ジャズ・イズ ナット・ヘントフ

ジャズ・イズ

ジャズ・イズ

個性主義者

 デューク・エリントンがぼくに言う――「このあいだの晩、ラジオで、あるジャズ・マンがしゃべるのを聞いたよ、「モダン」ジャズの話だった。それで彼は自分の論点を例証するためにレコードをかけたんだが、その曲には1920年代にジャズ・メンたちが使った手法が使われてるんだ。「モダン」なんて、でっかいことを言ったって意味ないんだよ。この音楽で何かを言おうとした人はみんな――大昔の人までみんな――個性主義者なんだ。シドニー・ベシェルイ・アームストロングコールマン・ホーキンスのようなミュージシャンのことだがね。それからつづいて起こることは、その一人の人間によって何百人という他のミュージシャンが作られるってことになる。彼らは、その一人のうしろに並んでいるわけで、みんながカテゴリーと呼ぶやつができあがる。でもおれは「モダン」ジャズなんて術語を信用しない。おれは個性主義者をもとめて聴くんだよ。チャーリー・パーカーのような個性をね。」

エリントンと人種問題

セシル・テイラーが1950年代末に言ったことだが「彼はぼくに、どうやったらあらゆる種類の音楽的な影響やそれ以外の面の影響を、アメリカの黒人であるぼくの人生の一部として、統合することができるのかを教えてくれた。ぼくがぼくとして生きてきたあらゆるものがぼくの音楽の中にある。そしてそれはデュークについてもそうなんだ。」
(略)
[エリントンは人種問題について公式の場であまり発言しなかったので]
ジム・クロウ(黒人差別)とかつて呼ばれたものに対して鈍感であると考えられた向きもある。
 「ぼくをそんなふうに考える人たちは」(略)「ぼくらの音楽を聴いていないんだ。黒人の社会抗議と誇りとは、長いあいだぼくらのやってきたことの中で最も重要なテーマだった。あの音楽においてぼくらは、長いあいだこの国で黒人であるとはどういうことであるのか、それを語ってきた。そして自分たちが無礼な扱いを受けるような立場に身をおいたことはない。(略)
[バス旅行の代わりに]プルマン車を二輛と70の貨物車で旅行したんだ。それをどの駅にも停めてその中で生活した。自分たちの水、食物、電気、トイレがあった。土地の人たちがやって来て「ありゃ何だ」って言う。「そうさな」とぼくたちは言う――「大統領が旅行するときはああやるのさ」。」
 「ぼくたちは主張を通したんだ」とデュークは語りつづける。「当時ほかに何がやれただろう。
(略)
1960年代末にテイラーはアンティオク大学で教えていて、学生オーケストラをつくろうとしていた。(略)
[学生デモで]大学は閉鎖した。テイラーはキャンパスの外の場所でリハーサルをつづけた。そして造反リーダーの黒人学生に、なぜ授業をやめないのかと非難された。
 「あんたの民族のために何かをやりはじめるのは、いつになるんだ?」と学生の一人がテイラーにどなった。
 「ぼくはこれまでの人生でずっとそれをぼくの音楽の中でやっていたんだ」とテイラーは正確な返答をした。

ビリー・ホリデイ

 ジョン・ハモンド回想――「ぼくが最初にビリーを聴いたのは1933年のはじめだ。彼女は17歳だったが、もう人生に傷つけられていた。
(略)
「アップタウンのクラブで丸ぽちゃの女の子がテーブルのあいだをまわり歩いているのさ、歌いながら。自分の耳が信じられなかったね。それまでこんな声を出す女の子は聴いたことがない――まるで楽器みたいなんだ、ルイのトランペットみたいなんだ。それに彼女の即興ぶり。ここの女の子たちは仕事中、二十から三十のテーブルを歩きまわって歌をを歌わなければならないのさ。こりゃ、たいへんな量の音楽のもとでが要ることだから、もとでがなければすぐわかる。彼女にはそれがあった。」
 ほかにハモンドの憶えていることは、テーブルをまわっているほかの女の子たちはチップをもらうのにドレスをもちあげてその陰唇でドル札をはさむものとされていたのに、ビリーはそれをやろうとしなかったということだ。ついでながら、このことから、彼女ははじめてレディと呼ばれるようになった――はじめは彼女の、礼儀知らずの同僚たちが嘲笑的に言ったのだ。のちにレスター・ヤングはその仇名を長くして〈レディ・デイ〉と言った。姓のホリデイのデイを追加したのである。
(略)
「1933年から1944年のあいだに百枚以上のレコードを作ったけれど」と『奇妙な果実』に彼女は書いた――「そのどれについても印税は一セントももらっていない。一面につき25ドル、50ドル、最高は75ドルもらって、それで喜んでいた。

ジョン・コルトレーン

「ほんとうに何かを言おうとしているひとと共演しているとき、たとえほかの点ではそのひととスタイルがずいぶん違っていても、一つだけ変わらないものがある。それは張りつめたような体験、電気を通されるような感じ、その種の高揚するようなフィーリングだ。どこでそれが起こっても、そのフィーリングが訪れてくればわかるし、ハッピーになる。」

ジェリー・マリガン

 ある意味でマリガンはジャズ界のハックルベリー・フィンである――ときに華麗、ときに物思いに沈む、いつも変わることなき放浪者。
 1959年、マリガンがピアノなしのカルテットのリーダーとして国際的に有名になったとき、デイブ・ブルーベックが言った――「ジェリーを聴いていると、まるでジャズの過去、現在、未来をみんないっしょに一つの曲の中に聴いているみたいなんだ。しかも趣味がよくて無茶なことはやらないからイディオムの変化にまるで気がつかないでしまう。マリガンは急進的ジャズのハーモニー意識で古いニューオーリンズのツー・ビートをやるから、伝説が破壊されているという感じではなくて、むしろ伝統が押し進められているという感じなのだ。」
(略)
ポール・デスモンドによるマリガンの分析だ――「おそらく彼以外のどのジャズ器楽奏者の場合にも、彼のようにはっきりとデキシーランドからスイングを経てビバップに、それからビパップを出て行く過程までをぜんぶ、同じソロの中でないにしても、同じレコードの中で示すひとはいないだろう。」

マリガンはニューヨークに惹かれて落ち着いた。彼は主としてクロード・ソーンヒルのビッグ・バンドのために編曲の仕事をして生活し、どんなジャム・セッションでも、見つけ次第「出し抜いて」入ったと言う。(略)マリガンはどんな厳しい審査もパスした。編曲者としても大進歩を遂げたが、その理由の一つはソーンヒル・バンドの筆頭編曲者ギル・エバンスとの交際を深めたことにある。エバンスは当時35歳。頑固な、独学の実用主義者で、複雑な、豪華に織りなされた個性的スタイルを発展させていて、他の若いミュージシャンも影響を受けたが、マリガンに重要な影響を及ぼした。
 1947年にエバンスは西55丁目の中国人の洗濯屋のうしろのアパートの地下の一室に住んでいたが、この部屋がモダン・ジャズの少なくとも一つの主要な展開の発祥の地となった。
(略)
このアパートでの討論が結果的に1949-50年のマイルス・デイビスのキャピトルでのレコーディングに結びついた。このレコードは何年にもわたり世界中に「クール」ジャズの時代を現出させたのである。(略)
 このときマリガンとエバンスが感じていたことは、辺境開拓者の探究心はそのまま維持して、音楽をもっと繊細な、もっと多彩な、もっと組織されたものにしようということであった。ソーンヒル楽団によって成就したハーモニーの幅を表現できる、最少限の数の楽器はどれとどれかということからアパートでの討論がはじまった。
(略)
 初期の、より激しいモダン・ジャズの特性にくらべて、もっと軽い、もっとなめらかなビート、もっと変化のある、微妙なダイナミック・レンジをはやらせることになったほかに、このセッションは集団的な作用反作用の重要性をふたたび強調する点で影響力があり、それは実にさまざまな形で1970年代までつづいた。この音楽の影響力がもっとも実らなかったのは1950年代の、概して不毛な、機械的な、ほとんど完全に白人のものである「ウエスト・コースト・ジャズ」であった。(略)
エスト・コーストの演奏家が把握しなかったのは、マイルス・デイビスの表面の「クール」の下には多量に圧縮した力があるということだ。その訓練された核を見るならば、これもまた「ホット・ジャズ」だということ。
 1950年代の後期までに、不毛な「ウエスト・コースト・ジャズ」に対する、また、こうした白人演奏家が正統ジャズを勝手に改変して相当な収入を得ていることに対する、直接的な怒りの反応として、東部の黒人演奏家は「ファンク」あるいは「ソウル・ジャズ」を強調するようになった。この反撃をもっとも強力に示すのは、ホレス・シルバーアート・ブレーキーをリーダーとするコンボの、ブルース=ゴスペルに根をもつ絶叫である。
(略)
 ニューヨークのあと、マリガンはカリフォルニアヘ行き、西部へまでも身につけて行ったヘロインの習慣と一生けんめい闘い、終局的にはそれに勝ち、一連の、静かにスイングし、対位法的に即興するカルテットをやりはじめて、国際的に有名になった。このカルテット時代に、マリガンはもう一つ、ジャズに対して意義ある貢献をした――私見によれば、違った構造、新しいデザインで再びよみがえりつつあると思われる貢献だ。それは対位法的スイングの自然な発展である。デイブ・ブルーベックもこの方向で仕事をしていた。彼のアルト・サックス奏者ポール・デスモンドは、こうした種類の即興において非常に巧妙で想像力に富んでいたけれども、ブルーベックは単調になることがあまりに多かった。突破口を開いたのはマリガンであった。
(略)
[小学校三年生で]「学校へ行く途中」とマリガンは回想する――「ホテルの前にとまっているレッド・ニコルズのバスを見た。おそらくその瞬間はじめてぼくはバンドのミュージシャンになって旅行したいと思ったのだ。それは小さな古いグレイハウンドのバスで、天蓋のある展望台がついていて、バスには『レッド・ニコルズと彼のファイブ・ペニーズ』と活字体で書いてあった。それはすべての旅と冒険を象徴していた。それ以後のぼくは、以前のぼくではなくなった。」

West Coast Jazz

West Coast Jazz

 

セロニアス・モンク

『ダウン・ビート』誌のインタビュー記者をにらみつけて、最後に言ったこと――「ジャズはどこへ行く?どこへ行くか知りません。地獄へ行くのかな。何を、どこへ行かせるわけに行きませんよ。ハプニングあるのみです。」

チャールズ・ミンガス

たいていのひとよりも大きい犠牲を払ってきた。長期にわたり因襲破壊主義に駆られたため、とうとう疲れ果てて、以後彼の人生からどんな音楽が生まれるにしても、それは大胆に、怒りをもって吹き荒れた過去の、断片化し、希簿化した残響ということになるだろうと思われた時期があった。
 最低をきわめたのは1960年代末だった。ミンガスはほとんど公けの場に顔を出さず、顔を出すと彼の音楽はほとんど情熱なしの回顧であった。昼間、ときにイースト・サイドの南寄りをぶらついているのを見たものだが、ひどく沈んだ、放心した様子であった。(略)
 友人を電話に呼び出して、緊急な政治上の新理論、人種偏見の力学、音楽ビジネスの込み入った類廃ぶりなどを語ったミンガス、あるいは自分がだれであるのかも言わず、何も言わずにボリュームをいっぱいに上げて、作曲中の作品のテープを電話に流すミンガス、そういうミンガスも消えてしまった。
 「カム・バックは絶対にしないよ。」長いあいだミンガスと共演していたひとが、ミンガスの忘れられている時期に、ぼくに言った。「自分を使い果たしてしまったとしか言いようがないな。」
 ほんとうかなとぼくは思った。
(略)
 とうとう復活したという知らせが来た――コンサート、新しいレコーディングをやるという。ぼくはコロンビア・レコードの編集室のミンガスに会いに行った。
(略)
 演奏が終わったあとで、ミンガスに、忘れられていた時期のことを訊いた。「三年ばかり」と彼は言った――「ぼくはもうおしまいだと思っていたよ。ときにはベッドから出ることもできないのさ。眠ってたんじゃない、ただ横になっていたんだ。しかしあそこに、東五丁目とA番街のまじわるところに、南に下ったイースト・サイドの奥深く暮らしていて、人間のことを学ぶようになった。それでカム・バックができるようになったのさ。
(略)
ぼくは、その箱にある、ニュー・アルバムの題名が《レット・マイ・チルドレン・ヒア・ミュージック》であるのに気づいた。それはどういう意味かとぼくは訊いた。
 「たくさんの子どもたちが」とミンガスは言った――「ロック・ミュージックなんかがどこへ行っても溢れていて、雑音しか聴けないんだ。ああいうのは表現することが実に限られているし、そのわずかな表現したいことを表現する方法も限られている。しかし子どもたちはもっと、ずっと多くのことを聞くことができるんだ。そんなにまえじゃないが、ぼくは自分のバンドといっしょに〈ジャズモビール〉で演奏した(略)
いっしょに来たやつが言うんだ、「ミンガス、ここの子どもたちには、きみがふだんやるようなのは聴かせられないよ。彼らにはわからないんだから」って。しかしぼくは自分がふだんやるものを演奏した。いや、それ以上に、ぼくにできる限り音楽的展開をやってみたんだが、それでも子どもたちの気に入った。」
 「その子たちがみんな」――ミンガスは微笑していた、その子たちの顔をもう一度見ているようだった――「トラックのあとを追って来て、もっと演奏してくれって言うんだ。もちろん聴きたくなるわけさ。彼らの音楽じゃないか。彼らの人生なんだ。遠い過去とつながっていて、その先も限りないものなんだから。」
(略)
〈ファイブ・スポット〉で、ある夜、バーにいた非常にブラックなミュージシャンが大声で、彼ほど黒くないミンガスを罵倒した。(略)
次期の〈黒人意識〉運動の先駆者ともいうべきこの男はミンガスに向かってわめいた――「おめえはブルースをやれるほどブラックじゃねえよ。」
 バーの男はミンガスのほうへ進んで行った。ミンガスはベースを下において、話を拳でつづけようとした。が、ミンガスは気を変えて、ベースを取りあげると、響き渡るベース・ソロをはじめた。それは実に深くブルースに突入し、喧嘩を売った男は文字通り不意を打たれた。
(略)
 他方、ミンガスは人種差別が多種多様の形であらわれることを鋭敏に意識しながら、同時に、人種を超越して考えることが肝要だと感じている。「もう肌の色だけの問題じゃないんだ」と、数年まえ彼はぼくに語った。「それより深いものになって来ている。ねえ、男も、女も、ただ愛するというだけのことがだんだんむずかしくなって来ているんだ。みんな断片化してしまっていて、その一つのあらわれは、もう、自分たちが正確にどういう人間であるかを知って、それにもとづいてものを作りあげて行こうなんていう努力を、ほんとうには、やっていないということ。たいていの人は、たいていのときに、自分のやりたくないことをやらされている。その結果は、もうどんな大事なことについても、自分がどういう人間であるかも含めて、選択の余地がないんだ、仕方がないんだと感じるようなところまで来てしまっている。みずから奴隷になっているんだな。けれどぼくはやり抜いて行く。そうして自分がどんな種類の人間であるかを自分の音楽を通して見つけるんだ。音楽だけが、ぼくの自由になれる場所だ。」

Let My Children Hear Music

Let My Children Hear Music

 

チャーリー・パーカー

 バードはほんとうに彼なりに、音楽、あらゆる種類の音楽のもつ無数の喜びに驚嘆したのである。あるとき、ミュージシャンたちのバーで、バードはジュークボックスのカントリー・ミュージックのレコードを聴きたいと主張した。そこにいたほかのジャズメンが、そんなのは下らぬサウンドだと嘲けるのが我慢できず、「ちがう」とバードは主張した――「彼らは彼らにとってリアルな話をしているんだ。おれは彼らの言っていることを聞くんだ。」
 あるいは、ジジ・グライスの言い方を借りれば――「バードはおよそ、どんなひとの演奏でも好きになった。」ピアニストのジョージ・ウォリントンの妻、現在ワーナー・ブラザース・レコードの重役をしているビリー・ウォリントンが思い出を語る――「死ぬ二、三週間まえバードはポケットに50セントしかもちあわせないでブロードウェイを歩いていた。アコーディオンを弾いている盲人の乞食に出会ったの。バードは盲人の受け皿に25セント貨を入れて、《オール・ザ・シングズ・ユー・アー》を弾いてくれと頼んだ。数分後にまたこのアコーディオン弾きのそばを通ると、まだ同じ歌を弾いているの。チャーリーは笑って、伴れのひとに、あいつのコードは正しいぞと言って、それから古いズボンのポケットから最後の25セントを出して、みんなその盲人にやっちゃったの。」
(略)
ケネス・レクスロスはバードとディラン・トマスのような「戦後世代の英推たち」は「自分たちの置かれた世界の恐怖に圧倒されたのだ、なぜなら、彼らには結局、もはや純粋に抒情的な芸術という武器では、その世界を圧倒することができなくなっていたから」だったと考える。

モンクとコルトレーン

 モンクは一つの完全な音楽的小宇宙を創造する。そこで彼と共演するミュージシャンにとって問題となるのは、いかに自分のバランスを保つか、モンクの予測不能なほど込み入った想像力がどこへ赴こうと、彼について行く――そして同時に自分自身の演奏をする、自分自身である、ということなのだ。
 「モンクといっしょにいて新しい次元の機敏さを学んだ」とコルトレーンは言った――「なぜかというと、いつも何が起こっているのか気をつけていないと、ふいに底のない穴の中に落ちてしまったような感じになるんだ。」彼はほかのことも学んだ。「モンクはどうしたらテナー・サックスで一度に二つないし三つの音を出せるか、ぼくに教えてくれた最初の一人だった。それは正統的でない指さばきと、唇の調節でやるんだけれど、うまくやると三つの音が出る。また彼の作品で長いソロ〔マイルスとやるときよりも長い〕を演奏する習慣をつけてくれた。同じ作品を長時間演奏してソロに対する新しい考えを見つけるんだ。それで一つのフレーズについてアイデアが尽きてしまうまで、できるだけやってみる。ハーモニーがぼくのオブセッションとなった。ときには望遠鏡を反対側から覗くようにして音楽を作っていたんだ。」

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