ハード・バップ モダン・ジャズ黄金時代の光と影

ハード・バップ―モダン・ジャズ黄金時代の光と影

ハード・バップ―モダン・ジャズ黄金時代の光と影

リー・モーガン

 リー・モーガンには、典型的なハード・バッパーと思われる点がいくつかある。いやハード・バッパーとは、モーガンのことだったのかもしれない。せせら笑うようなダーティーなソロ、攻撃的な魅力、ハーフ・バルブ奏法、うす汚れた音色――モーガンのソロは不良らしさの象徴であり、多くのジャズメンの憧れだった。
(略)
 ディジー・ガレスピーのビッグ・バンド在籍時にみられるビ・パップの影響を受けたフレーズから、後年のレコードに聴かれるうねりをもったモーダルな曲想まで、リー・モーガンが自分のスタイルを発展させていく過程は、ハード・パップが進化する流れとピタリと一致する。モーガンの生きざまと個性は、この時代のジャズにあったカッコよさの象徴でもあった(多くの写真に残されたモーガンの表情をみると、傲慢さとむらっ気、一瞬に生きようとする刹那主義を感じさせ、いまでもにらめつけているようだ)。
(略)
初期のモーガンの魅力は、マイルスやドーハムの詩情豊かで哀愁を帯びたスタイルよりも、最初の三人(ナヴァロ、ブラウン、ガレスピー)に代表される外向的なスタイルと、より密接に関わっているからだ。
 年輪を重ねたこととブレイキーから指導を受けたことで、モーガンのソロはよりメロディックになった。ほかのトランペット奏者がたくさんの音を吹いたのに対し、モーガンが吹く音は少なかった。音色は暗さを増し、フツフツと沸き立つような激しさやクリフォード・ブラウンのような甘美さは少なくなったが、皮肉と悲しみが混じり合った味わいを身につけていった。(略)
一九六〇年になるとモーガンは紛れもない独自の音色、アタック、フレージングを身につけていた。ウエイン・ショーターのサックスと見事に調和し、全体としてはジャズ・メッセンジャーズの精神にも溶けこんでいた。邪悪であると同時に、華麗でもあった。
 一九六四年になると、モーガンは〈ザ・サイドワインダー〉のヒットを放った。
(略)
 モーガンの成功からわずか数年のうちに、ジャズは黒人の間だけでなく白人の間でも急速に人気を失っていった。モータウンサウンドやロックを聴くリスナーにとって、ジャズ・ミュージシャンは流行遅れのように思われた。
 モーガンがヒットを出したのは、ジャズがヒップな若い黒人ミュージシャンの間で魅力的だった最後の時期だった。
(略)
 一九七〇年になるとハード・パップのシーンは急速に衰え、それまでジャズを支えてきたマイナーレーベル、黒人のDJ、流通業者とのつながりも崩壊していく。

Milestones Of A Legend

Milestones Of A Legend

ビ・バップの誕生

 モダン・ジャズにまつわる関心事のなかでもっとも有名なものといえば、ビ・バップがどのようにして《ミントンズ・プレイハウス》で誕生したか、ということだろう。
(略)
 ビ・パップの誕生にまつわるエピソードがもうひとつある。それは風変わりなコード進行とキーが能力のないミュージシャンを追っ払うために設定された、ということだった。
(略)
[イリノイ・ジャケー証言]
《ミントンズ》のジャム・セッションは、飛び入り歓迎のイベントだった。(略)レベルの低い者も、なんとか演奏に参加しようとやってきた。(略)
 モンクの演奏はBフラットだと思っていたら、いつの間にかFシャープやDナチュラルになっていた。だからいっしょに演奏する者は、あまり長い時間ステージに立つことはできなかった。モンクがどのキーで演奏しているか、わからなかったからだ。モンクは自分の演奏しているキーがまわりに理解されていないことと、よそ者が長いソロをとろうと思ってもできないことを知っていたのだろう。
 モンクやほかの連中が風変わりなキーで演奏すると、音楽はそれに合わせて転調していった。そうしてだんだんモダンになっていった。キーには、演奏者を引きよせる効果があるからね。よそ者の多くは、ついていってはひと休みするだけで、目指す音楽はなかなか生まれなかった。よそ者がやってくると、モンクはすぐにキーを変えて演奏しようとしたよ。よそ者がいなくなっていつもの仲間が入ると、今度はうまくなるんだ。こうして演奏を続けるうちに、やがて自分たちの求める演奏を誕生させた。こうして転調がわかるようになると、Bフラット、Dナチュラル、どんなキーでも自然に演奏できるようになったんだ。
(略)
 一九四五年になると、こうした仲間のなかでも冒険心豊かな連中が、あらたにひとつのスタイルを作りあげた。それはパップもしくはビ・パップと呼ばれ、それ以前のジャズとはっきり違っていた。
(略)
 ビ・バップには速いテンポ、複雑なハーモニー、入り組んだメロディ、ベースの爪弾きとドラムスのライド・シンバルだけで安定したビートを打ち出すリズム・セクション、といった特徴があった。メロディは入り組んだものが多く、びっくりするほど曲がりくねっていた。(略)一九三〇年代のスイング・ジャズとは違った音楽を生み出した。
(略)
たとえばチャーリー・パーカーが作曲した〈ドナ・リー〉(略)
この曲はポピュラーソングの〈インディアナ〉のコード進行を借用したものだ。既成のスタンダード曲のコード進行を借用するのは、ビ・パップでは日常茶飯事だった。〈ドナ・リー〉のメロディはヘビのようにくねくねしており、ユニークなシンコペイションがある。曲の重点も、単純で歌心溢れるテーマより即興的なフレーズに置かれている。三人のソロイスト(パーカー、デイビス、パウエル)は全員長いフレーズを演奏しているが、そのフレーズは小節ごとの境目をはみ出すことが多い。フレーズの最初と最後も、予期せぬかたちであらわれる。こうした長いフレーズの合間に短いフレーズを断片的に取り入れ、全体のバランスが保たれているのだ。とくにパーカーのソロではその傾向がつよい。
 断片的なフレーズは即興演奏の質を向上させたり、つぎつぎとアイデアを巡らせながらテーマを吟味し展開していく過程で生まれたものだ。それを聴くと、まるで誰かが「自分の考えをロに出してつぶやいているのを聴いている」ような気分になる。(略)
 ハーモニー的にみると、三人のテーマ提示には経過音が数多く含まれており、コードから外れた音も聴かれる。パーカーの音色には光沢があり、やや鋭く角のとがった感じはあるものの、ビブラートはかかっていない。いかにもビ・パップを聴いている、という気分にさせられる。
(略)
ロス・ラッセルは小説『The Sound』で、衝撃のようすを描いている。
 その音楽には、こっばみじんになったフレーズと渋い感じのする音が溢れていた。角張っていて複雑で、風変わりで、バランスの悪いリズムは、眠っていた祖先の血を呼び覚ました。数小節聴いただけで、身体の神経系が腐食しはじめ、民俗色の濃いアフリカのダンス音楽を聴いたような気分になった。暗示にかかったようで、じれったかった。
 たしかにジャズだが、ジャズでないようにも聞こえた。デューク・エリントンベニー・グッドマンのジャズと共通する点はほとんどなかった。バーニー(この小説の主人公である白人ピアニスト)が知っているスイング・ジャズとも違っていた。その音楽は、戦時中という混乱と不安の気持ちを映しだすと同時に、戦争にかかわる人々の愚かさに対する軽蔑の意をも含んでいた。
 試練に対して身構えるように横柄で物騒な感じがあり、まぎれもなく首尾一貫した音楽だった。

アリゲーター
[いつの時代もかわらない!今ならDJブース前か]

[再度、ロス・ラッセル『The Sound』からの描写]
 アリゲイターとは、独自の価値観でジャズを研究している真面目な連中のことだ。彼らはオーケストラ・ピットのすぐそばまで近づいてきて、そこで一晩じゅう疲れをみせることなく音楽を聴いていた。彼らは少数派で、みんな小心者だった。(略)
オーケストラ・ピットの周辺に自分たちの居場所を構え、踊りにきた連中をミュージシャンに近づけなかった。そしてトロンボーンのU字管の下で身をかわしたり、ハサーンのドラムや、バーニーが座っていた椅子にぶつかったりしながら、音楽に耳を傾けていたのだ。
 アリゲイターは、女の子とデートするためにここに来たのではなかった。デートなんて、つまらないと思っていた。酒を飲むことも退屈だといって、飲まなかった。人生のなかでダンスのステップなど踏んだこともなければ、踊りたいと思ったこともないようだった。彼らはステージに一番近いところに集まったが、それはまるで州知事を護衛する警察のようだった。

ビ・パップの解釈はさまざまだった。

あるものにとっては流行であり、風変わりな服装や、話し方のスタイルでもあった。(略)
[フォックス・ブラザーズ社の広告]
 これだ!パップの王様、ディジー・ガレスピーと彼のバンドも(略)フォックス・ブラザーズのユニフォームとアクセサリーを愛用している。君も仲間にならないか。(略)ガレスピー愛用のレナードスキン・ジャケットを注文しよう。そうすればきみもバッパーさ。フォックス社が君のオシャレをお手伝い」
(略)
 若いビ・バッパーにとって、はじめて体験するような興奮がいっぱい詰まったこの音楽は、権力に対する反抗の旗印だった。ビ・パップは型にはまりこむ危険性のあったそれまでのジャズをひっくり返すほどの、つよい刺激をもたらしたのだった。
 ビ・バップは熱狂できる何かを求めていたヒプスターが待ち望んだライフ・スタイルでもあった。
(略)
 リロイ・ジョーンズは『ブルースの魂』(略)のなかで、ビ・パップと不満のたまった黒人の希望との関連性をはっきりと指摘している。第二次世界大戦のとき、北部に向かった黒人が人種差別のない社会に遭遇したこと、民主主義のもとに黒人の生命を危険にさらした軍人が、南部の故郷に帰ると英雄だったこと。こうした事実は、都市に住む黒人に怒りと、黒人文化を偉大で洗練されたものにしようという意志をもたらした。この怒りと意志がビ・パップに向けられた数ある要素のうちのふたつである。
 一九四〇年代に発展した黒人音楽(略)はそれまでの黒人音楽の特徴が薄まることなく、かつ白人に理解されないようにするという意識的な試みによって生まれたものだ。(略)芸術家であって芸人ではない、というようになったのもその一例である。(略)[パーカー、モンク、ガレスピーら]全員がこんな言葉を発言している――「おれの音楽を聴いても聴いてくれなくても、べつに気にしないよ」

タッド・ダメロン

 [パーカーがルイ・アームストロングなら]タッド・ダメロンは、さしずめビ・バップ期のデューク・エリントンだろう。
(略)
[アイラー・ギトラーとの談話から]
 ジョージ・ガーシュインを聴いた時、まさにこれだと思った。ガーシュインは美しかった。ジョージ・ガーシュインデューク・エリントンデューク・エリントンの音楽は不滅だ。
[ギトラーの文章から]
 一九五三年(略)彼(ダメロン)はメンバーにこう言った。「あのフレーズは流れるように演奏しろ。作曲する時にイメージしていた美しさを忘れてはいけない。スイングしなけりゃいけないが、美しくもないとダメなんだ」
 一九六一年、ダメロンはわたしにこう語った。「ぼくは流れるようなコードをつけることで、メロディにアクセントをつけようとしているんだ。メロディを流れるように聴かせるコードをつけてね。ポピュラー・ミュージックといわゆるモダン・ミュージックとの間に橋を架けたいんだ。両者の間には、あまりにも大きなギャップがある。売れ行きの違いをみれば、その差は歴然としている。

ビ・バップ第二世代

 一九四〇年代の末になると、ビ・バップを聴いて育った世代(略)が、シーンに登場しはじめた。こうした若手にとって、モダン・ジャズは必然的に出発点となった。
(略)
 マクリーンの初期の演奏は、マイルス・デイヴィスの『ディグ』に聴くことができる。(略)一九歳という年齢ゆえの欠点も聴かれる。ソロは、意味もなくつっ走ったかと思えば、まるでつぎに何を演奏しようか考えているかのような奇妙な休止がある。混乱した状態のなかでは、チャーリー・パーカーのお得意フレーズを何度も繰り返してもいる。しかしそこにはマクリーンならではの間合い、魅力、持ち味もあり、わくわくさせられるものがある。ゴツゴツした鋭い音色は、心からの真の叫びであり、強い個性の現れでもあった。
 マクリーンは、ビ・バッパーとしては平凡だったが、このあとハード・パップ・シーンで重要な地位を占めるようになった。素速い動きと創造性というビ・パップの価値基準にはついていけなかったが、ハード・パップの時代には、独特のムードを作りだし、大きく評価されるようになった(略)
 一九五〇年の時点で、流行としてのビ・パップはすたれ始め、ジャズ・ミュージシャンの間でも、ビ・バップヘの関心に翳りがみえていた
(略)
 やがてビ・パップに、奇抜さが求められるようになった。だが奇抜さの繰り返しだけで生き残ることはできず、やがてクール・ジャズという新しいスタイルのジャズが生まれ
(略)
 黒人居住区においてビ・パップは人気を失い、クール・ジャズは無視されていた。ビ・バッパーが仕事を見つけるのがだんだん困難になってきた。(略)
 一九五〇年代の初頭、ディジー・ガレスピーはコンボを率いていたが、ジャズよりも“ノヴェルティ・チューン”と呼ばれる珍奇な曲を取り上げていた。彼のステージには、ミュージシャンとしての誇りよりも、芸人らしいユーモアが溢れていた。
(略)
一九五〇年代の初頭にリズム&ブルースが流行し(略)ドゥーワップのコンボが続々と現われた。ニューオリンズからはファッツ・ドミノ、プロフェッサー・ロングヘアー、シャーリー&リーといった連中が出てきた。アーバン・ブルースの世界では、マディ・ウォーターズやボビー・ブランド風の連中が登場した。(略)
 年代順にみるとビ・パップとハード・パップの間に位置するゲットーの音楽は、クール・ジャズではなくこうした音楽だったのだ。もちろん若いジャズ・ミュージシャンも、リズム&ブルースのサウンドを楽しんで聴いていた。
 そこからブルースとゴスペルを融合させ、新しい音楽を作りだした者もいる。それはやがてソウル・ミュージックと呼ばれるようになった。そしてビ・パップが方向性と聴衆を失いかけたときに生まれた、活気と創造力に満ちた黒人のポップスが、ハード・パップのルーツとなったのである。

ジャズとリズム&ブルース

ジャズの歴史と都会的な黒人大衆音楽の歴史は、ある時期までは完全に一致している。ベッシー・スミス、カウント・ベイシーアルバート・アモンズは、ジャズと黒人大衆音楽の両方のジャンルに含まれていた。
 一九四〇年代の後半になると、ビ・バップの登場によってこうした分類が急速に進むことになる。ミュージシャンの間で、「ジャズだ」「ジャズでない」というジャンル分けを受け入れるものもいれば、そうでないものもいた。
(略)
 リズム&ブルースを演奏した経験から多くのものを学び、影響も受けたジャズメンは多い。ジャズとリズム&ブルースの境界線がはっきりしないからといって、その区別が存在しないというわけではなかった。
 五〇年代初頭の問題は、これから音楽がどこに向かうかということだった。自由を保証したはずのビ・パップは、いつの間にか厳しく締めつけられた音楽になっていた。表現の形態はますます細分化され、音楽のジャンルが増えていった。一流のビ・バッパーの多くはすでにこの世になく、チャーリー・パーカーのように全盛期を過ぎた者もいた。
(略)
ゆっくりではあるが(略)より広い感情表現のできる形式的にも柔軟で新しいスタイルが、マイルス・デイヴィスクリフォード・ブラウンソニー・ロリンズホレス・シルヴァーアート・ブレイキーらの演奏に、みられるようになったのである。
(略)
 一九五一年、マイルスの関心は徐々に変わっていった。(略)
[ボブ・ワインストック談]
 マイルスはニューヨークに戻ってきた。当時のマイルスは、ジェリー・マリガンギル・エヴァンスのクール・ジャズに傾倒していたが、マイルスならではの個性がみえはじめていた。(略)
 マイルスは多少ビ・パップの要素をとり戻していたし、ソニー・ロリンズを気に入っていた。当時のロリンズは、まだスタイル的には未完成だった。……プレスティッジでの初レコーディングを聴けば、『クールの誕生』とはまったく違ったマイルスの演奏を聞くことができる。
(略)
[52、53年のブルー・ノートで録音]
彼のソロに飾り気はなかった――これはなるべくしてなったのだろう。当時のマイルスは十分練習していなかったからである。だがどの音も細心の注意を払って吹いていた。ハスキーな音色にはわずかにきしむ感じがあり、ためらいともろさを感じさせる演奏だった。
(略)
のちのハード・パップを予感させる点が少なからずある。(略)
曲想に注目すると、ビ・パップよりもはるかに暗くなっているのがわかる。
(略)
[<バグス・グルーヴ> ]
 マイルスは数少ない音で、微妙なリズム感覚を生みだした。リズムを少しずらし、シンプルなフレーズを吹いた。メロディについても豊富なアイデアをもっていた。どの小節も、それだけで曲になってしまうほどだった。マイルスの奏法は、ジャズで「少ない音で吹けば吹くほど、伝えるものが増える」ことを教えてくれている。マイルスと同じトランペット奏者のアート・ファーマーは、こんな風に語っている。
 テクニックがすぐれていなくても、なにかを表現しなければならない。どこにも隠れられないのだから。

次回に続く。