自由論―現在性の系譜学 酒井隆史

2001年の本。

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

誰が誰を観察するのか?

誰のために?本当のところは?

[まず『暗闇のスキャナー』のあらすじがざっと紹介される。覆面麻薬捜査官のフレッドは捜査対象のジャンキー達との生活で]物質Dの常用者になって脳が破壊されていくなかで、観察者は被観察者、警察官は犯罪者と重なっていくのである。(略)最後にひとつのどんでん返し。捜査の手がかりとして利用していたはずの末端の売人の女性は、実は、彼を監視するFBIの覆面捜査官だった。監視も人格崩壊もそれも、監視のたくらみの手順のうちに埋め込まれていたのだ。
(略)
一九八八年のギィ・ドゥボールの『「スペクタクルの社会」への注解』における言葉を用いて、こうまとめることができないだろうか。管理支配の収益率の低下。このタームは、マルクスのいう「利潤率の傾向的低下」をおそらく意識したものであろう。
(略)
管理支配がほとんど社会空間総体にまで拡がり、その結果、その要員と手段とを増大させると……いずれの手段も、いまや、目的となることを熱望し、そうなるべく活動する。監視は自らを監視し、自分自身にたいして謀略をたくらむのだ。
(略)
 あらゆる社会生活の領域で、監視、情報操作、特殊任務者の溶解の度合いがますます上昇していく
 それによって、謀略はほとんどおおっぴろげのものとなる。「腐敗」はもはやバナルなものとして蔓延するのである。ドゥボールが言っには、六八年以来、社会はもはや愛されようとすることをやめた。そうした夢はもはや捨てられねばらなない。それは恐怖されることを好むようになるのだ。そして、もはや無垢なるものであることを装わないシニカルな社会において、謀略がオープンなものになるにつれ――統合されたスペクタクルの一つの特徴は秘密の支配である――、各々のエージェンシーはたがいに干渉しあい、悩ませあうようになる。「こうしたプロの陰謀者/共謀者たちは、理由を知ることなくたがいにスパイしあうし、ときにたがいを確実に知ることなく共同行動する。誰が誰を観察するのか?誰のために?本当のところは?」。かくして誰もがエージェントとなり、たがいに共謀し合うが、結局そこから意味は蒸発してしまう。監視者はもはや自分がなにをしているのか、なんのために行動しているのか、総体的なパースペクティヴを喪失してしまうのだ。まさにアークター捜査官のように、である。「自分が騙されているのではないか、操作されているのではないか、誰も確信が持てないし、また操り手も戦略が成功したかどうか理解する場合もめったにない」。そして全体のパースペクティヴ、中心を欠き、統御できない肥大化する秩序を抱えたままのシステムを束ね、作動させるのは恐怖に他ならない。こうしてシステムは、裡に軋轍を――致死的かもしれない――はらみながら、「脆い完成」をみることになる。

世界の捏造化

一九七九年、ギィ・ドゥボールは『スペクタクルの社会』のイタリア語版第四版の序文にこう書いたのだった。
 (略)われわれは捏造がより高密度になり、あらゆる日常生活の土台の次元でふきだまっているじめじめしたもやのような、もっとも微細な事象の構造になり果てているのを眺めてきた。
 テロリズムを契機にした「緊急事態」あるいは「例外状態」が、「捏造の世界化、世界の捏造化」を完成させ、社会の新しい段階への移行を一挙に可能たらしめた。統合されたスペクタクル、左右の政治家、官僚、企業家、マフィア、メディア、警察、テロリストなどが――内部に矛盾をはらみながらも――一体となって、「既存の秩序」維持のために共謀する。(略)
「なにも変わらないためにはすべて変わらねばならない」のである。権力は緊急事態のなかで、もはや「反駁できない」欺瞞のテクノロジーを「もっとも高度に展開した地点で反省する機会を得た」。つまりそこでは権力はスペクタクルを高密度に動員することで、「真実」とのむすびつきをもはや考慮することなく作動する技術を会得したのである。そのとき国家は嘘をつくが、「あまりに完全に真理や真実らしさとのそのコンフリクト含みのむすびつきを忘却したために、むすびつきそれ自体が抹消され刻々と取り替えられる」。ドゥボールはこうも述べている。「それは信じられるように意図されてはいない」。ディスプレイ上で点滅する情報は、「後になったら忘れ去られるべく意図されている」、と。情報メディアはこうして欺瞞の装置として完成する。信じられるべく意図されてないのだから、もはやそこでの情報には「反駁の余地はない」。そして『注解』ではこのことが「世論を消滅させた」としている。もちろん「世論」なるものが消滅し、圧制が敷かれたのではなく、むしろそれはメディアの操作によるシミュレーションとして抽象化することで、人びとは「世論」がある気にさせられた上で(「むすびつきそれ自体が取り替えられる」)抹殺されたのである。
(略)
[ポール・ヴィリリオ『民衆的防衛とエコロジー的闘争』1979]
彼はすでに七〇年代の多国籍企業の支配の進展にともなって台頭したリバタリアニズムやそれを理論的背景にしたネオリベラルたちによる「最小国家」の提起を、「速度体制のヒエラルキーの解体」による「政治的領野のミニチュア化」として把握していた。
(略)
 リベラリズムはつねに自由の幻想を移動性/流動性の幻想に等置してきた。かつてニクソン大統領は簡単に言ってのけた。わが国は近隣諸国に対して決して帝国主義的野心など持ち合わせていない、ただ世界に新しい生活様式を提供したいだけなのだ、と。これは自由市場を信奉するエコノミストたちのいう〈最小国家〉がすでに繰り返している類の光学的幻想の一例である。

未曾有の「対案主義」がいま、この社会を支配している。

注意してほしいが「対案主義」とは、いわゆる「オルタナティヴ」の提起一般のことではない。「対案主義」の問題点はここにある。つまり「対案主義」は、自己イメージに反して、自らが想定する敵よりもはるかに不寛容なのだ。まず「なんでも反対」と嘲笑される勢力や主張が、いかなる水準であれなにがしかのオルタナティヴを描いていないことはそうはない。そもそも原則的にみればそれがなければ、批判も不可能だからだ。
(略)
特定の理念が破滅的な危険をもたらしたりすることはあるし、それは慎重に分析され、批判や警告されねばならない。だが世界は、そうした諸理念を坊主ざんげによって一掃したり、その複数の失敗でもって自分の正しさが圧倒的に確認できるような、狭隘な選択肢しかない貧しい場所ではない。『世界を信じる』とはそういうことではないか。「なんでも反対」する「古い」左翼勢力という戯画化は、こうした無数の理念(「対案」といってもいい)の場を「現実味のない批判」として無へと追放する振るまいのことだ。対案主義とは特定の範域、ドゥボールの言葉では「支配者だけが順調と呼ぶ」ものに逆らうことのない「対案」を出すか、さもなくは沈黙か、を迫る恫喝のことである。そして「対案主義」にとって「失笑」あるいは「嘲笑」は強力な武器だ。なぜ八〇年代から九〇年代の知的言説やあるいはテレビの討論番組には「嘲笑」であふれているのだろうか。嘲笑が守る「センス」と「知能」がそれだけで知にとって有意味であるような振る舞いがここまで許された時代がかつてあっただろうか?「嘲笑」は議論の争点にあげる以前に、そして議論の内実を検討することなしにある主張や人間を退ける身振りなのであり、「予防的反撃」である。その攻撃は爆撃対象だった「左翼」をほとんど無力化し、細々とした防戦的論調に追いやりながらも、にもかかわらずさらに攻撃を続けている。勝ち続けなければ不安であるかのようなのだ。
 ドゥボールは『注解』で頻繁に用いられるようになった(いまでもそうなのか分からないが)「情報操作」というコンセプトの作用を分析している。それはもともと社会主義圈で公式に用いられていた用語であり、それが輸入されて欧米で日常的に使用されるようになったらしいが、手短にいうと、特定の言説を敵対するまたは競合する権力が流した意図的に捏造されたデマであるとフレーミングするための記号である。ドゥボールによれば、そのコンセプトが活用されるのは、経済的あるいは政治的権威を一片でも分かち特っている人びとが、既存の秩序を維持するために、である。
(略)
情報操作とは、「この社会がその信者に与える空前の幸福を混乱させ、脅威を与えるものすべて」のことである。だからドゥボールがいうには、情報操作の境界を公的に確定すればそれは効果を減少させてしまう。(略)ゆえにそれは融通無碍で汎用性に富んでいなければならないのである。
(略)
ドゥボールがいうように、スペクタクルの権力は、行為のみならず思想からも否定性をひきはがすことで、「前もって」攻撃を封じる予防的反撃をおこなっている。それはもはや攻撃という「出来事」に先立ち攻撃そのものを封じる反撃なのである。シチュアシオニストの基本的発想である、権力はなにも創造せず、ただ〈出来事〉に反応し、それを取り込むことしかできないのであれば奇妙なことだ。反撃は一体なにに対するものか?ヴィリリオは七九年にこう述べている。「統治することは、かつてなく予−見することである。言い換えれば、より早く行き、先んじて見てしまうことである」。

ロールズの正義論はポスト福祉国家の理論

 危機管理・緊急状態のポリティクスのメカニズムの機軸にあるのは「抑圧」ではなく<排除>である。それは「正常状態」の達成と維持を、媒介を省略して性急に、そして暴力的に実現しようと試みる。〈排除〉の機制のもとでは、コンフリクトはシステムの言語に翻訳されないのであり、コンフリクトは正当性の場に登録されないのである。敵対的な社会実践は端的に病理でありテロルとしてたちあらわれる。
(略)
ネグリたちによれば、ロールズの正義論は福祉国家の哲学的基礎づけと一般的にみなされているが、じつはポスト福祉国家の理論である。ロールズの正義論は配分と循環の局面に焦点をしぼり、労働、生産の局面を削除することによって、かつての福祉国家体制が不可避にみずからに組み込んでいた労働あるいは生産という要素を排除している。だからそれは、ネグリたちがマルクスに依拠しながらいう「資本による実質的包摂」の段階にきわめて適合しているのである。それから派生してくることだが、ロールズの抽象的な社会契約論からは、自然状態のような仮定において差異や摩擦を予想していた契約論の伝統とも異なり、間主体的バーゲニングや交渉の役割が消える。(略)
ロールズにおいては法的秩序は社会的勢力からの抽象化によって確立される。
(略)
ロールズにとって民主体制の安定した維持は、司法システムを現実のコンフリクトから解放すること、あるいはコンフリクトを排除することで達成されるといわれるようになるのだ。さらにリチャード・ローティによるロールズポストモダン的解釈は、その傾向をおしすすめ、「殺菌された機械的・自己充足的な均衡の政治システム」のみを許容できるものとして提示することになる。こうした殺菌されたシステムは、「回避」という具体的な社会的諸力とそのあいだのコンフリクトからの抽象・切り離しによって確保されるが、それは〈排除〉の操作と徴妙にきびすをかわしている。「希薄な国家」そしてローティによって延長された「希薄な政治」、それは「小さな国家」が他方で、警察力の強化を傾向として有していることと無縁ではない。一見、寛容な振る舞いは、実際の政治の場面においてはきわめつきの抑圧的な〈排除〉となってあらわれるのだ。
(略)
つねに社会は「内なる敵」から防衛されねばならず、その意味ではポストモダンの社会は恒常的に緊急事態なのだ。移民、人種的マイノリティ、「エイズもち」のゲイ(ひいてはゲイそのもの)、マフィア、テロリスト、活動家など。

フーコーハイエク

フーコーによればリベラリズムは法思想・政治思想ではなく、本質的に経済分析に由来する。(略)
「法が特殊の個人的、あるいは例外的手段を排除して、一般的介入の形態を定めているがゆえ」に、そして「法の定式、議会システムにおける被統治者の参加が統治的エコノミーのもっとも効果的システムを構成しているがゆえに」。だから「“法治国家”、Rechtsstaats、法の支配、“真に代表的な”議会システムの組織は、そのために、一九世紀のはじめにおいては、リベラリズムと密接にむすびついていたのである」。
 このことはハイエクに即して次のようにもいえるのではないだろうか。ハイエクは『自由の条件』において、命令と(抽象的規則としての)法律とを厳密に区別せねばならないといっている。ハイエクによれば法律は命令とは、その一般性と抽象性において異なっている。しかし他方で、法律と命令とは連続的でもある。法律はその内容を特定化するにつれて、しだいに命令へと移行していくのだ。ハイエクは、中世初期までの法発見の伝統が、「新しい法を意図的に創造するという考え方」に取って替わられ、絶対王制にいたって中世の自由は破壊されることになると述べているが、ここに法律が命令化していくプロセスを見ることができる。そしてハイエクはこのプロセスを、福祉国家のもとにおける法のいわゆる「実質的合理化」(マックス・ウェーバー)と重ねているのだろう。「主権の法=政治学理論」は中世のローマ法の復活を起源にし、君主制および君主の問題をめぐって成立したとするフーコーと重なりながら微妙に離れるという複雑な交錯がここにはあるように思われる。フーコーは次のようにいう。「西洋において法・権利は王の命令の法・権利である」。だがハイエクにとっての問題は命令と従属、法律と自由とがそれぞれ相関していることを示すことである。ハイエクは法律と命令を、おのおの、「特定の行動を導く目的と知識を権威者と行為者のあいだに分割する仕方」によって分類している。命令の理想型は、ただ一つの方法でなすべき行動を決定し、命令される人びとに自分の知識を使ったり、あるいは自分の好みにしたがったりする機会を与えない。こうしてこのような命令にしたがってなされる行動は、それを発した人の目的のみ奉仕する。他方、法律の理想的な型は、行為者の意志決定を、それに際して考慮すべき付加的情報を提供することで、側面から支援するにすぎない。法律は主体の意志決定において、幅広い自由を与え、それを通して統治しようとするのであり、それゆえハイエクにとって「法の支配」はリベラリズムの存立にとって市場と同程度の重要性を与えられている。
 こう見てみるならば、主権―法律というカップリングは、リベラリズムにおいては微妙に緩んでいるともいえるだろう。ハイエクによるヒュームをはじめとするスコットランド啓蒙の法思想の再評価は、フーコーが「宗教戦争の時代に王権を支持する側、王権を限定する側双方に流通した武器」という場合の、「王権を限定する側」の主権論ともやや異なっている。ハイエクハイエクの読むスコットランド啓蒙は、むしろ、法律と命令とを厳密に区分することによって主権という問題設定と法律的なものを引き離す試みであるとも考えうる。ただしリベラリズムは必ずしも、こうしたポリツァイ的な個別的・実質的介入権力を抽象的、一般的な法の支配によって追放あるいは制約しようと試みるばかりではない。最初は過剰な統治性のテストとして用いられたはずの政治経済学は、「その本質においても、美徳という点でもリベラルではなく、やがて反リベラルな態度にまで行き着くようにな」るとフーコーはいう。

「公共の福祉」のなかに「公安」概念をすべりこませることによって

「警察権」は膨張していった

 フーコーは七〇年代に考古学から系譜学へ、権力と知の織りなす装置の編成の分析の法へと足を踏み出し『監獄の誕生』を執筆したが、それはまさにニクソン政権のもとでのバックラッシュ、「法と秩序」の怒号が渦巻く時代、警察力の野放図な動員と強化が許容された時代の雰囲気のなかでのことである。第二章で触れたが、フーコーはのちに、テロリズムとそれがもたらす戒厳令的雰囲気のなかで、「今後はセキュリティが法を凌駕する」と表現している。ここには比較的緩やかな福祉国家における法のノルム(セキュリティの装置の側にある)による「植民地化」と、警察が体現する多かれ少なかれ「暴力的」なノルムによる法の宙吊り状態が同じ地平で捉えられているといっていいだろう。ベヴァリッジカール・シュミットを同じ地平においてみる必要があるのだ。
(略)
[註釈]
日本においてはこの「矛盾」は、憲法学における「公共の福祉」論に明確にあらわれる。樋口陽一の指摘にあるように、ドイツ国法学においては、福祉国家という観念は、反立憲主義・反法治主義の脈絡で意識されてきたが日本ではこの警戒が希薄であり、「福祉」にたいする楽観的見方によって、戦後憲法解釈学においては憲法12条ととくに13条を介して、「公共の福祉」による制約が明示されている項目(22条一項と29条)を超えて人権一般が「公共の福祉」の制約に服するという解釈が通説となったという。さらに樋口は、一九五〇年代から六〇年代における日本の改憲の主張が福祉を名目に掲げていたことに注意を促している。(1)国家権カヘの拘束を核心とする立憲主義の要請を否定――あるいは、少なくとも相対化――するために、国家の福祉機能を対置するという発想、(2)権力への拘束という立憲主義の要請を、「幼稚ナル社会」の、いわば時代おくれのものとして位置づけ、それに対抗する主張のほうを現代的なものとして示す手法がみられた。
 この「公共の福祉」論が問題になるのはもう一つ、警察の文脈である。つまり「警察権の限界」を設定するという困難な問題である。いま触れた憲法論的な問題は、ここにおいては「公安」の名のもとによる基本的人権の侵害の問題としてあらわれてきた。それは戦後一貫して提起されてきた課題であるが、「公共の福祉」のなかに「公安」概念をすべりこませることによって「警察権」は膨張していった。奥平康弘は、「国家的公安が設定されるときには、「公安を害した行為」が取締られるのではなくて、「公安を害する惧れのある行為」が対象である、という。つまり既遂ではなくて、未遂である。かくて、公安概念のアイマイさいに加えて、その惧れという媒介項の介入のために、取締りの対象は人間の行為の外形にとどまらず、行為の原因に及んで、遂には行為にひそむイデオロギーにまでいたらなければやまない。……そして最後に、公安の維持という本来消極的な作用でしかない警察機能が、いつのまにか、新しい公安の創設という積極的な作用へと転化する危険が指摘される」。

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