ガムラン伝道師の生涯

あまり本を読む気にならないので伝記的部分だけをつまみぐい。バリ島音楽に魅せられた1900年カナダ生まれの男の話。50歳ひとり部屋のくだりが、涙。
1931年コリン・マクフィーは新婚旅行でバリ島へ。文化人類学者である妻ジェーンのフィールドワークのためでもあり、その費用には裕福な前夫からの慰謝料をあてた。マッチョではない点が気に入り妻は結婚した。38年に離婚。

シュピース

 では、1920年代のヨーロッパにおけるバリ島認識とそれにまつわるところはどうであったか。
 その鍵を握る人物としてまず挙げるべきは、やはりヴァルター・シュピース(1895〜1942)だ。
そもそもマクフィーがバリ島のガムラン音楽を知ったのも、多芸多才なドイツ人、シュピースの録音を耳にしたからであった。シュピースは画家であると同時に音楽家である。プランナーでありコーディネイターである。バリに一種の芸術としての絵画という意識を持ち込んだのも、現在知られる「ケチャ」を整えたのも、この人物である。(略)
 シュピースはバリ島の有名人になる。バリ島を訪れるひとは、誰もが「シュピースに会ってきたまえ」と声を掛けられ、観光客は大した用事もないのにただ有名人だからというだけでシュピースに会ったりしたほどだ。

「楽園」の変化

 まずジェーンとの離婚がある。バリ島にともにいながらも、かならずしも一緒に住んでいる時間が多くなかったこともその理由だった。マクフィーはかなり自由気ままによそに出掛けては、何日も平気で帰宅しなかったこともしばしばだった。最終的には38年5月にジェーンがグレゴリー・ベイトソン&マーガレット・ミード夫妻とともに出てゆき、夫妻はニューギニアヘ、ジェーンは合衆国へ戻ってしまう。そして7月に離婚。コリン・マクフィーはその後もひとりでほぼ一年、島に住みつづける。バタヴィアから出航するのは38年12月26日である。
 もうひとつ。
 第二次世界大戦が近づいて来て、東南アジアの島々にも少しずつきな臭さが漂い始めたのである。そのなかのひとつには、同性愛者に対するしめつけもあった。すでに記したように、マクフィーの性癖は周知のことであり、ジェーンもそれを了解したうえで結婚をしていた。バリ島の男性を恋人とすることも少なからずあったようだ。そして、シュピースも同様の性癖を持っていた。
 20年代のバリ島を映しだしたクラウゼの写真集には、多くの裸体写真が含まれており、そこには性的に開かれた場所としての「楽園」があった。シュピースはヨーロッパに居心地の悪さを感じており、もしかすると、この写真集に、キリスト教的規範からはなれた、一種のパラダイスを見たのかもしれない。マクフィーも同様だった(かもしれない)。
 第二次世界大戦の予兆とともに、太平洋地域での同性愛に対する魔女狩りが始まる。マクフィーは『熱帯の旅人』で、或る日、日本人の写真家なる人物が突然尋ねて来たことを記し、そのうさん臭さから空気の変化を嗅ぎとっていた。そして、マクフィーは慌ただしく、バリ島を出発する。
(略)
 マクフィーが去った12月26日のわずか5日後、31日大晦日、シュピースは風紀を乱したというかどで捕らえられる。いくつかの刑務所や収容所に移された後、他のドイツ人たちとともに乗せられた移送船が日本軍の爆撃により沈没させられてしまう。42年、1月18日のことで、遺体は発見されることもなかった。
 その直後、作家であるとともに、英米文学者、『白鯨』や『エマ』の翻訳で知られる阿部知二が、東南アジアを訪れ、ジャワ島とバリ島についての文章を雑誌に掲載している。これは後に単行本『火の島 ジャワ・バリ島の記』にまとめられた。

50歳ひとりぼっち

 52年、秋、マクフィーに思わぬ転機が訪れる。(略)[ガムラン・クビャールの訪米]
25人の演奏者、15人の舞踊手という大所帯。バリのガムランアメリカ合衆国にやってくるのも初めてである。そこにはマクフィーが親しくしていた人たちもいた。イ・マデ、マンデラ翁、舞踊手としてのサンピらである。再会は嬉しかったが、マクフィー自身の境遇は悲惨であった。それでも、街を案内しながら、書店のウィンドウに飾られている『熱帯の旅人』を示したりしたらしい。
 そう、この頃、マクフィーが住んでいたのはたった一部屋のアパートだった。「ワンルーム」といえば聞こえがいいが、学生ならともかく、すでに50を過ぎている壮年、当時なら老年になりかけた男性である。電話もなく、階下にかかってくると、呼び鈴で知らされる。ここにはいるために、作曲家は多くのものを売り払わなければならなかった。収納しきれないからだ。友人の証言によれば、バティックからゴングや太鼓、ワヤン・クリットに使う人形、仮面といったバリから持ち帰った大切なモノたちである。もちろん、ピアノもすでにない。

還暦を迎えてようやくUCLAの教授に。64年死去、その1ケ月後にジム・モリソンがフロリダ州立大学から転入。