坂本龍一・全仕事 その2

前日のつづき。

坂本龍一・全仕事

坂本龍一・全仕事

  • メディア: 大型本

サンプリング

サンプリングのいちばん大事な、そしておもしろいところは、文脈から音を切り離すことができるという点ですね。つまり、音には必ずその音が属している場所、空間がありますよね。それは、必ずコンテクスト=文脈を持っているわけです。例えば、非常に脱構築されている現代音楽というのがあったとしても、それはやはりひとつの音の場で、ひとつの文脈で持続していくものなので、その文脈ということからどうも離れられないわけです。サンプリングっていうのは、そういう文脈から初めて音を切りとって、さらにその切りとられた文脈を複数で交錯させるというようなことができるシステムで、そういうことが可能になったという点が、サンプリングのおもしろさだと思います。
あと、サンプリングの残酷さっていうのがあって、その残酷さを僕はすごく愛しているんですよ。要するに、閉じられた数秒の中でそのコンテクストは成り立ってるんだけれども、パッと鍵盤をオフにすれば完全になくなってしまう。だから、その音がおかれている文脈がフェアライト上にはないっていうか、いくらでもコラージュできるし、他の文脈と合わしちゃうこともできるんだ、という一種の残酷さっていうか、音楽ホラーっていうか(笑)、そういう部分がすごく快感なんですね。
(『キーボードスペシャル』1986年)

エスニック・フィルター批判

 『NEO GEO』はエスノ音楽と誤解されるのがいちばん困るんです。
エスノ礼賛というのは、西洋がダメでアジアがいいんだといっても、オリエンタリズムというカテゴリーの中に音楽を閉じ込める、単なる差別です。具体的に言うと、バリのガムラン音楽などは、今まで環境音楽というフィルターを通してしか皆聴いていないから、実は何も聴いていないのと同じなんです。実際のガムランは、もっと開かれてるんです。神への信仰のもとに共同体の中で一点をみつめて、しかつめらしくやるようなものじゃなくて、子供達がギャアギャア遊んでる平原、そんな中でやる音楽なんです。それを僕は、すごくロックっぽいと思ったんです。
日本の文脈で聴かれる時には、必ず、神とか伝統とか自然とか環境音楽とかアジアとか、そういう文脈でしか聴かれない。それは絶対不自然だと思って、もっとロック的なイディオムで聴けるガムランがあるはずと思ったんです。
(略)
沖縄の音楽にしても、沖縄の人間が“沖縄音楽を使った現在の音楽”を作っていない。東京経由の洋楽(ロックとかポップス)をやってるだけです。あるいは、現在をとり入れないで、トラディショナルをやってる人達、そのどちらかだけです。(略)
それって日本の縮図だと思った。日本そのものだ、と。(略)
なんでもっと、自分の血とか共同体を離脱しないのかってね。そこからどれだけ離脱するかが、地球音楽だと思う。
共同体のタコツボに生温かくもぐり込んでるのがいちばん楽なんです。外へ出るということは、とりあえず勉強することなんです。それって勇気ですよ。自分にないコードを解読することでしょ。外へ出て、決して定点を持たない地点から、どんな音楽地図が描けるか? 実は地球自体、上も下も右も左もないんです。北半球が上というのは人間の単純な思い込みです。端的に地を失えばいいんです。定点のない地球儀、それが『NEO GEO』です。
(『月刊カドカワ』1987年8月号)

インド・フィールドワーク

東京に溢れているエスニック音楽は、民衆のものではなく、宮廷音楽だ。アジアの音楽ですら、社会や国家に管理・保護された“伝統芸能”として標本化されたものにしかすぎない。それはすでにアジアの原地ですら“地”を喪ったものだという確信は、何度かの失望体験で、僕にとってはゆるぎない。
(略)
インドはもともと単純に嫌いだった。というよりは、インドを好きと称する人たちが嫌いだった。髪の毛をのばし、ヒゲをはやし、瞑想を求めてインドを旅する。(略)
テリー・ライリーがインド系だとすると、スティーブ・ライヒはアフリカ系。テリーには神秘主義の押しつけを感じるが、ライヒにはフィールドワークを感じるといった具合だ。
ガンジス川があり、死体があり、砂漠がある。それらを見せて「これが世界だ」とインドに世界を代弁させる人たちの胡散臭さは、もっと我慢ならなかった。
ところが、目の前のインドには、哲学のテの字も、神秘のシの字もなかった。そこは色の溢れる、真にポップな場所だった。
(『月刊カドカワ』1988年5月号)

鼻歌すら歌ったことがないというのが
定番坂本主張なのだが……
まるで橋本治のような龍一がいるじゃないかw

世田谷区立千歳中学の同級生 坂口啓子氏の証言
よく歌ってましたよ。音楽の先生は坂本くんにしか歌わせないんだもの。
普段からほうきを片手に歌っていましたから。私、覚えてますよ。
(『03』1991年3月号)

レゲエ

何でレゲエが聴けるようになったかというと、自分がテクノポップをやりだしてから。テクノポップもこれ以上減らせない、自分の趣味とかそういうものをぜんぶ排除した、ぎりぎりの状態に近いでしょ。ベースだってダッダッダッ、ドッカ、ドッカ、っていうわけだからね。コードなんかも絶対、複雑な和音を使わないで、ドミソとか、ドミソもないぐらい、ドーとか。それがテクノの本質じゃない? それをやりだしてレゲエを聴けるようになった。だから、その現象だけを見てるとぜんぜん面白くないんだけど、中に入っちゃうと、そこには奥深いヴァイブレーションの世界が、広がってるわけよね。一種の神秘主義だね、あれは。
(略)
音楽を聴くっていうのは、けっこう批評的な行為だったんです、ぼくにとっては。その批評的な態度でレゲエを聴くと、ほとんど無意味、ゼロに近いわけでしょ。ほとんど何も起こらない。だから、あ、そうか、自我を捨てればいいんだなというのがわかったんだけどさ。
(『月刊カドカワ』 1990年4月号)

現代音楽

妙ちきりんな音を求め、それを新しい形で食べさせるのは現代音楽の重要な要素の一つでしょう。それを実験室みたいな所で研究しているのがイヤで、ボクはポップスをやり始めた。やってることが楽しくないとつまんないし、大衆が何を求めているのか、それが大衆的にテストされないと面白くない。
ただ、現代に流行している音楽がそれを反映しているとはぼくは思わない。ヒット曲はレコード産業との関連で生まれるもので、それ自体が大衆の求めている音楽とはいえないでしょう。その点でいうと、70年代以降、急速に音楽表現のエネルギーは枯れてきている。
(『朝日新聞』1981年3月4日)

自伝的記憶――そしてみんなと知り合った

りりィのバック・バンドに半年ぐらいいた。その前は、自由劇場を拠点にして活動していた“自動座”の音楽を1年半ぐらいやっていた。朝比奈尚之、串田和美吉田日出子柄本明らがいた。
アート・シアターでサム(串田和美)が芝居した時は、出演したことさえあった。 74年ぐらいかな。その頃大瀧詠一と出会い、シュガー・ベイブや、当然そこにいたター坊(大貫妙子)や山下達郎と知り合った。そして大瀧のレコーディングやったり、ココナッツ・バンクをやったりしながら、だんだんこの世界に深入りした。そうそう、そういえばガロのバックをしていたこともある。またサムや尚之の弟のヤスが、武蔵野タンポポ団と仲良かったから、高田渡と共演したことさえある。
(『新譜ジャーナル』1981年8月号)