文化戦争: やわらかいプロパガンダがあなたを支配する

アドルノ

アドルノは、彼と研究者仲間のマックス・ホルクハイマーが「文化産業」と呼ぶものに注目していた。それについてのもっともわかりやすい説明は、彼らの共著『啓蒙の弁証法――哲学的断想』の「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」と題する章に詳しい。
 この論考はPRと広告、そしてそれを広める新進の技術の融合に焦点をあてたものだ。ジョージ・ギャラップが世論の測定に関心をもっていたとするなら、アドルノとホルクハイマーは、そうした努力はすべて消費者市場の拡大を目的とするものだと考えていた。


 文化産業のモンタージュ的な性格、その製品の合成され隅々まで管理された製作様式は、大量生産をめざして、たんに映画スタジオの中だけでなく、大っぴらではないにしても、安っぽい伝記やルポルタージュ小説や流行歌を、糊と鋏ででっちあげる際にも使われており、前もって広告に順応するようになっている。つまり個々の要素は分解して取り替えのきくものとなり、意味連関から技術的にも疎外されることによって、作品の外部の目的に手を貸すことになる。特殊効果やトリック、個々の部分をバラして何度でも使うやり方などは、昔から広告目的のための商品の展示に奉仕してきた。そして今日では、映画女優の大写し写真は、それぞれのモデルの名を売る広告になり、ヒットソングはそのメロディのコマーシャルになってしまった。経済的にはもちろん技術的にも、広告と文化産業は融合している。こちらでもあちらでも、数え切れない場所で同じものが現れる。そして同じ文化製品の機械的な反復は、すでに同じプロパガンダ・スローガンの機械的反復なのだ。ここでもあそこでも、効率という掟の下で、技術は心理技術に、人間を処理する手段になる。ここでもあそこでも、通用しているのは、目立ちはするが親しみやすく、さりげないが心に残り、玄人っぽいがシンプルでもある、という規準である。つまり、ぼんやりしているとか、なじみにくいとか思われるお客を圧倒することが問題なのだ。


 アドルノとホルクハイマーは資本主義がどのように日常生活を形作るかに関心をもっていたため、文化だけでなくそれを生み出す仕組みにも注目していた。文化の創造には均質化がつきもので、すべての文化的表現を変わり映えしないものにしてしまう、と彼らは主張した。消費はしやすいが、審美的報酬は皆無である――つまるところ、目的は利益を上げることで質を高めることではないのだから、と。(略)
実験的な現代音楽やシェーンベルクを愛したアドルノは、文化の大衆化を嫌悪した。特にジャズは大衆的で不愉快な音楽だと考えていたが、彼の大衆文化への軽蔑はジャンルを問わなかった
(略)
 アドルノにも見落としていることがあった、と言うだけではまだ足りない。実際、ジャズがアメリカのもっとも偉大でもっとも複雑な芸術であることは、多くの人にとって自明のことだった。

婉曲語:経済や減税の話をしながら暗に黒人を傷つける

[ブッシュの選挙運動本部長の]リー・アトウォーターは(略)人の弱みにつけこみ、攻撃することを生きがいにしていた。
(略)
一九八八年には(さらに言うなら現在も)、白人であることへの不安が世の中を広く覆っていて、だからこそ、黒人は恐ろしいという固定観念ほど利用しやすいものはなかった。こうしてウィリー・ホートンの事件が利用された。
 ホートンの物語――殺人罪で服役中のアフリカ系アメリカ人が、民主党大統領候補のマイケル・デュカキスが支持する仮釈放政策で仮釈放中に、女性をレイブし彼女のフィアンセを殺害した――はまさにアトウォーターの希望通りだった。デュカキスはこの仮釈放政策の制定に関わっていなかったが、構いはしなかった。恐怖をあおる戦略においては、候補者が服役者の社会復帰訓練にほんの少し関与していたというだけで、大きなダメージを与えることができた。「選挙運動が終わる頃には」とアトウォーターは言った。「人々はウィリー・ホートンって誰?デュカキスの副大統領候補だったっけ、と思うようになるだろう」(略)
ホートンの事件に言及したあの悪評で知られるテレビCMは、これ以上ないほど見え透いたものだった。不安を煽る芝居じみた仕立てで、何よりもまず責任の所在を明らかにしていなかった。アトウォーターもブッシュも、広告は人種差別とは何の関係もないと否定することができた。広告が、引退したばかりのFOXニュースチャンネルの社長ロジャー・エイルズによって制作されたこと(略)
エイルズは何がニュースになるかを直感的に理解していた。「ステージに二人の男性がいて、一人の男性が『中東問題の解決策について考えがある』と言い、もう一人はオーケストラ・ピットに転落したとしたら、その日の夕方のニュースに取り上げられるのは果たしてどちらだろうね?」と彼は言う。
(略)
 アトウォーターやエイルズの卑怯なやり方は目新しいものではなかった――実際、それはニクソンの南部戦略の流れを汲むものだった。すでに一九六〇年代に、婉曲語[コードワード]――「強制バス通学」や「州の権利」――が明白な人種差別よりもずっと効果的に白人であることへの不安をかき立てるものとして使われていた。
(略)
 一九五四年なら「ニガー、ニガー、ニガー」と連呼しても問題なかった。しかし一〇年もするとそんな言葉は使えなくなった。かわりに「強制バス通学」や「州の権利」などの婉曲語が使われるようになった。さらには、経済や減税の話をしながら暗に黒人を傷つけるようになった。婉曲語や抽象的な表現を使えば人種差別を減らせるだろう、と私が言うと、人々は喜んでそうしたのだ。

都市開発に利用される文化産業

アメリカの芸術への資金援助が生んだブローバックは次のようなものだった。全米芸術基金(NEA)、および同様の志をもつ慈善家たちは、芸術作品の宣伝のために都市の再生というフロリダの言葉を使おうとしたが、いつからか、都市の再生の宣伝のために芸術の言葉を利用するようになった。その結果は予想外で理想とは程遠いものだった。
 一九九〇年代、NEAは一九八〇年代後半の文化戦争の傷跡をいまだに抱えていて、委員たちは過去の失敗を繰り返さないために出来る限りのことをした。芸術活動がニューヨーク市に集中しすぎていると考えた彼らが米国中の芸術的組織の支援を開始した結果、南部や中西部にも助成金が行き渡り始めるようになった。アーティスト個人への資金援助を中止し、かわりに組織を緩衝材として利用することにした。万一助成金を受けたパフォーマンス・アーティストが裸になって非難が集まっても、基金に直接的な悪影響が及ばないようにするためだ。NEAは、慎重で警戒心の強い組織で、二一世紀になんとか芸術の居場所を見つけようとしていた。
(略)
 自らの生き残りに躍起となっていたNEAは、活動のモットーを「偉大な国には偉大な芸術が必要だから」から「芸術は役に立つ」に変更した。(略)
今や芸術は動力源――新たな都市を動かす機械となった。芸術は、政治家にとって理解しやすい指標――資本主義――と結びついた。
(略)
結局の所、創造的経済とは誰のためのものなのか?(略)
長くなるが、この問題に対するフロリダの言葉は重要なので引用しておく。
 ジェントリフィケーション〔都市の高級化〕は白黒つけがたい問題だ。二〇〇二年に、この問題について郊外都市開発を論じ、都市の荒廃を告発したジェーン・ジェイコブズに尋ねたところ、ジェントリフィケーションはむしろグレイゾーンだと答えた。彼女はソーホーやその他の都市近郊の「一般化」にぞっとする一方で、自らが暮らし、大学の側でもあるトロントのアネックス地区は、「良いジェントリフィケーション」の例だと言った。そこにはもちろん、新進のコーヒーショップやおしゃれな店舗、高給レストランが入ってきていたが、一方で地元の金物店やパブ、エスニック料理店、家族経営の小さな店も残っていた。高い収入を得ている移住者たちが、古い建物を復旧し、地域を強化した。しかしそれにも限界があった、とジェイコブズは言った。強制立ち退きにかかる社会的費用のことを私が問いただすと、彼女は私の目を見て、都市やその近郊はダイナミックな発展の途上にあるのだと説明した。「そこが退屈な場所になれば、裕福な人たちまでもがいなくなってしまうのです」
 つまり、経済的平等よりもそこが退屈な場かどうかのほうが人々の重要な関心事なのだ。
(略)
リチャード・フロリダはたっぷりの講演料をもらい、世界的な経済の傾向を、人々が見て感じられる現実的な経済的言語に変えることに成功した。都市は変化しつつあった。誰もがそれを自分の目で見ることができた。誰もがそれについて話していた。しかしそれでどうなったのか?
(略)
カリスマ建築家の作品、カウパレード、都市の活力指標。それらはこの新たな文化産業の武器だ。(略)
そしてそれが、不動産投機家や不動産開発業者たちをリッチにした。

「サウス・バイ・サウスウェスト」、文化戦争

二〇〇〇年には、オースティンのDJ、レッド・ワゼニックが「オースティンはおかしな街であり続けよう」というスローガンを創り出した。多くの居住者たちが共有していた、急激な開発によって街の魅力が失われつつある、という秘かな思いの婉曲的な表現だった。(略)
オースティンは、ミュージシャンやアーティスト、そしてハイテク企業の天国として注目を浴びるようになった。大規模なミュージック・フェスティバル「サウス・バイ・サウスウェスト」は、莫大な収入と大勢のパフォーマーたちを生み出し、今では世界最大の音楽フェスティバルとなっている。(略)
オースティン地区の住宅価格は二倍以上に高騰し、街中がとんでもない発展を遂げた。
 そしてもちろんそれは、街を「クリエイティブな」場にしたアーティストやミュージシャンたちにとって、どんどん手の届かない場所になっていくことを意味していた。皮肉にも、居住者の誇りの表れであった「オースティンはおかしな街であり続けよう」という合言葉は、地元のブランド化を進めるための効果的なビジネススローガンヘと変わっていった。合言葉の元の考案者は法廷闘争に負けてしまい、アウトハウスデザインズと称する企業が著作権を所有することになった。
(略)
 都市が再開発され、再区分され、再建されるにつれて、文化はますます都市開発業者のための打ち壊しの道具として使われるようになり(略)
これまでとは別種の文化戦争が起きている。(略)
人々を追い立て、家に住めなくするかつての方法が手荒く無遠慮なものだったとすれば、現代では、文化を用いたよりさりげなく、楽しげな方法が用いられている。大規模な取り壊し計画は減少し、牛や美しく輝くビル、そして点在するコーヒーショップによって町を変える方策が増えた。それに関わる人々は、相変わらず大きな権力と強い影響力をもっている――大きな政治的権力を握る助成金支給機関、望みどおりの結果が得られるなら喜んで都心のイメージを変えてしまう不動産開発業者、最高額入札者に奉仕したがるカリスマ建築家、そして都市での出来事すべてを、人々を鼓舞し活気づけるものに変えてしまう識者たちのことだ。

「慈善・産業複合体」「良心ロンダリング

与えることによって支配する社会のしくみについて考える必要がある。
(略)
与える額が増大していることと、受け取ることを標準化するシステムが維持されていることだ。アメリカで寄付の額が爆発的に増加している一方で、それと同じくらい貧富の格差が増大していることは驚くにあたらないだろう。自由な資本主義が、NPOへの寄付の誘引となっているだけでなく、慈善活動を通して自らの気前の良さをアピールしたいという超富裕層の思いをかき立てている。
 二〇一三年七月、億万長者の投資家で慈善活動家でもあるウォーレン・バフェットの息子のピーター・バフェットが『ニューヨーク・タイムズ』の特集ページで、「慈善・産業複合体」という言葉で慈善ブームを批判した。世界有数の大富豪たちと日常的に食事や取引をしているバフェットは、独自の視点で慈善を語っている。「一握りの者たちのために莫大な富を生み出すシステムによって、より多くの人々やコミュニティが損害を被っている今、『社会に還元する』という言葉がより英雄的な響きをもつようになった。これはいわば『良心ロンダリング』とでも呼ぶべきもので――人一人が生きるのに十分だと思われる額以上の富を貯めこんでいる後ろめたさを、ほんの少額を慈善という名目でばらまくことによってごまかしている」
(略)
バフェットは、特権をもたない者を助けたがる特権階級の心に巣食う植民地主義的欲求を、鋭く指摘している。
(略)
[CRM:Cause Related Marketing。ブランド力を高めるのに慈善を利用する]
 商売に大義をもちだす戦略は、もちろん目新しいものではない。(略)
ラッキーストライクの宣伝キャンペーンのもっとも重要な部分で、それがフェミニズム運動とダイエット効果を促進した。(略)
 二一世紀の今、このウィン・ウィンの戦略には名前がつけられている。CRMだ。
(略)
もしも資本主義が、じつは慈善事業が改善しようとしている問題の多くを生み出している当のシステムだとしたら、CRMには利害の対立があるのではないか?(略)
与える行為は人目を引き親近感を与えるだけでなく、どうやら資本主義という巨大な生態系に関与してもいるようだ。

MySpaceの栄枯盛衰

二〇〇二年、Friendsterは始動早々大成功をおさめ、その後の三ヶ月間に三〇〇万人のユーザーを集めた。人々は突然、オンラインで互いを見つけられるようになった。(略)
Friendster(この名称は、ナップスターとフレンドを掛けあわせたものだ)の隠れたコンセプトは、友人のネットワークを利用して恋人探しをすることだった。
(略)
ITバブルがはじけ、広告目的のスパムメールを取り締まるさまざまな法律ができたことも考慮した[MySpace創始者の]二人は、Friendsterからある着想を得た。(略)
二人は『へえ、みんな信じられないほど長時間このサイトを見てるね。これを真似しよう』と言いました。彼らの目的は、ソーシャル・ネットワークを立ち上げて広告を撒き散らし、あのひどい商品を人々に売りつけることだけだったのです。これがMySpaceの始まりでした」ふたりは、新たなソーシャルサイトのアイデアを当時の上司に進言し、二〇〇三年にMySpaceが誕生した。
 MySpaceは、ソーシャル・ネットワークとしての機能よりも、会員がユーザー情報を自由に閲覧できることを特徴とした。Friendsterが広めた身近な友だちの輪モデルには、相手を品定めする発想はなかった。そこにMySpaceは目をつけた。
(略)
ユーザーは、自分のプロフィールページを、まるで本当の居場所のように自由にカスタマイズすることもできた。さらに、当初はロサンジェルスのバンドや俳優をターゲットとしていたため、MySpaceの作りにはある種のかっこよさがあった。Friendsterが友だちのコミュニティを作ることを目的としていたとすれば、MySpaceは社会的交流に向けられていた人々の関心を、あっという間に自己アピールとオンライン上の性的な出会いへの関心に変えてしまった。(略)
 サイトは前代未聞の目覚ましい成長を遂げた。(略)会員数は[一年で]二〇〇万人から八〇〇〇万人に膨れ上がった。
(略)
 インターネットを広告で一杯にしようと考えた人々が創業した会社が、図らずも自分たちのサイトが広告で一杯になっているのを目の当たりにすることになった。さらにメンバーのプロフィールのページを自由に閲覧できる機能がなりすましを助長し、MySpaceは、デートサイトにはありがちなように、急増するスパムメールと人を喰い物にするふるまいの宝庫となった。性的被害への不安が抑えようがないほど広まり、誰もが知っている通り、その不安はメディアに利用されて野火のように急速に広まった(略)二〇〇九年には、MySpaceは、性犯罪者として登録されていた九万人の会員を退会させたと発表した。それで人々が安心するとでも思ったのだろうか?
 やがてMySpaceは収益を上げることしか頭にない巨大企業となり(略)ビデオにブログ、カラオケから読書会までさまざまな呼び物を追加した。(略)
人事の大改造が繰り返され、創業者たちさえ首を切られたのち、二〇一一年にこのサイトは三五〇〇万ドルで売却された。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com