響きの生態系・その2 ケージという鏡

前回の続き。

響きの生態系―ディープ・リスニングのために (Art edge)

響きの生態系―ディープ・リスニングのために (Art edge)

フィリップ・グラス

 フィリップ・グラスは、ミニマル・ミュージックの作曲家としてというより、おそらく二〇世紀後半の最大のオペラ作曲家として後世に名をとどめるのではないだろうか。
(略)
  一九六九年の《Music in Similar Motion》という作品が、グラスの音楽のひとつの原型となっている。(略)
これらの作品に共通なのは、リズムの加算的なプロセスが重要な手法となっている点である。リズムを加算的に扱うために、まず最小のリズム・ユニットが設定され、そのユニットのテンポは原則として変化しない。この一定のユニットの数を足したり、引いたりしてさまざまなリズム・パターンが生み出される。この加算的なリズムの手法は、インド音楽にもみられるという。グラス自身、ラヴィ・シャンカールとの仕事を通して、このリズムの手法を知るわけだが、実は、このリズムの手法こそが、グラスの音楽の構造的基盤となっているばかりか、演劇やダンス、映画などの他のジャンルとの時間軸上でのインターフェイスとなっている。
 しばしば、ミニマル・ミュージックというカテゴリーのなかで、グラスの音楽は、ライヒと同じような傾向とみなされてきた。旋法的な音高の扱い、短い旋律やリズム・パターンの絶え間ない反復など、たしかに二人の作曲家に共通する音楽語法は多い。しかし、二人の音楽の決定的な違いは、先に述べたようなリズムやテンポ上の手法がもたらす時間性にあるように思われる。
 ライヒの初期の作品を支えていたのが、フェイズ(位相)というコンセプトだった。微妙に異なる反復パターンの周期のずれが、相互に干渉しあいながら、あらたなパターンを生み出していく。その際、このフェイズのずれが、音響テクスチュアや音型パターンを非常にゆるやかに変化させていく。フェイズのずれという手法をやめた後でも、ライヒの音楽は、このような漸次的変化、つまり、連続した時間性を保持している。つまり、音楽的な変化が、いわばアナログ的に展開していくのである。
 一方、グラスの音楽の場合、加算的なリズムの手法が、不連続な音楽的変化をもたらしているようにみえる。反復される音型やリズム・パターンは、連続的な時間から切りとられたスナップ・ショットのような静止したイメージを与える。そして、次の音楽的変化が予測できず、写真集や絵本を一頁一頁めくっているときに得られるあの一瞬の驚きがたえず与えられる。
 一九七六年のアヴィニオン演劇祭で初演されたロバート・ウィルソンとの共同作業のオペラ《浜辺のアインシュタイン》は、グラスの音楽活動の方向を一変させた。それまで、音楽的なコンテクストの中で編み出されてきたグラスのリズムやハーモニーの仕掛けは、演劇的要素や視覚的要素と合体することで、あらたな展開をみせていくのである。このオペラは、休憩なしの四幕九場からなり、四時間半にもおよぶ。蒸気機関車、法廷、牢獄、巨大なべッド、宇宙船などウィルソンのデザインによる舞台装置や背景によって特徴づけられたそれぞれのシーンが、不連続に整合され、組み合わされて、ひとつの幕が構成されている。(略)
物語的構造をもたないこのオペラでは、それぞれのシーンは一切の叙述的な脈絡から解放され、登場する人物や事物は、そこでは独自の速度や周期をもち、並置的な関係を作っている。
(略)
ある事物や音の運動がある時には動いてみえたり、止まってみえたり、観察者である聴衆ひとりひとりにとって相対的にかたちを変える《浜辺のアインシュタイン》。絶対的な時間的尺度が存在しないこのオペラには、じつは、もうひとつのトリックがある。それは、四時間半という上演時間の長さなのである。
(略)
[反復される音型パターンとダンスや登場人物の動きの関連性といった見方を放棄すると]
それまで自分の内部ではたらいていた時間感覚がなくなり、それとともに、退屈という感じは消え、もう何時間でもそのオペラをみることができる状態が自然とできてくる。(略)
舞台上の出来事や音楽の部分や細部が浮きだち、こちらの関心の向け方しだいで、それらが自由に結びつき、あっと言う間に四時間半が過ぎてしまった。
(略)
四時間半という長大化によって、音楽それ自体は、構築性をもたない全体となる。ということは、どの部分を取りだしても、異なるレベルのあらたな全体をかたち作ることが可能となるのである。そこに、全体と部分といった従来の二律背反を乗り越えるグラスの巧妙な音楽上の仕掛けが隠されている。

ケージという鏡

[ケージが亡くなって半年]ケージと向きあいながら、日本での今日的なケージ現象をどのように捉えたらいいのか。そんなことを考えることが多くなった。(略)
六〇年代のケージ・ショックを体験した世代は、そのショックの呪縛からまだ解かれていないようで、ケージを巡るクリシェをいまでも繰り返している。一方、若い世代にとっては、その死が起因となったケージ現象が、彼らにとってのケージ初体験となっているようにみえ、ケージをひとつのファッションとして消費しているようにも思える。ケージに行き着くまでの錯綜した状況が、ケージという姿をみえにくくし、それにともなって、ケージを神格化しようとする力を感じてしまうのは僕だけなのであろうか。
(略)
点と線だけの要素からなる《変奏曲第二番》の楽譜を具体的に解読してみたのだが、その作業は思いのほか難しかった。一切の恣意牲がなく、厳格な解読が前提となっているのだが、一定の解読の方法では、不可能な局面にしばしば遭遇する。その際、発想の飛躍が必要となる。その飛躍こそが、別のレベルの解読の入口を指し示し、そこに多元的な解釈の世界が拡がるのである。
 その楽譜の解読をやってみて、ケージとは、その人を映し出す鏡のような存在かもしれないということが漠然と浮かんできた。ケージの曲を演奏する人に限らず、ケージについて書いたり、語る人は、ケージを鏡にしながら自分自身を投影させているように思える。(略)鏡としてのケージ。それは、自分自身の内面を浮かび上がらせる怖い存在のように思えてきた。

 五〇年代以降、ケージの作品のなかにシアトリカルな要素が次第に加わっていく。《ウォーター・ミュージック》は、その先駆けともいえる作品で、ピアノで演奏する音とともに水を注いだり、ラジオのチューニングを合わせるなどといった行為が示されている。これらの行為は、その結果として音響を伴うわけだが、この行為と音響との共時性によって全感覚的な体験がもたらされる。
 一九五二年のブラック・マウンテン・カレッジでのケージやカニングハムたちのコラボレーションは、まさに全感覚的な出来事の祝祭であり、フルクサスの実践へと繋がっていった。ケージの「演劇的」な作品とは、全感覚的な体験の場を設定することであり、従来の演劇やオペラがもつナラティヴな構造やミメーシスの原理から解放された不確定なさまざまの行為や出来事が多数性や多義性をもたらす。そして、相互浸透していくなかで演劇的な全体が生み出されるのである。その全体は、ケージが理想とするアナーキーな社会が投影されたものとも考えられる。
(略)
 ケージの実践を中心とするカニングハムやラウシェンバーグ、ジョーンズたちのコラボレーションを支えていたものは何だったのだろうか。それは、それぞれの表現が意味内容をいっさい共有せず、自律した存在であるという意識であるように思える。しかし、このような意識を実践することは、極めて難しい。僕自身も、これまでいくつかのコラボレーションに関わったことがあるが、はじめは、自律性に優位をおいて進められたとしても、作品としてまとまっていく過程で、結局、だれかの考え方に寄り添ったかたちで収斂してしまう。つまり、作品という全体のイメージをもった瞬間、従来のオペラやダンス公演のような枠組のなかで、異なる表現が安易に統合されてしまうのである。
 ケージたちのコラボレーションにおける徹底した自律性。それは、勝手に存在するのでなく、むしろ互いの表現を受け入れる寛容さも合わせもっている。このような表現の自律性のなかから、予測不可能な出来事を生み出し、自在に変容する力が蓄積される。
(略)
 ケージは、音楽史上最も多くの種類の記譜法を考察した作曲家のひとりである。ある時期に、ケージは持続の時間量を音楽構造の基盤においた「空間−時間」記譜法と呼ばれる具体的な方法を考案する。この「空間−時間」記譜法とは、時間量の空間化であり、空間的な長さを計測することによって時間量を構造化するものである。
(略)
 その後、ケージは、「空間−時間」記譜法の採用をやめる。つまり時間軸上での確定化を放棄することによって、記譜はいっきに不確定の要素が強まり、それにともなって記譜における図形や指示の方法のさまざまな実験を展開させるようになった。もはや記譜された記号やテクストからは実践すべき音響結果は全く予測できず、演奏者はパズルを解くように書かれたものを解読する。そして、その答えが演奏行為となる。
(略)
[ある日本の音楽雑誌のケージの偶然性の思想をどう思うかという質問に]
ある日本の若い女性の作曲家は、そんなもの私には全く眼中にはないといったような答え方をしていた。確かにケージは絶対的な存在ではなく、すべての作曲家が受け入れるべきものでもない。ただし、ケージの偶然性を考えるということは、十二音技法のような作曲技法を考えるということとは大きく異なる。つまり、作曲する文脈を考えることにほかならない。受け入れるか否かは別にして、ケージを無視するということは、結局のところ自ら作曲する意味や文脈を問いかけないという態度の表明なのである。
 一方、ケージを執拗に持ち出すひとたちも何となくうさん臭く感じられる。ケージを神格化的な存在にまつりあげ、ケージを特権的に語ること自体が、ケージの理念をさらに抽象化し、観念化し、その音楽をわかりにくくしている。そして、もっと耐え難いのは、ケージの自然志向や無垢な人間性をむやみに美化してしまう風潮である。ここでは、ケージは一種の倫理となり、批判することが出来ない存在としてのケージ像が生み出されている。神話化したケージ、あるいは絶対的参照体としてのケージ。ケージについて、その関わりを語りさえすれば、その人の音楽や実践の価値が認められるという構図がみえてきてしまう。
 日常と芸術の垣根をなくしたとか、予期できない結果に対して開かれた耳で迎えるとか、これまで唱えられてきたケージをめぐる言説がいまだに有効だという状況に少々うんざりしている。また、ケージの理念に起因するような環境と音の視座や音デザインといった方向も、確かに実践法は新しいが、その方向の収束していく行方は、決してケージの理念を越えるものではない。

[巻末のディスクガイドから:リンク先で試聴可]
割とポップス的にも聴ける、ポール・デマリニスとディヴィッド・バーマンを先に。

Music As a Second Language

Music As a Second Language

ポール・デマリニスは(略)コンピュータや電子メディアを駆使したインターラクティヴなインスタレーション作家としても知られている。(略)
また、一貫して言語が本来もっている音楽性を取り出したり、あるいは変換する試みを行っている。(略)
このCDも、言葉がもつ音楽性にこだわり、コンピュータ処理した合成音声による「歌曲集」といった趣がある。

Unforseen Events

Unforseen Events

 コンピュータが音楽に持ち込まれて以来、たとえばパリのIRCAM周辺の作曲家たちは、コンピュータを拡張のための道具とみなし、より複雑な音のコントールや組織化に熱中してきた。そして、このような構築性への渇望は、コンピュータが介在する音楽に聴くことの疎外感を与えてしまったようにみえる。バーマンにとって、コンピュータは、決して拡張や構築のための道具ではない。コンピュータという知性といかに会話し、その知性と人間とがどのようなかたちでリンクできるのか。そして、インターラクティヴなプロセスから発生してくる「不測の出来事」と対処しうる柔軟な感性が育まれる環境を、バーマンはたえず志向してきたといえる。

Just West Coast

Just West Coast

ハリソン、ヤング、パーチ、ケージたちの作品を純正調に調律されたギターとハープによって聴くことができる。

Propellers in Love

Propellers in Love

  • アーティスト: Arnold Dreyblatt & The Orchestra of Excited Strings
  • 出版社/メーカー: hat ART CD
  • 発売日: 2015/04/02
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る

 ドレイブラットは、七〇年代頃から純正調に興味を抱く。そのきっかけとなったのは、振動という物理的な音響現象に対する興味であった。倍音列の関係にある発源体が相乗的に高まりながら音響の実体を肥大化させていく。このような振動のもつ自律した音響運動が「The Orchestra of Excited Strings」の演奏を通して実現されている。

Riley: The Harp of New Albion

Riley: The Harp of New Albion

純正調に再調律したピアノによる即興を基盤にした作品。(略)
 中心音の移行にともなって、各セクションは独自の音調を帯びることになる。ライリーは、耳の襞でそれらの音調の微妙なゆらぎを確かめながらテンションのある即興を持続させている。

The Far Country

The Far Country

よみがえるピタゴラス音律(略)
ジョン・ルーサー・アダムズは現在アラスカに住む実験作曲家(略)あらたな音律がもたらす豊かな音響ソノリティをもつ音楽を書き続けている。

Deep Listening

Deep Listening

 オリヴェロス自身、「ディープ・リスニング」を実践するうえで、音響化される空間と特別の調律法の重要性を語っている。自分の発する音や周囲の音が、ある空間の中でどのような軌跡を描きながら耳に達するのか。つまり、音によって空間の特性を把握することが「ディープ・リスニング」の前提となる。そして、その空間の特性を探りながら、他者とさまざまな関係の糸が結ばれていく。
(略)
 さて、「ディープ・リスニング・バンド」のCDは何枚かリリースされている。その一枚、《DEEP LISTENING》はワシントン州ポート・タウンセンドにあるフォート・ウォーデン貯水槽の中で行なわれたいくつかのセッンョンが収められている。深さ十四フィートのこの空っぽの貯水槽は、なんと四十五秒という驚異的な残響時間をもっている。この長い残響が互いの音を重ね合わせ、インターラクションを促進するのである。

Rothko Chapel

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