ブルーノート読本 アルフレッド・ライオン語録 小川隆夫

第一章がライオン語録、第二章が著者の『スイングジャーナル』誌での連載、第三章が著者のライナーノーツからなので、情報がだぶってる面もあり。

はじめに

初対面、アルフレッド・ライオン

 アルフレッド・ライオンに初めて会ったのは一九八五年二月二一日、ニューヨークにあるSIRスタジオでのことだ。この日は、翌日に「タウン・ホール」で開催されるコンサート、「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」のためのリハーサルが行なわれていた。
 多くの関係者はこのときまでライオンの消息を知らなかった。大半のひとは彼がもうこの世にいないと思っていたのである。そのライオンが、西五三丁目にあるSIRスタジオになんの前ぶれもなく現れたのだから大騒ぎになった。
 最初に気がついたのはベース奏者のロン・カーターである。スタジオではフレディ・ハバードを加えたハービー・ハンコック・グループのリハーサルが始まっていた。そのメンバーのひとりだったカーターがベースを床に置き、信じられない面持ちで「あなたはひょっとして世界でもっとも偉大なプロデューサーではないですか?」と声をかけたのである。あとは居合わせたミュージシャンが次々とライオンの周りをとり囲む。みな興奮して大変な騒ぎになってしまった。ハバードなど感激して涙をポロポロと流していたほどだ。
(略)
おそるおそる自己紹介をして、その場でインタヴューを申し込む。(略)
[コンサート翌日]
 ライオンは自分のことがよほど話したかったのだろう。一時間分のテープしか用意していないと知るや、三時間は話すと明言したのである。

ブルーノート誕生

 コモドア・ミュージック・ショップのミルト・ゲイブラーとは気が合った。わたしより数歳若いのにジャズの知識はもの凄かった。(略)いろいろなひとをミルトは紹介してくれたよ。それも楽しみで、彼の店には入り浸っていた。(略)
プロデューサーのジョン・ハモンドともコモドア・ミュージック・ショップで最初に会っているはずだ。(略)
 ハモンドは大金持ちの息子で、アメリカではエリート階級に属していた。しかし彼にとって出身や肌の色はなんの意味も持っていない。ジャズ好きのひとには自分から気さくに声をかけていたし、お高くとまったところは一度も見たことがない。ジョンはわたしのようなジャズ・ファンにも親切に接してくれた。それであるとき、チケットを買い損なったコンサートの話が出て、「それじゃあ君に一枚あげよう」ということになった。それが彼のプロデュースした「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スイング」だ。
 最初、そんな考えは少しも頭の中になかった。それが(挨拶に行った楽屋で)、彼ら(アルバート・アモンズやミード・ルクス・ルイス)の顔を見たとたん、無意識のうちにレコーディングをさせてほしいと口走っていた。
(略)
 わたしはスタジオも知らなければ、エンジニアも知らない。レコーディングに関してはまったくの門外漢だった。すべてをコーディネートしてくれたのがジョンだ。
(略)
 レコードは友人に配るつもりだった、少し時期ははずれるが格好のクリスマス・プレゼントになると考えた。ところがふたりから強く勧められたんだ、「出来がいいからぜひ市販してくれ」ってね。そういわれたって、レコーディングの仕方だって知らなかったわたしにはどうすればレコードが世に出せるものなのか見当もつかなかった。
(略)
[ラジオで流れて注文が入ってくるようになり、会社設立のため]
ニューヨーク港で港湾労働者として夜だけ働き始めた。
 仕事もきつかったが、それよりピンハネされるのには参った。わたしなんかパートタイムだからユニオンにも入っていない。マーロン・ブランドが主演した『波止場』という映画を知ってるかね?あれと同じような世界だった。それでも一ヵ月ほどで自分が出す分の設立資金を稼ぎ、港での仕事を終わりにした。
(略)
 いまのようにきちんとした発売日はなかった。しばらくの間はプレス工場からアパートに届いた日が発売日になった。

モダン・ジャズ

 そのころ(五〇年前後)はブルーノートをモダン・ジャズの専門レーベルにしようという踏ん切りがまだついていなかったんだと思う。ビバップじゃ会社は運営できない。手堅いのはクラシック・ジャズだった。ただ、これからはビバップのような若い音楽が伸びていくのもわかっていた。(略)
 コモドアのミルト(ゲイブラー)はスイング系のミュージシャンのことばかり話していたし、プレスティッジのボブ(ワインストック)に会えば若いミュージシャンのことで盛りあがる。わたしはどっちつかずだった。でも、自分に素直になろうと思っていたよ。ブルーノートはわたしが作ったレーベルなんだから。

マイルスが麻楽に溺れていることは

知っていた。アイスクリームが大好きで、シャイな青年だった。わたしといるときはめったにアルコールも口にしなかったし。そうそう、あのころは声も普通で(略)、歌も結構いけた。「ヴォーカル・アルバムを作ろうか」なんていう冗談で盛りあがったこともある。チェット・べイカーがヴォーカルを吹き込む前の話だから、一曲でも録っておけばあとで話題になっただろうね(笑)。
 マイルス・デイヴィスという人間が大好きだったし、アーティストとして尊敬もしていた。でも、「麻薬をやめなさい」とはいえなかった。それは本人が決めること。いくら周りが注意したってやめられないひとはやめられない。酷なようだが、そのひとの人生はそのひと自身が決めればいい。(略)彼は賢い男だったからいつかはクリーンな体に戻ると信じていた。(略)
 マイルスは評価が定まっていなかった。ジャズ・クラブで彼の演奏を真剣に聴いているひとなどほんのひと握りだったよ。黒人のエンターテインメントぐらいにしか思われていなかったからね。

ジミー・スミス

 ジミーの作品は売れ行きが早かった。(略)
再プレスするくらいなら次の作品を出したほうが早かった。
 トリオだから経費がかからなかったことも録音回数の増大に繋がった。ジミーの無尽蔵を思わせる創作意欲がそれに拍車をかけた。それとレコード・マーケットにも変化が起こり始めていた。
 ジミーのレコーディングをするようになったころには、最初はどうかな?と思っていたホレス(シルヴァー)のファンキーなプレイも大好きになっていた。それにこの手の演奏は黒人ファンに喜ばれる。ブルーノートには高級なイメージがあって、それはそれで有り難いことだった。けれどそうなると黒人ファンから敬遠されがちになってしまう。それを払拭したい思いもあった。それが積極的にジミーを録音した理由のひとつだ。この手の演奏は彼らに受けたし、ブルーノートは黒人に支持されるレーベルでありたかった。

ソニー・クラーク

 わたしはホレスに続くピアニストがほしかった。ソニーにそれを期待したこともあったが、レコーディングをしてすぐにわかったのは、ふたりの音楽に対する考えがまったく違うことだった。ホレスは曲を書くときでもグループのサウンドを同時に考えていた。反対に、グループのことなど念頭に置かず曲を書いていたのがソニーだ。
 ピアニストとしてのソニーにも心を奪われたが、わたしは作曲者としての彼にも期待していた。
 日本でソニーのレコードが好セールスだったことは知っていた。わたしがブルーノートにかかわっているときからやけにアルバムの注文が多かったからだ。どうしてそんなに売れるんだろう?って首を捻ったものだよ。なにしろアメリカじゃまったく無名だったんだから。

スリー・サウンズ

 ホレス(シルヴァー)はいつだってブルーノートのことを気にかけてくれていた。経済的に大変だったことがわかっていたから、なんとか業績が上向きになるようなアーティストを紹介しようと骨を折ってくれたんだ。そんなときにこのグループも紹介してもらった。自分より売れるといってね。まったく友情に厚い男だよ。ホレスは。

『モーニン』でファンキー・ジャズ・ブーム到来

 ホレス(シルヴァー)が抜けてからのジャズ・メッセンジャーズは個々のテクニックや音楽性に頼るようになって、グループとしてのサウンドに面白味がなくなっていた。(略)彼の作品は作りたかったが、ジャズ・メッセンジャーズにはなにかが不足していた。
 それでもアートはジャズ・メッセンジャーズを率いてこそアートだと思っていた。そこで、彼に誰か音楽監督を立ててジャズ・メッセンジャーズをリニューアルしてみないか?と持ちかけてみた。するとべニー・ゴルソンにアレンジを頼みたいといってきた。
 ブルーノートは『モーニン』のヒットと一連の作品でファンキー・ジャズの代表的なレーベルみたいに思われるようになった。しかし特定のスタイルにこだわるのはわたしの本意でない。たまたま好きな音楽やミュージシャンのレコーディングをしていたらそういうものがカタログに増えただけのことだ。

リー・モーガン

 二十歳そこそこだから、リー・モーガンはロックにも敏感だった。「ジャズでもこんな音楽がありなんだ」というのがそのとき(〈ウォーターメロン・マン〉を聴いたとき)の気持ちじゃないのかな?

ファンキー・ジャズ

ブルーノートで初めてファンキー・ジャズらしい演奏が録音されたのは、シルヴァー・クインテットによる〈ドゥードリン〉と〈ザ・プリーチャー〉だ。しかし、これらの曲を聴いたライオンはレコーディングに乗り気でなかった。彼の耳にはなんともやぼったく響いたらしい。
「いまだにあの曲はどちらかといえばあまり好きじゃない。ホレスには悪いがね。でも、ヒットはすると思っていた。それでずいぶんブルーノートは救われた」
(略)
ブルース好きのライオンが、シルヴァーのファンキーな演奏が好きになれないというのだから、ぼくには不思議に思えてならなかった。
 そこで、理由をもう少し聞いてみた。
 「ホレスには、マイルス(デイヴィス)とやっているときのような、もっと新しいスタイルの演奏が合っていると思っていた。あるいはアート(ブレイキー)と吹き込んだ「バードランド」でのライヴのような演奏がね」
 ライオンにいわせれば、彼が弾くファンキーなジャズはどことなくオールド・ファッションに響いたのだという。
(略)
 当時のブルーノートは、アトランティックやコンテンポラリーに身売り話が出るほどの経営危機に陥っており、それを救ったのがシルヴァーのシングル盤だった。これはかなり売れた。ライオンはそれによって、ある意味で目が覚めたという。
 「それまでのブルーノートは白人層が主な顧客だった。しかしあのレコードは黒人ファンがずいぶん買ってくれた。それが嬉しくてね。(略)
すると不思議で、ホレスのファンキーなプレイまで好ましく思えてきた。ただし、あのレコードだけは正直いっていまも好きになれない」

アート・ブレイキー/バードランドの夜』

 このライヴでMCを務めたピー・ウィー・マーケット(略)
「あの夜のことは覚えている。アートが爆発したのを初めて目撃したんだから。(略)
あのときはバード(チャーリー・パーカー)も裏から入ってステージ横で演奏を聴いていた。だから彼の曲をバンドは何曲かやったはずだ」。ハード・バップを目指していたクインテットが〈ナウズ・ザ・タイム〉など四〇年代に書かれたビバップ・チューンをいくつも取りあげている。その不思議さにこれで納得がいった。

クリフォード・ブラウン

セッションのリーダーを務めたルー・ドナルドソンは(略)こう語ってくれた。
 「彼と初めて会ったのは五三年に行なったレコーディングのときだ。アルフレッドが素晴らしいトランペッターを見つけたって興奮して話してくれた。それで彼をわたしのレコーディングに使ってみたいっていい出した。スタジオに入る二〜三日前のことだ。(略)観たことも聴いたこともないトランペッターだったから、内心は不安だったけれどね。でもスタジオでクリフォードのプレイを聴いたときはぶっ飛んだ。少年みたいな若者が恐ろしい勢いでフレーズを吹いているじゃないか。そのウォームアップしている姿を観ただけで、こんなトランペッターは初めてだっていう思いになった。ディジーやマイルスともプレイしていたけれど、彼ら以上に存在感があったからね。しかも、聞けば初めてのレコーディングだっていうじゃないか。その割に堂々としていたことを覚えている」

ジャズ・メッセンジャーズ分裂の理由

通説によれば、五五年にブレイキーとシルヴァーは喧嘩わかれをして、前者はジャズ・メッセンジャーズの名を取り、後者はメンバー全員を引き連れて独立したことになっている。
(略)
ライオンの言によれば、ふたりは決して喧嘩わかれをしたのではなく、実のところ宗教上の問題が大きく関与していたという。イスラム教徒のブレイキーに対し、シルヴァー以下のメンバーは別の宗派を信仰していた。そのため、演奏上では問題がなかったものの、しじゅう顔をつき合わせるツアーでブレイキーは次第に孤立していく。こうしたプライヴェートなことから、音楽的には文句なく当時のコンボ中で最上のひとつだったジャズ・メッセンジャーズは分裂してしまう。

「モーニン」誕生

[ベニー・ゴルソン談]
 「アート(ブレイキー)からバンドに入らないかって誘われたのは一九五八年の夏も終わりに近いころだ。ジャズ・メッセンジャーズは開店休業の状態で、名前はあったもののグループの実体がなかった。メンバーを選ばせてくれるならという条件で、わたしはグループの再建を引き受けることにした」(略)
 「カーティス・フラーとファンキーな演奏をやっていたんで、その手のサウンドジャズ・メッセンジャーズでも追求しようと考えた。(略)まず声をかけたのが同郷(フィラデルフィア)の後輩リー・モーガンだ。続いて彼の推薦でボビー・ティモンズが入ってきた。ジミー・メリットは、アートとの相性がよさそうなのですぐに決まった」(略)
[それまでのレパートリーを封印し、ゴルソンの曲だけでは足りないので、ティモンズも書かせた]
 「ホビーの曲はゴスペル風のメロディを持っていた。彼はピアノ・パートの譜面しか用意していなかったんで、それを弾いてもらったところゴスペルで使われる《コール&レスポンス》がすぐに閃いた。あのフレーズにホーンが合いの手で応じたらどうだろうか?(略)そうすることによってメロディがもっと強調されると思った。でも、あれがその後に世界中で大ヒットするなんて誰も考えなかったがね」
 ティモンズはメロディに合いの手を入れるようなホーンが吹くふたつの音を五秒で書き加えた。マイナー調のゴスペル風メロディを持つ〈モーニン〉が生まれた瞬間だ。

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