「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

  • 作者:苫野 一徳
  • 発売日: 2014/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「自由であることの苦しみ」

[アクセル・ホネットは『自由であることの苦しみ』で、ヘーゲル]の哲学を論じながら、いまだ政治的な「自由」さえ十分になかった当時のドイツ(プロイセン)において、ヘーゲルがすでにこの問題を先取りしていたことを述べている。
 ちなみにわたしの考えでは、ヘーゲル哲学史上において、「自由」の本質とそれを可能にする条件を最も深く考え抜いた哲学者である。しかし残念なことに、そのほとんど不当なまでの難解さと、“時代遅れ”の有神論的形而上学体系(絶対精神〔=神〕を前提とした哲学体系)、そして、長らく専制国家プロイセンの「御用学者」と見なされてきたことなどが、これまで多くの現代人をヘーゲルの哲学から遠ざけてきた。

それだからこそ、人間が空虚性と否定性の苦しみだけでも免れるために、いっそ奴隷と同じくまったくの依存状態にまで身をおとすことになるような、客観性へのあこがれが生じかねないのである。(『法の哲学』)(略)
ヘーゲルの文章は、“ヘーゲル語”ともいうべき独自の概念によって編み上げられた、しばしば哲学史上最も難解といわれるものである。(略)
 「空虚性と否定性の苦しみ」とは、これまでしばしば述べてきた、「自由であることの苦しみ」のことである。わたしたちは、「自由」になったからこそ、その「自由」な生を存分に満たせない「空虚性」と、それゆえに世界から「否定」されているという実感・苦しみを抱いてしまうことがある(略)。そしてそのために、わたしたちはしばしば、何らかの「客観性」、すなわち、強大な力を持つ者や、(ファシズムのような)“システム”に従属したい、支配されたいと願ってしまうことがある。ヘーゲルはそのように主張したのだ。
 いまだ政治的「自由」さえなかった十九世紀当時のプロイセンにおいて、「自由」を獲得した後のわたしたちの苦しみまでヘーゲルが見通していたことは、驚くべき先見の明といっていい。そしてこのような「奴隷化」の危険性は、その後のファシズムだけでなく、今もなおわたしたちの社会に潜み続けている。とりわけ、過酷な「自由競争」にさらされ、「自由」であることの不安を抱えた“大衆”が、この道を再び望むことにならないとは限らないのだ。

動物化

 「自由であることの苦しみ」がもたらす第二の道は、「動物化」の道である。(略)
そのつどの欲求を瞬間的に満足させられる、いわば「動物的」欲望に喜びを見出し生きていければ、それで十分幸せなのだ。
(略)
高邁な人間的「自由」や自己実現など求めることなく、その時々の動物的欲求を満たしている方が合理的である。わたしたちは時にそう思う。
 ――わたし自身は、こうしたある種の「動物化」は、それが他者を傷つけるのでない限り、否定されるべきことではないと考えている。むしろ「動物化」は、人間的「自由」の重要な一条件であるとさえいっていい。
(略)
かつてヘーゲルが指摘したように、絶対的な専制権力と身分秩序の苦しみから逃れるために、一切の形あるものの「断念」をもって内的「自由」を確保しようとした、古代インド思想と同型の思考形態である。ヘーゲルの言葉を借りれば、そこでは「生活のあらゆる活動、あらゆる目的(略)を断念することが、最高の境地であると見なされる」(『法の哲学』)のだ。
 わたしたちは、「自由」への欲望を叶えるためにこそ、高邁な自己実現や承認の欲望をなだめたり変容させたりして、自らの欲望を動物的欲求の満足として定めることもある。つまり「動物化」は、「自由」に代わる道ではなく、その一つの条件、一つの方途なのである。
 その意味でわたしは、「動物化」をもって「自由」に代わる道と説く思想に与することはできない。
(略)
今日、この「動物化」を「自由」に代わる理念として重視する思想が、どことなくその存在感を増し始めているようにも思われる。
(略)
しかし繰り返すが、どれだけ「動物化」を称揚したところで、それは「自由」に代わる理念ではあり得ない。それはあくまでも「自由」の一条件なのである。

「他者」や「正義」

 さて、しかし今日、「動物化」などよりいわば遥かに高尚な、「自由」に代わる、あるいはこれを超えうるとする理念が主張されている。
 「他者」や「正義」といった理念がそれである。(略)
[レヴィナス]は、〈私〉の「自由」の上に〈他者〉を置く。「〈他者〉を迎えいれることこそが、私の自由を問いただすことなのである」。レヴィナスによれば、〈他者〉こそが「私の自由をむしろ創設する」ものなのだ。
(略)
 「自由は、自由によってみずからを正当化することはない」。(略)
〈私〉が「自由」でありうるのは、〈私〉が〈他者〉に対して無限の「責任」を負う時だけである。そして〈他者〉によって、「自由」を「任命」された時だけである。(略)
ホロコーストの悲劇を味わったレヴィナスにとって、〈他者〉の思想は全力を挙げて打ち立てなければならない倫理思想だった。〈私〉の「自由」の名のもとに、〈他者〉が否定されてはならない。彼はそう考えた。
(略)
 しかし、「自由」のトンネルを通り抜ける過程で起こった様々な凄惨な問題を理由に、「自由」に代わる理念を打ち出そうと試みることは、わたしには早計な“反動”であるように思われる。
(略)
わたしたちは、〈他者〉を〈私〉の「自由」の上に絶対化する必要はないし、そうすべきでもない。むしろ、〈他者〉の思想を十分に含み込んだ「自由」の哲学を、もう一度徹底的に鍛え直さなければならない。

ヘーゲルは超保守主義者か?

 現代においてヘーゲルを論じる二つ目の困難は、長らくヘーゲルが、専制国家プロイセンの御用学者であり、君主権を礼讃した超保守主義者であると考えられてきた点にある。
 実際、『法の哲学』において論じられている君主権の権限は、きわめて強大なものだ。
(略)
 しかし近年、その君主権礼讃が、実はヘーゲルのやむにやまれぬ方策であったことが明らかにされ始めている。
 『法の哲学』が刊行されたのは、思想・言論の自由が厳しく統制されていた、十九世紀の専制国家プロイセンにおいてである。自由主義的な著作を公にするなど、当時のヘーゲルにはとうてい不可能なことだったのだ。
 「法の哲学」の講義を、ヘーゲルハイデルベルク大学ベルリン大学で計七回行っているが、実は現存している講義録には、君主権の礼讃も国家主義的な表現も、刊行された『法の哲学』とは違ってほとんど見られない。
(略)
[その理由は]一八一九年の「カールスバート決議」にある。フランス革命の後、ヨーロッパ中に自由主義の波が押し寄せていたのに対抗して、ドイツ連邦各国は、この決議をもって自由主義者の弾圧に乗り出したのだ。
 これを受けて、ヘーゲルの友人や教え子たちも、何人か投獄されることになる。ヘーゲル自身にもまた、革命分子の嫌疑がかけられていた。厳しい検閲をかいくぐり著作を発表するためには、ヘーゲルは自らの自由主義者としての信条を、当局の目から隠さざるを得なかったのだ。
 この辺りの事情は、ヘーゲルの新しい伝記を書いたジャック・ドントの『ヘーゲル伝』に詳しい。
 ヘーゲルの手紙は、多くが警察によって、密かに、そして時に公然と検閲されていた。プロイセン国王は、自由主義者の疑いのあるヘーゲルを、かなり警戒していたという。哲学史上最も難解な哲学として知られるヘーゲル哲学だが、それはその難解さによって、当局の目をごまかそうという意図もあったからではないかとさえドントはいっている。
 またヘーゲルは、投獄された仲間を励ますために、命の危険を顧みず、密かに牢獄を訪れるといったことまでやっている。当時すでにベルリン大学の教授である。見つかればただでは済まない。(略)実のところ、ベルリン大学にあってもなお、終始「自由主義者」であり続けたのだった。

ヘーゲルによるイロニー批判

 絶対的な「よさ」や「正義」などないと「反=本質主義」を掲げながらも、ローティはその政治理論において、ある「価値」を結局は強固に打ち出してしまったのだ。
(略)
[ヘーゲルは、ローティ的アイロニーを]百数十年先駆けてすでに批判している。
 近代において、人びとは「絶対的に正しいことなどない」ということを十分に知り抜いた。しかしこのことを知った人間は、やがて、「絶対に正しいことなどないということを、わたし自身は知っている」といい出すことになる。(略)
 つまり相対主義的「イロニー」(=アイロニー)は、その相対化をすること(相対化をしている自分)を、絶対化してしまうことと表裏一体なのである。
 ここに、「イロニー」が抱える第一の欺瞞がある。「イロニー」の精神は、一切を相対化するといいながら、実のところその自分自身を絶対化するというパラドックスを抱えてしまうのだ。
 ヘーゲルはさらにいう。それゆえ「イロニー」を掲げる人間は、自分はいつでも相対化の論理を忘れていないと強弁しながら、最終的には何らかの「価値」を、いつしか自己欺瞞的に打ち出すことになりやすいのだと。
 ローティでいえば、それは「残酷であってはならない」という「価値」である。
 徹底したアイロニストであれば、この価値でさえ相対化せざるを得ないはずだ。しかしローティは、彼の政治理論において、この価値にだけは固執する。彼自ら、その理由をいうことはできないといいながら。
 ヘーゲルの洞察はさらに続く。
こうした絶対的な得意さが、自分自身の孤独な礼拝にとどまらないで、なにか共同体(教団)といったものをつくることもありうる。(『法の哲学』)

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