも、ハード・バップを背負って立つにちがいないことが判ってくるのだ。
 このようにハード・バップが活発さを加えていくと同時に、見逃すことができないのは、表現しようとするものが聴いているほうでハッキリと理解できるようになったこと、そして演奏そのものが、すっきりとハード・バップ・スタイルを押しだすことができるようになったことだった。このように細部的にもパターンがきまってくると、そのうち決定的なハード・バップ演奏が生れるにちがいないという形が感じられたのである。
 そうした最初の演奏が、一九五四年二月にバードランドで行われ、二枚のブルー・ノート・レコードに録音された。ホレス・シルヴァークリフォード・ブラウンが加わったアート・ブレイキー五重奏団であるが、この二枚のレコードを聴いてみると、一九四〇年代のビバップ・スタイルがどのように変化したか、しかも生みの親であるビ・バップの精神は、そのままに残されていることが、じつによく判るのである。
(略)
ビ・バップ時代のハーモニーにもとづいたコード進行が、そのまま受けつがれ、したがってハーモニーの点では新しい変化はないのだが、リズムがずっと激しい調子になっているので、そこで変化をしめしたのであった。
 この変化を、ブレイキーの演奏について、テクニックの面から考えてみよう。まず彼はバップ発生のころからリズム主義のドラミングで、バップ・リズムを論理的に発展させながら、リズムの重要性を押し出してきた。それはハイハットを規則的に繰返し叩くことによって生じるオフ・ビートな調子と、リヴェットつきシンバルによるトリプル・ビートとの組合せで、シンバル・サウンドのありかたを具体的に変えたということである。そのとき全体のヴォリューム感が圧倒的になると同様に、非常に大胆な従属的パターンを、さかんに織り込んでいった。こうして、それまでのドラマーの役割が、拍子をとっていくだけだったのを、その多音性の魅力で、ドラムがホーンと同様にフロント・ラインに立って活躍するだけの新局面へと導いたのである。
 そしてホレス・シルヴァーのピアノであるが、彼のばあいもブレイキーと同じように、ピアノが従属的な立場におかれていたのを、フロント・ラインに押し出したのであった。
 それをテクニックの面からみると、リフ・パターンを間断なく叩き出すシルヴァー・タッチだということになってくる。そしてその役割がどうかということになると、ハード・バップの演奏でリズム・セクションが非常に快調なばあいは、あらゆる瞬間にメロディ楽器がうまく乗っていかれるようなリズム・パターンになっていて、それが多様に変化していくのだ。もちろん、そのリズム・パターンには、はっきりとした表現をともなう。だからホーン奏者がソロをとりだすと、自然と非常に大胆なパターンになってくるのであって、それがブルー・ノートの二枚を聴いているとパーカーに影響されたルー・ドナルドソンのアルトの美しい流れのなかに、そしてまたクリフォード・ブラウンの急テンポで緊張感にとんだトランペット・サウンズがリズムに乗りだしたときなどに、もっともよく証明されることになったのだ。
 このようにビバップの特色だったハーモニーとメロディの強調のしかたを、リズムのうえからさらに強調しようとした。まじりっ気のないハード・バップの特色は、ここにある。そしてこの特色を、きわめて効果的に押し出してみせたのがセロニアス・モンクだった。もちろん彼をハード・バップ奏者だというのは間違っている。彼はバップを創始した数名の父親の一人だった。しかしバップ時代には、そういった父親としては無視されがちな存在だったのである。モンク独自の作曲なり演奏ぶりは、もともとが複雑したうえにデリケートなリズムによって土台づけられ、そのうえでハーモニックであり、メロディックである想像力が飛躍をみせたのだった。このリズミックな根本要素が、ハード・バップの時代になって、はじめて正しく認識されたというわけである。
[まだまだ続くが切りどころがないので以下省略]

http://d.hatena.ne.jp/ Milestones Of A Jazz Legend

/ Milestones Of A Jazz Legend