音楽と美術のあいだ 大友良英

大友良英のインタビューと対談。

音楽と美術のあいだ

音楽と美術のあいだ

高柳昌行

――同時代のフリージャズから考えても、高柳昌行さんのやられてきたことは異色ですよね。
 そうだと思います。高柳さんの音源を調べていくと、初期の50年代は普通に優秀なジャズミュージシャンなんですよね。(略)ある時突然、ノイズ化していくというか、ああなっていくんですよね。世界的に見てもかなり特殊だと思います。でもそれはひとつには、「ギターだった」、っていうのが関係しているんじゃないかな。もしも、高柳昌行がサックス奏者やドラマーだったら、フリージャズをやっただけだと思うんです。やっぱりドラムセットはどうやってもドラムセットだし、サックスはどうやってもサックスなんです。叩いたり吹いたりするのは人間の身体性の問題だから。でも、エレクトリック・ギターはちょっといじると身体を越えて変なことが起きるんですよ。だから、高柳昌行がギタリストだったっていうのは、大きいと思う。フリージャズの文脈とかそんなのとは無関係に、ボリュームを10にするとフィードバックしてしまう。音楽的な要素で進化するっていうより、楽器の特質に応じて進化を遂げる、ということを考えると、エレクトリック・ギターは良くも悪くも、20世紀においてはものすごく大きな役目を果たしたんだと思います。特にロックやノイズ的な音楽においては。それ以降に大きな役目を果たしたのは、ドラムマシーンっていうかコンピュータですね。この二つが人間の身体感覚までも変えたんだと思う。ノイズとリズムに対する身体感覚が以前と以後ではまるで変わってしまい、結果音楽を大きく変えていった。高柳昌行はそれをものすごく極端に体現した最初の一人という気がしてる。あれがサックスだったら、ノイズ化っていっても、阿部薫さんのようにやや情念的になっていかざるを得ない。サックスは身体を振り絞らなくてはいけないから感情が込められるように聴こえてしまうけど、ギターはボリュームをまわすだけだから。それが高柳さんの独特のちょっと冷めた視点につながっているんだと思います。
(略)
 そもそも生音がちっちゃいから。世界的に見たら、ギターって多くは歌の伴奏なんだけど、ジャズの場合特異だったのは、エレクトリック・ギターが発明されたので、サックスと同じ音量が出せるようになって対等に参加するようになったわけです。それがさらに行き過ぎていって、ギターはジャズをも超えていく原動力になった。
(略)
 ギタリストってのは基本件奏者でもあるので、音楽楽全体を見れるというかでプロデュース的な発想を持ちやすいんです。そこと相まって身体を離れたノイズ化もできる。のちに、私やジム・オルークが出て来たのも、ギタリストってことと無関係ではないと思います。

「見えないものを見えるようにする」

 たとえば、コンサート会場では、PAスピーカーはあるけれどもそれはないことにして、ステージの真ん中で歌手が歌っているように見せますね。でも本当は、両側にスピーカーがあるんです。でもみんなは昔の記憶の痕跡で、生声で真ん中で人が歌ってるように思い込んでいて、だから真ん中を見てるわけです。
 以前、知的障害の子どもたちと演奏をやった時のことなんだけど、誰かがマイクで声を出すと、その中の一人の子が、スピーカーを見るんですよ。大部分の人は、声を出している人のことを見ると思うんだけど、その子は、音が出ている出所がスピーカーだからそっちを見るんでしょうね。それは言い換えれば、その子はすごく耳が良いし、正直な頭脳の持ち主であるということだと思うんだけど、みんなの共有しているコンセンサスは共有できないっていうことなんです。大部分の人間は、無意識の内に、あっちの人の声がこっちのスピーカーから出てるということはないことにしてるんですよ。でも僕が面白いと思うのは、スピーカーのほうを向く視点のほうなんです。それで、スピーカーから音が出ているのならそのスピーカー見せちゃえ、っていうのが、「アート」と呼ばれるものが何百年もやってきたことなんじゃないかと思うんです。「見えないものを見えるようにする」ということは、そういうことだと思います。だから、スピーカーの存在を露わにするようなことをやってみたりしているわけです。
 ふつうは、録音された音楽を聴くとき、目の前で演奏されているような感じで聴いていると思います。(略)
ところが、「これは録音したもので、身体なんてここにはなくて、ただの溝でしょ」ということを露わにしていく、という野暮なことをやるのが「メディアアート」と呼ばれるものの面白さだとオレは思ってます。

対談:刀根康尚

大友 ジョン・ケージとはニューヨークに来てからわりと親交があった感じですか?
刀根 まあね。偉い人だから僕は遠慮してたんだけど、向こうはそうじゃなくてチェスやる相手を探してるんだよ。将棋でもいいから、って。「一緒に将棋を指さないか」って電話があったりして(笑)。でもぼくは実際は将棋もできない(笑)。
(略)
刀根 ケージは、僕のCDプレーヤーを使った作品の、最初の演奏の時に来てくれたんだよ。(略)
80年代半ばですよね。で、ケージが喜んで、聴きながらゲラゲラ笑っててね。笑って、演奏を終えたらとたんに握手をしに来たんだ。だからあの作品はケージも気に入ってた。
(略)
大友 僕はすごい興味があるのは、刀根さんってすごい早い時期から、全然こだわらずにデジタルテクノロジーのほうにガンといった感じがあるんですけど。
刀根 それはたぶんね、今、「複製」ということがひとつありますよね。複製っていうのは、再現手段ですよね。でも、複製を手段としてではなくて、複製そのものがアートになり得るんじゃないか、と。
(略)
オープンリールの音を、僕が数を数えて、それを小さな音で録るんですよ。数を数えている間に外の音も入りますから、いろんな音が入る。それで、ボリュームを最大にして、それをまた小さな音で録音して……と、録音を続けて、最後はひずみだけになる。聞こえるのはひずみだけになっちゃう。
(略)
ひずみが大きくなってすごい音になると、オープンリールのテープレコーダーが弾み出すんですね。振動で。だからあんな小さなスピーカーでもね、すごいですね。弾むんですよ。面白いと思ったのはテレコが弾むのは、音楽の中でなく、外の出来事でしょ。
(略)
大友 本当に初期の頃から刀根さんは、本来その機械には予定されていなかったバグのようなものを、拡大するようなことをなさっていたんですね。
(略)
あれ[CDを暴走させる]は、スコッチテープを小っちゃく切ってCDの盤面に貼ってCDプレーヤーが読み取ろうとする信号が変形し、その結果、CDを普通に聴く時の音をまったく無関係な音響が発生するんですけど、その前にスコッチテープに針を束ねてね、小っちゃな孔をいっぱい開けてるんです。(略)
CDはレンズのフォーカスを合わせて情報を読んでいくから、読み取りができないところは、だいたい普通は盤面が汚れたりしても大丈夫なように補正する機能がありますよね。それをオーバーライドしちゃう。しかもスコッチテープに孔が開いてると、レンズのピントが合わなくなるから、ちょうどスレッショルド閾値)の幅が最大になるんですね。つまり読み取れるか読み取れないかという、機械がちょうどその境目に当たる。機械が迷う状態になる。機械が戸惑うのが作品になっちゃう。その時にちょっと簡単な軽い振動を与えると、また元の通りに読み取る。でも音自体はある程度変わっちゃいますよね。しかも音だけじゃなくて、順番を決めたりとか、同じ音は全部集めて並んでるから、「この音はここで」という読み取りの順番が変わるわけです。外側が一番早くて、中がだんだんゆっくり読み取る、というそういう指示が入っているのも全部狂わせちゃうから、後戻りしたりとか、早いところが遅くなったりとかいろいろするので、再生がまったく出鱈目になる。コントロールできなくなるということを利用した作品ですよね。
(略)
大友 刀根さんの中では、事前のイメージみたいなものってあるんですか?CDにスコッチテープを貼ったものの時でも、MP3でエラーを起こしてやる時もそうですけど、これはつまらない、これは面白い、という判断があるわけですよね?
刀根 MP3がエラーを起こした時につまらないっていうのはね、ジジジジって音がずっと続くだけなんです。(略)
ちょっとそれは、いくらなんでもね。僕はジョン・ケージじゃないですからね(笑)
大友 その時の、刀根さんの中の美的な何かっていうのは、どこに基づいているものなんてすか?
刀根 一つは自分が予想しないことがあるってことだよね。で、今のジジジジって言ってるのは、いつまで経っても同じですからね。だから予想できちゃうわけでしょ。そういう意味ではね。で、予想できちゃうのは、僕はつまんないんですよね。だいたい普通はね、頭の中に音があって、それに合わせてやるっていう人が多いけど、僕はそれは面白くないんです。
大友 まあ、音楽家は頭の中に音があるという人が多いですね。
刀根 多いでしょ。僕はそれにうんざりしてますからね。
大友 (略)僕も、音楽家の頭の中にあるものなんて、なんぼのものでもないなって思うタイプなので、それをやられてもなあと思ってしまう部分は確かにあります。
刀根 フッサールに『内的時間意識の現象学』っていう本があるでしょ。あれは時間の知覚のモデルをメロディの知覚で説明してますよね。(略)
知覚というのは心の中に以前に見たものを保持しているからで、それを「過去把持」とフッサールは言っている。もう一つは、たとえば目の前に家があって、目をつぶった時に「目を開けたらまた家があるだろう」と思うのは、目をつぶっても、頭の中、つまり知覚の中で「予測」しているわけですね。それを「未来把持」っていうんだね。で、「現在」というのは一種の「フィールド」であって、「点」ではないというわけです。時間のフィールドのなかで、成り立っている。だからメロディの知覚というのも一つ一つの音がバラバラに聞こえるんじゃなくて、繋がった音として、メロディとして知覚される。(略)
だから特に音の知覚の場合ね、僕はなるべくそういう、原理的に、未来把持と過去把持が成り立たないような音が出るのが理想的なんだよね。つまり、知覚を否定することですよね。
大友 それをやられると聴いている側は、そこにスピードをすごい感じるんだと僕は思うんです。スピードというか、違うところに飛んでいく感じがするんです。僕はそういうものがすごい好きなので、そういう音楽にグーッと惹かれちゃうんです(略)
それまでのテープコラージュとかにも、もちろんそういう感じはあるんだけど、そういうものと比べても[CDにスコッチテープ作品は]感じるスピードが何百倍も早い気がしたんです。もう人間の身体のスピードじゃない感じがしました。テープとかのコラージュは、身体のスピードじゃないですか。作業もハサミで切ったりする身体的なものだし、どんなに短くコラージュしたって0コンマ何秒レベルだけど、でもデジタルになっちゃうとスピードが全然違うわけですよね。
刀根 「瞬間」どころじゃないですからね。
大友 本当に認識できないレベルになるから、それがすごく面白くて。面白い理由はなんだろうなってずっと思ってたんですけど。たぶん一つはそういうことだと思うんです。

内的時間意識の現象学 (ちくま学芸文庫)

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