広がる差異の意識
原著は1982年刊。
ルイ・ナポレオンの第二帝政も崩壊し、第三共和故に代わられた。
消え去った権威は、政治的権威であると同様に社会的権威でもあった。偽の君主たちが現れては消え、古い貴族の生き残りがあてどもなくフォーブール・サン=ジェルマンをうろつくとき、フランス社会は、嗜好を指示する唯一最高の個人も、それを取りまく少数の消費のモデルとなる層も失った。社会の地形は均され、特権的なグループを模倣するかわりに、お互いを観察する傾向が増した。偶像崇拝が減り、競争が増えた。これらほぼ同等の人々のあいだで、差異そのものは過去に比べて小さくなったにもかかわらず、差異の意識は広がった。
本当のものというのは、少しも本当ではないのだ
タルメールは、ビジネスが夢を不当に利用するときに必然的に生じる堕落を強調している。彼にとって、すべての広告は偽りの広告である。見え透いた嘘や巧妙な嘘、不作為のあるいは作為の嘘、細部におけるそして全体における嘘。「本当のジャワ」や「本当の中国」や何であれ本当のものというのは、少しも本当ではないのだ。人々は騙されているのである。平凡な日常世界からの楽しい脱出を捜し求める人々は、人を欺くドリームワールドの中にそれを見いだすのだが、実際それは少しも夢ではなく、仮面をかぶった強引なセールスにほかならないのである。
1900年の万博は、この想像的欲望と物質的欲望、夢と商業、集合的意識と経済的事実の新しい決定的な結合を具現化している。
自由にただよう欲望を刺激する空間
[冷やかす自由]実際に買う義務を負わずに夢にひたる自由と引き換えに[定価を受け入れ](略)客と小売業者の活発な言葉のやりとりは、「もの」に対する客の受動的で無言の反応に置き代わった。(略)
たとえ消費者がそのときに買わない自由をもっていたとしても、商売の技術は、彼に「いつか」それを買いたいと思うように仕向けるのだった。大衆消費の環境としてデパートは、消費者が観客となって商品を楽しみ、売ることが娯楽と混ぜ合わされ、自由にただよう欲望を刺激することが個々の品物をすぐに買うことと同じくらい重要であるような場所であったし、いまもなおそうである。
悪趣味だからこそのエキゾチスム美学
混沌異国様式を「悪趣味」として非難することは、20世紀に入る頃にもまだ多くなされていた批判であるが、それは的はずれなものである。(略)なぜ、まがいもののマホガニーやブロンズや大理石に頼るのだろうか。なぜならこうした材料の目的は、それら独自の特質を表現することではなく、ただ豪華さやエキゾチックな感じを伝えることだからである。なぜ、視覚的なテーマをごた混ぜに集めるのだろうか。要は内的な一貫性を表現することではなく、通常からの隔たりを表現するすべてのものを一緒にすることが目的だからである。
ゲテモノ様式美
タルメールは結論として、装飾が芸術を模倣しようという試みを諦め、本来の性格をはっきり理解したならば、本物の様式を生みだすことができるかもしれないと示唆している。[彼は1900年万博の「重苦しく不格好で奇妙なけばけばしい」記念ゲートのみをこう賞賛した](略)
かつてどこにもそのようなものはなかった、どんなものにも似ていないという唯一の長所を[持っている]。それらは不条理だろうか。確かにそうである。しかしそれらの特質はまさに、不条理であることに存在するのだ。不条理であることが論理的であり、唯一の真の不条理は結局、道理にかなおうと望むことであるような思考様式において。
ユイスマンス『さかしま』。
階級分けは生産から消費へ
階級の概念は伝統的には生産手段と結びつけられてぎたが、『さかしま』では消費の領域に侵入している。デ・ゼッサントの世界は厳密な階級構造をなしているが、そこでは人々は、何を生産するかではなく、何を消費するかで階級分けされる。デ・ゼッサントは「選ばれた少数」から「庶民」に成り下がることに必死で抗い、万が一ポピュラーな消費の対象に手を触れたりすれば、庶民に成り下がってしまうと信じこんでいる。この点に関する彼の敏感さは、タブーと呼べるほどである。(略)
だれも、どんな金持ちでも、大衆市場を超越はできない。市場は金持ちに、複製や模倣でないもの、非凡なもの、希有なものを購入するようにしむける。物が、象徴的市場価値とは無関係の本質的価値によって判断されえないのと同様、お金ももはや有用性、安楽さ、美しさと固有の関係をもたないのである。(略)
エリート消費者は、庶民に一歩先んじるために、買ったり廃棄したり、選んだり退けたり、休む間もなく動いていなければならない。結局エリート消費者は大衆消費者と運命を分け合っているのである。
デカダンス以後
19世紀末のデカダンス文学は、民主主義の時代に生きる新貴族のジレンマを、とりわけ異常で倒錯的でさえあるライフスタイルを通して自己の優越性を確認しようとする新貴族を探究している。(略)
当時、より関心を集めていたのは、デカダンス以後どうなるかという疑問だった。デカダンスは解くことのできない問題を提出した。『さかしま』を生みだしたのは、頂点を極めた文学伝統ではなく、過渡期の文学であった。ユイスマンスは大衆市場を逃れる孤独な努力の不毛さ、社会から切り離された完全に自律的な消費の不可能さ、普通の人間を超越しているという自負の誤り、エキセントリックで最後には狂気にいたる孤立によって自己を表現するような優越性の災いなどを明らかにする。しかし『さかしま』は、エリート的消費が満足な社会関係の欠如を埋め合わせないということを鮮やかに示すが、何ならば埋め合わせできるのかは示さない。正直なユイスマンスは、デ・ゼッサントをして最初にフォントネーヘと向かわせた、近代商業の荒れ狂う洪水に対する断罪を取り消したり、弱めたりはしない。それゆえ主人公は悪夢をさまよい、その姿は最後の頃には、老いて病弱なルイ14世が壮麗な宮殿の広間を歩き回り、彼が入念に作りあげ、またその虚しさを思い知った消費のシステムの廃墟に、ストイックに立ち向かう姿を思わせるのである。(略)
多くの人々はこのようにストイックにアンニュイに耐えることができず、不毛さの感覚から自分たちを救ってくれるような大義や信念を探し求める。
明日に続く。