ジブリの教科書〈1〉風の谷のナウシカ

当惑

 「実際に映画を終えてみたら、あまり入りたくなかった宗教的領域に、自分がどっぷり浸っていることを発見して、『これはヤバイ』と、深刻に追いつめられました。(略)やってみると、わからないことだらけで、結局、終始一貫わからないで書くことになりました。(略)神様を前提にすれば、世界は説明できますよ。でも、僕にはそれはできない。なのに、人間とか、生命とか、踏み込みたくない領域に入ってしまったわけでしょう。(略)破滅的な力を持つ巨神兵から『ママ』と呼び掛けられたりしたら、いったいどうするんだろうと考えるだけで、頭がクラクラするんです。だから、ナウシカ本人の当惑はそのまま僕の当惑なんです」

マンガ版『ナウシカ』第一巻出版

『AKIRA』を連載開始したばかりの大友克洋は雑誌『バラエティ』一九八二年五月号で「とにかく宮崎さんの絵のうまさね、人物の表情、デッサンがうまいという段階ではなくて、絵の見せ方を知っている。今のマンガが失っているマンガ本来の楽しさが、アニメをやっていた人たちの作品から出てくるのは、いったいどうしてなんだろう」などと、コメントしている。(略)
[竹宮恵子は『プチフラワー』の]「五十七年にいちばんおもしろかったマンガは?」というアンケートに『ナウシカ』の名前を挙げ、「同業者としての直感で、『これはなにかちがう世界が始まるんだ』という予感がありました」と語っている。

十分間のパイロットフィルムから映画へ

[マンガの]反響の大きさを受け、尾形英夫アニメージュ』編集長の発案により、十分間のパイロットフィルムを制作、当時『アニメージュ』が武道館で行っていたファンイベント「アニメグランプリ」で上映しようという計画が持ち上がった。
 しかし調査したところ、十分間とはいえ五百万円以上の予算がかかること、また短編とはいえ制作進行から作画、撮影、音響と一通りのスタッフを確保しなくてはならないことがわかり、一度この計画は消えかかる。しかし、今度は[「徳間コミュニケーションズ」を加えてOVAの先駆けのようなアイデアが浮上、時間も70分となり](略)
マンガの前日談として「風使い」として訓練を始めたばかりの幼いナウシカを描くものというアイデアも出た。しかし、この場合も採算が合わず最終的に頓挫した。
 こうした情勢からむしろ映画化のほうが採算がとれるのではないかという考えが浮上。一九八二年十二月には徳間康快社長と宮崎監督の顔合わせがセッティングされる(略)
 この会合の直後、広告代理店、博報堂徳間書店とともに共同製作することが決まり、映画化は本格的に始動しはじめた。なお博報堂が参加することになったきっかけは、徳間書店和田豊宣伝部長が、博報堂徳間書店担当営業部に偶然にも所属していた宮崎の弟、至朗と面識があったという、意外な縁によるものだった。

鈴木敏夫『アニメージュ』をやれと言われ

[尾形がいきなり]「『アニメージュ』をやれ」と言いました。外部のプロダクションと半年かけて準備してきたのにケンカしてしまった、校了まで二週間しかないという。スタッフはいないし、アニメのアの字もわからない(略)
[アニメ好きの女子高生を紹介され話を聞くと、鈴木の子供時代とちがって]
アニメーションを見るのは一部の人だけになっていて、女の子たちの好きなのはキャラクターで、それを描いた人に会いに行ったりしている。
 『平凡』や『明星』のアニメ版を作ればいいんだなと、話を聞くうちに少しずつ見えてきました。普通の雑誌なら、スターにインタビューするところなんてすが、二次元のキャラなのでそれはできない。そこで大ヒットしていた『宇宙戦艦ヤマト』を描いた人のインタビューやキャラ紹介を基本において、あとはどうするか。(略)
女の子たちが『太陽の王子 ホルスの大冒険』を教えてくれたんです。これで八ページ稼げる。(略)
この時に、作った人に一言コメントをもらおうとしたことで、高畑勲宮崎駿と出会うんです。(略)
[高畑に断られ、声優のコメントを載せ]なんとか創刊号は乗り切るんです。でも、二人の存在はずっと気になっていて、池袋の文芸坐で[『ホルス』を観た](略)
僕はアニメ雑誌をやるそもそもの心構えとして「売れるものを作ればいいんだろう」と思っていたんです。ところが、『ホルス』を観て驚いた。北欧神話に装いは変えてはいたが、扱っていた内容がベトナム戦争だったからです。(略)こんなことをやっていたのかと目を見開かされた。
 それで『じゃりン子チエ』を制作中の高畑さんに、取材で会いに行きました。(略)
今はこういうことで悩んでいるといきなり内容の話をされました。忘れられない三時間が過ぎて、最後に、高畑さんに「この話をまとめられるものならまとめてみてください」と言われて、頭にきたのを覚えています。
 片や宮さんのほうは『ルパン三世 カリオストロの城』を制作中でした。あとで宮崎駿はその時の僕を回想して「うさん臭いやつが来たと思った」と言うんですが、会った最初に言われたのが「アニメーション・ブームだからといって商売をする『アニメージュ』には好意を持っていない。そんな雑誌で話したら自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない」。それでまたも頭にきて、腰掛け持ってきて横に座ったんです。それでもしゃべってくれなくて、一心不乱で描き続けている。(略)
 口を利いてくれたのは三日目でした。彼は冒頭のカーチェイスのシーンを描いてたんですけど、「こういう時に専門用語はないんですか」と聞いてきた。僕と一緒に行っていた亀山修という同僚が競輪に詳しくて、“まくり”って言うんですよ」と答えたんです。宮さんがダーッとしゃべりだしたのは、ここからです。
 気がついたら、毎日、二人に会いに行くようになっていました。
(略)
 僕と親しくなったころ、二人のもとには『リトル・ニモ』の企画が持ち込まれていました。
[プロデューサーの藤岡豊アメリカのプロデューサーにした『スター・ウォーズ』のゲーリー・カーツが来日し]
京王プラザの部屋でビデオを片っ端から見て、その結果選ばれたのが高畑さんでした。その時ゲーリーが見たのは『じゃりン子チエ』だったので、みんな意表を衝かれたんですが、彼は「これが一番アメリカ向きだ」と言った。高畑さんの作り方は非常に構造的だから。同時に『カリオストロの城』も見たんですが、そっちのほうが日本的なんです。
 それで二人はロスに行き、現地のスタッフと『リトル・ニモ』の制作に入るのですが[編集権を巡って揉めて帰国]
(略)
 あのころ、宮崎駿は「アニメーションやめて漫画家になろうかな」と言いながら、映画を作れないかとも模索していました。(略)徳間康快が、「企画があるやつは、映画企画委員会に持ってこい」と言っているのを耳にとめていた僕は、宮さんに相談して、「ハヤオ戦記」と「戦国魔城」という二つの企画を持ち込むんです。(略)
[委員の一人の大映プロデューサーに]「原作のないものを映画にできるか」と言われて、素人のこちらは黙るしかなかった。宮さんにそのことを話すと、カチンときたんでしょうね。「じゃあ、原作描いちゃいましょう。ただし映画化を目的に漫画を描くのは不純だから、漫画にしか描けないものを描きたい」と。正論ですよね。(略)
しばらくして呼ばれてそこに行くと、三種類のナウシカの絵があった。一つは描き込まれた今の絵で、一つはシンプルな松本零士タイプ、もう一つはその中間。「松本零士夕イプなら一日二、三十枚描ける。中間タイプは五、六枚。こっちは一日一枚いくかどうか。鈴木さん、好きなやつ選んで」と言われ(略)「アニメーション雑誌でやるんだから普通の漫画やってもしようがない。一番大変なやつをやりましょう」と言ったんです。宮さんは「大変だよ、これ」と言いながら、多少絵が描ける僕にも「手伝え」と言って描き始めるんです。僕もスクリーントーンはったり、ベ夕を塗ったりしましたよ。それが、『アニメージュ』で連載を始めた『風の谷のナウシカ』です。
 通常漫画の単行本は二〇〇ページぐらいなのに、僕はまだ一二○ページしかない連載十回目に、もう単行本にしたくなりました。早く映画が作りたくなったんですね。『ドラえもん』の映画が上映された時、藤子不二雄さんが百何ページかのB5判の原作本を出していたので、この形ならいける、ページを薄くすれば売れるだろうと読んで、いきなり七万部を出したんです。ところが五万しか売れなくて、大失敗です。
(略)
博報堂近藤道生さんが社長に就任してすぐの時に、右翼の大物による博報堂乗っ取り事件が起こるんです。そのとき(略)間に入って話をまとめたのが徳間康快だった。そんな縁もあって、徳間が博報堂といい仕事ができないかと思っていたところにナウシカ登場。(略)
 ここで僕も宮崎至朗さんに出会うんです。[ちなみに宮崎駿が長男を吾朗と命名したのは、至朗の次という意味]
(略)
[『アニメージュ』のおかげで『ヤマト』や『うる星やつら』の予算書を入手できたので、『ナウシカ』の予算はその倍にしたが、結局、三倍かかった]
 僕が宮崎駿に感心したのは、ほんとうによくしゃべる人が作画に入った途端、無駄口を一切きかなくなったことでした。朝の九時から、夜中の三時四時までデスクに向かい、飯も持ってきた弁当を箸で二つに分けて、朝と夜五分ずつで食べる。それ以外はずーっと仕事なんです。音楽も一切聴かない。その姿を見せつけることによってみんなを引っ張っていく。自分にも厳しかったけれど、他人にも厳しかった。すごかったですね。
(略)
不眠不休で働いてきたのに(略)公開期日に間に合わないとなったんです。(略)
[みんなを集め相談することに。高畑は]「間に合わないものは仕方がない」。宮崎さんは「プロデューサーがこう言うんなら、これ以上相談しても仕方がない」と言って、何をやったのかというと絵コンテの内容を変えはじめたんです。実はまぼろしの絵コンテには、巨神兵王蟲の激突シーンもありました。
 一方で、高畑さんも努力してくれました。配給会社の東映と掛け合い、フィルムは出来次第順番に北海道や九州の遠いところから送っていくようにすれば時間が短縮できるんじゃないかとかアイデアを出したり。最後の音入れの作業も、今だったら二ヶ月三ヶ月かけますが、ナウシカの音なんてスタジオに一週間籠もりっぱなしで作ったんです。一週間ほとんど寝ていません、高畑さんも宮さんも。
(略)
[音楽は徳間ジャパンから細野晴臣の名が出たが]
高畑さんが「細野さんも大変な才能の持ち主だけど、ナウシカに合うかといえば違うんじゃないか。この人は夏のけだるさを表現したら得意な人で、情熱的な曲は作らないだろう。宮さんは熱血漢だから、熱い曲を作る人のほうがいい」と。

『ロルフ』の映像化

 〈美女と野獣〉を形にしようと考えた時は、舞台をヨーロッパにする気はありませんでした。キリスト教は僕自身の中にはありませんし、呪いの意味とかもよくわからないわけです。ですから結局、最大のテーマは〈ひたすらな献身〉でした。それは『風の谷のナウシカ』の前に考えていた『ロルフ』の映像化の企画にも共通することです。
 実は『ロルフ』という原作コミックの映像化を思いついたのは、『ルパン三世 カリオストロの城』を終えた後のことで、その頃僕は「悪役というのは一体何だろう」ということを考え続けていました。悪役を退治すればめでたしめでたし的な物語の構造で活劇を作るのは、もう無理な時代に来ているんじゃないかと思っていたんです。やっつけられて当然という気持ちのいい悪役は作りにくい、作れないだろうと……。それは他民族であったり、階級の敵であったりすることが成立する時代だったら楽だったろうと思います。でも今は違います。生理的嫌悪感のある悪役を作ることは簡単ですが、構造的な悪役を作るのは非常に難しいことです。多くの活劇ものを見ると、実にそのへんが安直で、インディアンや幕府の木っ端役人の代わりに宇宙人をもってきたり、せいぜいテロリストか精神病者をもってくるというのが普通です。僕は、そういうもので話を作りたいとは思いませんでした。(略)
[模索している時にリチャード・コーベンの『ロルフ』に出会い、藤岡豊に原作権を取ってほしいと頼んだが、うまくいかず]
その頃、すでにリチャード・コーベンはアダルト向けコミックを描いていまして(略)
僕自身も『ロルフ』に対する関心は薄れていきました。まあ彼にしても、日本の、どこの馬の骨かもわからない人物が「原作をよこせ」と言ってきた時に、「うん」とか簡単には言えなかったとは思いますけれど(笑)。
(略)
話の筋は、飼い犬だった主人公ロルフが、お姫様を助けようとしてデーモンの真似をしているうちに半身半獣になってしまって、デーモンから色々なことを学んで自立してしまうというものです。
(略)
 僕はこのヒロインについて、原作にあるようなただの女性じゃつまらないから、もっと積極的に荷担するお話にできないだろうかと『ロルフ』を膨らませていきました。そうしていじくっているうち、どんどん原作から離れていったんですね。そして、彼女がもう少し強い思想信条の持ち主へと変化していく中で、「一つの城のお姫さま」と「だらしのない父親」という存在が生まれたんです。
 この父親は、少し気のふれた男で、かつては勇名を馳せたのかもしれないけれど、今は寝たきりになっていて何の役にも立たない。そのくせ誇りだけは誰よりも強いという人物です。そんな父親を持つ娘の話に『ロルフ』を仕立て直したら面白い物語になると思いついたんです。そこに、国のわずかな財産を狙って求婚者たちが次々とやって来る。小国とはいえ、一国の運命がかかっているわけです。それをいかにして撃退し、かつ自らの誇りを守るかという副次的なテーマを加えようと思ったんですね。
 でも、そこらへんがもう原作者とは絶対通じ合わない部分でして、そうしたややっこしい話はコーベンとは相容れなかったわけです。残念ながら、その後に彼が描いたものもそういったものではありませんでした。
(略)
[父親に代わって一国の運命を背負うという]責任の重さにひしがれながら生きている主人公というのが、初めて僕の中に生まれたんです。それまで僕は、いかに自由であるかというキャラクターばかり考えていたんですね。
 〈ナウシカ〉という主人公の最大の特徴は、何よりも責任を背負っているということです。

腐海

風の谷のナウシカ』は、コミックの連載をすると言ってしまった後に形になっていったんです。その頃はまだ、荒涼とした砂漠の中にある小国みたいなイメージしかもっていなかったんですが、色々こねくり回したり、いじくり回しているうちに突然、森が出てきちゃうんですね。突然です、本当に。初めは砂漠を描いてたのが、砂漠より森のほうが自分で気持ちがピッタリすることがわかったんです。でも、なぜ〈腐海〉に毒ガスがたちこめている設定にしたのかは、よく覚えていないんです。たぶん毒ガスマスクが描きたかったんじゃないかなって気がするんですけれど……。
 その時点ではまだ〈腐海〉の具体的なイメージはできていませんでした。つじつま合わせというか、どうなっているんだろうと自分でも最後まで困っていたんです。
 実は、この〈腐海〉というのは、実際にそういう土地があるんです。シュワージュという、クリミア半島の付け根にある土地です。それにすごく興味をひかれていたんですね。海が後退して沼沢地帯に広がっていて、アルカリ分が強いのでしょう、一種不毛の地らしい。(略)その一帯がシュワージュ(腐った海)と呼ばれているというのを何かで読んだ時に、すごい言葉だなと思った。だから、森に〈腐海〉という名を付けるのは森を描いちゃってからのことです。〈腐海〉の「海」を、海とするか、世界の界にするか、それについて「亀山さん、どう思う?」って言ったら「そりゃ海のほうがいいですよ」「そうですか」って海に決まったんです(笑)。実にいいかげんなものです。
 この時点で僕が考えていた主人公の名前は、まだ『ロルフ』の原作にあったヤラという名前のままでした。でも、ヤラはあくまでも『ロルフ』の主人公の名ですから、そのまま使うのは嫌だったんですね。同じ頃、エヴスリンの『ギリシア神話小事典』で〈ナウシカ〉という名前を見つけていまして、僕には鮮烈なイメージがありました。いい名前だなと思っていたんです。

悪役たちは、どこかで自分

指輪物語』を読んだ時もそうでしたが、僕はエルフよりもゴブリンの鬼とか、そういう類の者が好きだったんです。
(略)
大体僕は、マイナスイメージの人物たちや、価値観が逆転していくような話が好きなんです。
(略)
 たとえばカリオストロ伯爵という人物は、ヨーロッパのあの時代を考えれば絶対男色だと思うんですよ。ですが、そのことは別に描く必要がないから出していないだけのことです。ヒロインのクラリス貞操の危機とか何とかって、そういう発想で映画は作っていません。この世には、そういうものもあります。確かにありますけれど、同じ次元で作品を作りたくはないんです。それで作ることには、もううんざりしてるんですよ(笑)。
 悪役たちは、どこかで自分なんです。ずっと僕は、そうしたマイナスなものを主人公の側に背負わせたらどうなるんだろうと考えてきました。その憤怒をもっている人物像は、常に自分の中にあるんです。ですが、どういった形で出すかがとても難しかったわけです。それで、映画『もののけ姫』をどうしてもやらなくちゃいけない状況に来ちゃったから、そっちでやろうと考えました。
(略)
 たとえば『土竜クシャナ』というタイトルが付いている絵は、一見〈美女と野獣〉のモチーフに思えるかもしれませんが、まったくの別ものなんです。クシャナというヒロイン像は、もっと破壊的な、憎悪の塊として描いたものなんです。イメージとしては映画『もののけ姫』に近いわけです。
 ある時期、そうしたキャラクターは受けがよくないということがわかりましたので、これまで直情径行な明るいキャラクターで映画を作ってきました。ところが僕はずっと、もっと自意識が強くて、根アカではなく根クラな少年のほうを自分のキャラクターとして持っていたんです。それで映画を作ってこなかっただけの話なんです。でももういいや、根クラでも何でも自分が描きたいものを描こうと……。
 正直言って『もののけ姫』がどういう結果になるのかはわかりません。ですが、これはしょうがないんです、僕自身が根クラですから。
(略)
でも僕は、根クラのほうが実は心は優しいと思っているんですよ。〈ナウシカ〉という少女も根クラの人物ですが、彼女は女性の特質でその暗さをカバーしているんですね。

美術監督 中村光毅

――中村さんがこの作品で一番注意なさったのは、どんな点ですか?
 「宮崎さんがいつもおっしゃってたんですが腐海というまだ誰も見たことのない世界の不思議さを出すということですね。砂漠なんかも出てきますけど、これも普通にあるサハラ砂漠などとは違った感じで見せなくちゃいけないわけで、その点を一番注意しました」
――技法的にも変わった試みができたと思うのですが?
 「そうですね。例えば背景を描いて一度完成させてから、それを水で洗うんです。“洗い描き”といわれる手法で、絵の具が少しにじんで紙もケバだったりしますので、淡い、ややボーッとした感じの効果が出るんです。これは腐海深部の湖に不時着したナウシカたちが王蟲と出会うシーンに使っています。
 あと、幼い頃のナウシカが金色の草原で花をつんでいる幻想シーンでは、トレーシングペーパーの厚手のものにカラーインクで描いたりとか、王蟲や飛行機を一枚一枚、筆を使って影とか厚みをつけながら描いていって、普通のセルに平面的に塗ったのとは違う、かなりの量感を持った絵にするというテクニックも、これだけたくさん使ったのはこの作品が初めてくらいじゃないですか。
(略)
――ご自身ではどんなシーンが気に入っていらっしゃいますか?
 「腐海のシーンはやはりよく出来たと、自負して良いと思ってます。それと、空のシーンですね。青い空にまっ白な雲が浮かんでいるあの風景はいいですよ。こういうと宮崎さんはイヤな顔をするかもしれませんけど、『コナン』と同じように自然を愛する宮崎さんの心がああいうところによく出ていますよね。

原画 小田部羊一

[83年暮、東映同期の忘年会で高畑から“10カットぐらい”と言われ気楽に受けたら]
レイアウトが宮さんで、例によって、コンテで想像していた以上にすさまじいレイアウトをしてるわけ。
(略)
 「A、B、CDEF、Gセルまであるんですよ。普通は、そこまでないんですが、透過光を使うシーンで、王蟲の触毛が動いてナウシカをいやすところなんか、ふんだんに透過光を使って不思議な光の感じを出すために、そうしてたんですね。宮崎さんの頭のなかでは、その光も深みがあって触毛がチラチラと見え隠れするすごいイメージがあったんです。
 宮崎さんの注文は、またむずかしいんです。触毛でできたじゅうたん――ただの大地じゃないところを踏みながら歩いてくる。だから不思議なトランポリンの上を歩いてくるような感じが出せればと言ってましたね。試写を見た時、もう少し動きをたっぷりさせたほうがよかったかなとか、ナウシカの顔をいい顔にさせようとはしたんだけどもっとがんばるべきだったか……と、冷や汗が出ました。
(略)
 宮さんのレイアウトはすばらしくってね。例えば、触毛ひとつでも、線で質感から動きまで見えてくるんです。それを殺さないように原画を描くわけなんだけど、宮さんはそれを越えないと満足しないんですね(笑)」

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