モンクのいた風景 「ファイブ・スポット」篇

前回のつづき。
セロニアス・モンクのいた風景」その2。

セロニアス・モンクのいた風景

セロニアス・モンクのいた風景

[伝記『ニカの夢』抜粋から「ファイブ・スポット」話]
Nica's Dream: The Life and Legend of the Jazz Baroness

Nica's Dream: The Life and Legend of the Jazz Baroness

「ファイブ・スポット・カフェ」

ジョー・テルミニは弟のイグナツィ(通称イギー)とともにバワリーの北端にみすぼらしいバーを所有していた。バワリーは一マイルに及ぶ通りで、一世紀以上にわたってニューヨークきっての貧民窟として知られていた。兄弟は第二次大戦から帰還したあと、父親のサルヴァトーレからそのバーを引き継いだ。そして彼らは店を、父が経営していたときとほとんど同じ状態のままで経営していた。薄暗い店内の片側には、傷だらけのバー・カウンターがあり、ぐらぐらするテーブルが二つ置かれ、床にはおがくずが敷かれ、地域の客はそこで出される水っぽいビールと、ジャグ入りのワインで満足していた。(略)
 モダンジャズの最前線にモンクを据えようという作戦を展開する中で、コロンビーがテルミニ兄弟に目をつけたとき、彼らの奥まったさえないバーにも既に、大きな変化の兆しが現れていた。1955年に市当局は、バワリーの通りの風景に暗い影を落としていた高架鉄道軌道を解体撤去した。そしてこれまでほとんど見捨てられていた19世紀以来の住宅や倉庫の煉瓦壁に、もう一度明るい陽光があたることになった。ほどなくジョーとイギーは、彼らのバーがこれまでとは肌合いの違う、新種の客を少なからず引き寄せていることに気がついた。安い家賃と、日当たりの良さに惹かれて、その地域にアーティストたちが住み着くようになったのだ。みんなで集まって心おきなく酒を飲める場所を求めていた新参者たちは、テルミニ兄弟のそのあまり見映えのよくない酒場に、気のおけない安息の場を見いだしたのだ。
(略)
その中心人物は画家のハーマン・チェリーだった。チェリーはニューヨークに出てきて、ジャクソン・ポロックとほぼ同時期に、トーマス・ハート・ベントンのもとで学んでいたが、彼がその店をダウンタウンに住む芸術家たちのたまり場に変えたのだ。「彼はずいぶん我々を助けてくれたね」とイギーは回想する。「ポスターを飾ろうというのは彼のアイデアだった」。イギーが言うのは、店の壁に重なり合って貼られている、地元の絵画展や各種公演を宣伝するビラやちらしのことだ。店を撮影した写真にはよくその壁が「名物」として収められている。
 その地域への新参者の中には、ドン・シューメイカーという船乗りにしてアマチュア・ピアニストがいた。テルミニの店の隣にあるアパートメントの上階に彼は住んでおり、そこでよくジャム・セッションを催していた。シューメイカーはビールのピッチャーを持って階段を急ぎ足で上り下りするのに疲れて、兄弟にもちかけた。もしおたくの店にピアノを入れてくれたら、無料で音楽を提供するよと。数週間後には、中古のアップライト・ピアノがバーの対面に置かれ、必要な許可証が壁に掲げられていた。
(略)
 1956年の夏が来る頃には、ハーマン・チェリーの「シダー・タヴァーン」の仲間たちの何人かは――フランツ・クライン、ウィレム・デ・クーニング、ジャック・トゥウォルコフ、ジョーン・ミッチェルといった抽象表現主義絵画のリーダー格の画家たちや、彫刻家のデヴィッド・スミスもそこに含まれていた――グリニッジ・ヴィレッジの本拠地から十五分歩き、そのバワリーの酒場まで足を運ぶようになっていた。まだジャズ・クラブと呼べるほどの体裁は整っていなかったものの、シューメイカーの私的なセッションは口コミで評判になり、やがて店は絵の具のしみのついたジーンズ姿の、音楽好きの美術関係者で埋まるようになった。
(略)
 テルミニ兄弟は熱心なジャズ愛好者にはならなかったかもしれないが、二人はやがてデヴィッド・アムラムという人物から専門的な助言を受けるようになった。アムラムは25歳の意欲溢れるフレンチホルン奏者で、ヨーロッパから帰国したばかりだった。[数ヶ月前にパーカーが他界]
(略)
[彼は以前チャーリー・パーカーと交流があった]
パーカーの若き信奉者でありながらも、酒もドラッグもまったくやらないアムラムは、突然自分が救いがたく「非クール」な人間に思えてきた。「そんな私を見て、バードは声をかけてくれた。その言葉を決して忘れない。彼は言った。『なあデヴィッド、いちばんヒップなのはな、実はスクエアでいることなんだよ』と」
 その三年後、彼は自分がまさにヒップの脈打つ心臓の中にいて、そこに同化していることを発見した。「ボヘミア」でのミンガスのギグは一群のファンと、仲間のミュージシャンたちを引き寄せたが、アムラムが何より嬉しかったのは、「そのグループにすぐに適合できた」ことだった。ある夜モンクが、そのベーシストの新しいバンドを聴きにふらりと立ち寄って、フレンチホルンみたいな不格好な楽器で、アムラムが自由にスイングする様子を目にして感心し、わざわざ自分から自己紹介をしてきた。彼は自分がもっとも尊敬するミュージシャンの一人に会えただけでも、心臓がどきどきしていたのに、電話番号を交換し、「いつでもいいから」会いに来てくれと言われたときには、まさに天にも昇る心地だった。すぐ翌日クラスを終えた後で、彼はそのピアニストに電話をかけてみた。モンクは自分の口にしたことを忘れていなかった。「やあ、デイヴ」、彼の熱い申し出に対してモンクは言った。「今すぐこっちに来いよ」
 それがすぐに二人の習慣のようになった。マンハッタン音楽院の一日の授業が終わると、アムラムは西63丁目に急行し、モンクとの課外セッションをおこなった。
(略)
 ある夜、モンクはその年若い友人を「ボリヴァー」に連れて行ってニカに紹介した。アムラムがそこで目にした光景は、彼がそれまでに体験したどんなものとも味わいを異にしていた。彼女の暮らす巨大なスイートに通され、ニカとジャンカ(まだ十代の、素敵な娘だった)に紹介された。彼が腰を下ろすと、モンクは美しいスタインウェイの方に歩いて行って、「一晩中ピアノを弾いていた」。最初の訪問の時から、ニカはアムラムを家族の一員のように扱ってくれた。「彼女は信じられないくらい温かく、優しい人だった」と彼は楽しげに回想する「百万長者だとか、伯爵夫人だとか、芸術家の魂を鷲づかみにするパトロンだとか、人が一般的に抱くそういうイメージからかけはなれた人だった。本当に感じの良い人だったな。彼女と一緒にいると、その場にすっと馴染んで、もう帰りたくなくなってしまうんだ」。
(略)
[56年11月アムラムは知り合ったセシル・テイラーを連れて来た]
不穏なシンコペーション、パーカッシブなポリリズム、馴染まない半音階密集音群、それらの不協和音が、彼の小柄な体格や、眼鏡をかけた学究的な風貌には似つかわしくない強靭さをもって、抑制抜きで叩き出されるのだ。しかしながら彼が「ファイブ・スポット」の鍵盤に向かって力を全開にしたとき、叩き出されたものは他にもあった。それは無作為に選択されたピアノのメカニズムの部品だった。その楽器は既に末期的な状態にあったのだが、それはテルミニ兄弟がとても大事にしていたものだった。兄弟は怒り狂い、彼をピアノの前から追い払った。ジョー・テルミニ(神のご加護あれ)は言った。『あいつにはもうピアノは弾かせない。おれのピアノを壊しやがった!』と」。アムラムが「ピアノの修理代は払うから」と言ってテルミニを宥めていたとき、ジョーン・ミッチェルがより効果的な戦略を持ち出した。「ねえ、この人は天才だと私たちは考えているの」と彼女はみんなの意見を代表してジョーに言った。「もし彼が出入り禁止になるのなら、私たちももうここには来ないけど」。新しい上客がごっそりいなくなることについてしばし考慮した後、テルミニは態度を軟化させた。
 あとになって彼は「ニューヨーク・タイムズ」紙から質問を受けた。どうして「ファイブ・スポット」はセシル・テイラーみたいな「ぶっとんだ」ジャズ・ミュージシャンを出演させることになったのかと。店の客がそういう音楽を好んだからだとテルミニは言った。「客の大方は抽象画の画家だったし、彼ら自身からしてかなりぶっとんでいたんだ」。
(略)
 それから五週間、セシル・テイラー・カルテットは演奏を続け、聴きに来る客は増え続けた。その中には年季を積んだジャズファンもいれば、ただ好奇心に駆られてやってきた野次馬もいた。彼らの中には耳障りな不協和音の奥に何かを聴音取り、バンドの混じりけのないモダニティーと熱情を評価するものもいたが、それ以外の多くの客はさっさと出口に向かった。面白いことに、セシル・テイラーを否定する人々は、抽象画家たちに向かってよく投げかけられるのとまったく同じ台詞を、彼の音楽に向かって口にした。「あれくらいのことなら、うちの子供にだってできるさ!」と。テイラーの「ファイブ・スポット」出演はおおむねのところ「スキャンダルによってもたらされた成功」だったかもしれない。しかしテルミニ兄弟にしてみれば何の文句もない。それを境にかつてのバワリーの酒場の主人たちは、モダン・ジャズというビジネスに乗り出すことになった。
(略)
 ハリー・コロンビーは「ファイブ・スポット」を視察にやってきて、この店の狭くて窮屈っぽいところがすっかり気に入ってしまった。彼は言う。「私は(モンクが)長期的に出演できる小さな場所を探していたんだ。一週間とか二週間とか、そういう単位じゃなくて、何ヶ月も何ヶ月も、ぶっ通しで演奏できるところを求めていた。それには小ぶりな店の方が好都合だった。いつも混んでいるみたいに見えるし、客席の興奮も伝わってくるし」。ジョー・テルミニは後年自ら認めているように、その時点ではモンクのことをあまりよく知らなかった。(略)それでも彼はこのピアニストに賭けてみようと心を決めた。ジョーが仕事を請け負ってくれたことで、モンクがキャバレー・カードを回復する道が開けた。そしてオープニング・ナイトは七月の初めと決まった。モンクがニューヨークのジャズクラブにこのように主役として登場するのは、実に六年ぶりのことだった。
 タイミングはまさに絶好だった。チャーリー・ミンガスの出演期間は好評のうちに終わり、「ニューヨークでいちばんヒップなジャズクラブ」という「ファイブ・スポット」の評判を不動のものとしていたし、モンクがリヴァーサイドから出した新しいアルバム『ブリリアント・コーナーズ』は、ナット・ヘントフから堂々たる五つ星〔満点〕を与えられていた。
(略)
 セロニアス・モンクがビッグ・アップルに復帰を果たしたその夜、花火が空を盛大に彩った。まあ、たまたまその日が七月四日、独立記念日にあたったということもあるけれど。
(略)
 モンクの「ファイブ・スポット」での演奏は、ジャズ・ファンや仲間のミュージシャンたちを磁石のように引き寄せた。(略)
「みんなモンクについての話を聞いたことはありましたが、実際の演奏を聴くのはそれが初めてでした」とコロンビーは言う。「私は感じました。そこにある種の――なんて言えばいいんだろう――そう、大きな方向転換が生じたことを。つまり彼は常に一握りのミュージシャンたちに尊敬されていました。でも一般の人々は彼のことを知らなかった。世界も彼のことを知らなかった。ところが今、世界は彼の姿を目にし、彼の音楽を耳にできるようになったのです」
 ギグが始まって二週間ほど経ったとき、テルミニ兄弟はそこで何か大きな物事が持ち上がっていることに気づいた。兄弟は時代もののピアノを処分し、モンクの選択に従って、新品のボールドウィン・グランドピアノを購入した。うらぶれたインテリアを改装し、ステージを広くした(ついでに有料の客席を十席ばかり増やした)。そしておそるおそる料金を上げていった。長期間にわたって出演できそうなことがわかると、モンクはお気に入りのサイドマンを集めて、新しいバンドを編成した。そこにはサキソフォン奏者ジョン・コルトレーンも含まれていた。(略)
それから七ヶ月以上にわたって、「ファイブ・スポット・カフェ」はジャズ世界の中心となり、ジョン・コルトレーンをフィーチャーしたセロニアス・モンク・カルテットはジャズの歴史を飾る伝説的なバンドのひとつとなった。
(略)
彼のアパートメントから、ロワー・イーストサイドにあるクラブまでモンクを連れてくる役目は、ほとんどの場合二力が引き受けることになった。そして客がそわそわしだす前にそこに到着するために、彼女は常に離れ業のような、超人的な技術を駆使して車を運転しなくてはならなかった。この任務の遂行には、男爵夫人が新しく購入した超贅沢品が役に立った。
 ジャズ界のスピード狂としてならす連中と夜中のドラッグ・レースをして、何度か敗れたあとで、二力はロールスロイスを手放し、ベントレーS1コンティネンタル・ドロップヘッド・クーペに買い換えた。最高速度は時速120マイル、当時の四座の車としては最速だった。その車は「ビバップベントレー」というあだ名をつけられ、様々なミュージシャンの回想録に姿を見せることになる。ピアニストのハンプトン・ホーズの書いた本もそのひとつだ。午前三時頃、ニカがセロニアスとネリーとハンプトン・ホーズを車に乗せて七番街を走らせていると、マイルズ・デイヴィスがその隣にメルセデス・ベンツのスポーツカーを停め、窓から例の小さなしゃがれた声で「レースするか?」と言った。その挑戦を喜んで引き受けた後で、ニカは後ろを振り返り「いつもの気取った英国風の声音で言った。『今度こそあのマザファッカーを負かしてやるから』と」。どちらがその果たし合いの勝利を収めたのか知るべくもないが、ニカはとにかく死ぬまで、愛車ベントレーを駆ってニューヨークの街をかっ飛ばし続けた。
(略)
[常連に、ジャック・ケルアック(彼の小説『オン・ザ・ロード』はその年の終わり頃に出版される)、詩人のフランク・オハラ、アレン・ギンズバーグ、ブラック・アート・ムーブメントのパイオニアでもあるリロイ・ジョーンズ、『ウェストサイド物語』を終えたところのレナード・バーンステイン、ロバート・フランクらが加わった]

[ベン・ラトリフ『コルトレーン』からモンクの登場する章を抜粋]

「モンクと一緒に演奏することで、私は一人の最高級の『音楽的建築家』に近づくことができた」
(略)
おそらくコルトレーンは、フレーズやコード・チェンジをどうこうするといった具体的なことよりは、彼がそれまで考えもしなかった、音楽作りの遥かに広い領域での、自らの方向付けを求めていたのだろう。
(略)
彼の目を開かせたのは、モンクの作曲や、アレンジや、即興演奏の中に総合的に示唆されている可能性だった。それによって、彼は自分に既に何かできているかを見て取ったのだ。
(略)
 この時期にモンクが作曲したAABA三十二小節構成の曲のA部分は、相当に風変わりなものだが、ブリッジ(B部分)のハーモニックな進行はそれに輪をかけて尋常ではない。コード・ヴォイシングが時としてその原因となっている。そこで機能するハーモニーを完全にねじ曲げることなく、左手のコードが和声の相関関係を上下あべこべにすることによって、共演するサキソフォン奏者は、作曲家が設定した厳格な空間の中に閉じ込められてしまう。「モンクと演奏するとき、私は常に耳を澄ませていなくてはならなかった」とコルトレーンは言った。「そこで何が進行しているかを油断なく頭に入れておかないと、突然ぽっかり空いたエレベーター・シャフトに足を踏み入れたような具合になってしまう」
 このように厳しく締め上げた後で、モンクはコルトレーンを自由にする。モンクはときとして二十分もステージを離れていることがあり、その間は残りのメンバーだけが演奏を続ける。これはマイルズが彼に対して行ったより、更に意味深いことであるかもしれない。それは「教育=ティーチング」というよりは「指導=コーチング」なのだ。仮説による導きなのだ。「君がもしそのような要求にこたえられるだけの能力を持つミュージシャンであるなら」という仮説だ。
(略)
 彼の初期のヒーローたち――レスター・ヤングチャーリー・パーカーデクスター・ゴードンなど――から解き放たれた後のコルトレーンは、ただ単にフレーズを借用してストックするといった直接的なレベルではなく、もう少し深い意味合いにおいて「学習する」ことを始めた。マイルズ・デイヴィスのグループに在籍していた期間についても同じことが言える。
(略)
彼がマイルズから学んだのは「ものごとは簡素なほど素晴らしい」ということだった。だから彼はマイルズのバンドに入ったとき、マイルズがトランペットを吹くみたいにテナー・サキソフォンを吹こうと夢見ていた。「しかし実際にバンドに入ってみると」と彼は語っている。「そんなことはとうてい無理だと悟った。だからこそ私は、それとは真逆の方向に行こうとしたのかもしれない」。言い換えればそれは、十六分音符をちりばめる方向であり、和音に和音を重ねていく方向であった。
 そういう意昧合いにおいては、その夏コルトレーンに変革をもたらしたのが、モンクの個性的な独奏スタイルだけでなかったことは明らかだ。むしろそれは、モンクの「不在」だった。モンクがピアノの前を離れ、どこかにふらりと消えてしまったり、あるいはいろんな角度から音楽を聴くために店内のあちこちを歩き回っているあいだ、コルトレーンは十五分か二十分にわたって、即興演奏を繰り広げなくてはならなかった。そこで辛うじて和声的な補助を与えてくれるのは、ウィルバー・ウェアのベースだけだ。
(略)
サキソフォン奏者は常にピアノの和音が与えるロジックの枠内で演奏を展開することを余儀なくされる。だからピアノがなくなると、サキソフォン奏者はより自由に、自らの和声学を立ち上げていけるようになる。
 ウェアもまた、彼がこれまでに出会ったどんなベーシストよりも融通無碍なプレイヤーだった。
(略)
「つまりね、彼はいつもドミナントを弾くわけじゃない。彼は……しばしばそうじゃない音を出してくるんだ。何て言えばいいのか……えっと思うような音を弾くんだよ。そうだな、その曲を深く知らなければとても見つけられないような音をね。なぜなら彼はものごとをどんどん重ね合わせていくからだ。まわりを弾いたり、上を弾いたり、下を弾いたり、あるいは……ただ自分が弾きたい音を弾いたり。彼は代理コードを出してくる。それに対して私も、やはり代理コードでこたえる。すると彼は私が狙ったラインから、またひとつ外した代理コードを持ち出す。こうなると、どちらにとっても、あるポイントに辿り着くまでは、曲本来のコード進行なんてまるでお呼びじゃないってことになってしまう。そしてそのポイントに無事に着地したあと我々は――というか、もし二人揃ってそこにうまく着地できたらおなぐさみってことになるわけだが……」
 モンクについて、コルトレーンオーガスト・ブルームに向かってこのように語っている。彼はね、普通なら間違いと見なされることを確信を持ってやっているんだよ、と。「モンクはよくわからないところで、いつも何かしら、すごくミステリアスに聞こえることをやっている」とコルトレーンは言った。「でも、彼が何をやっているかがいったん呑み込めれば、実はそれはミステリアスでもなんでもないんだよ。それらはほんのちょっとしたことであり、実相は単純明快なんだ。たとえばこういうことだ。彼はあるコードを出す。メジャーのコードだか、マイナーのコードだか、ただし三度の音が省かれている。そして私に言う、『おい、これはマイナーのコードだぞ!』と。私は言う。『短三度をとばして、それがマイナー・コードだってどうしてわかるんだよ?』と。彼は言う、『それがマイナー・コードだと、どうすればわかるかだと? だってそれはもともとマイナー・コードだからさ。三度をとばしたマイナー・コードなのさ!』。そして曲が実際に演奏されたとき、そのコードは文句なく正しいところにはまるんだ。その和音の響きにはちゃんとマイナーのフィーリングが出ている」

次回につづく。