ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ

作品の対象、ロケハン

 作品の対象として小学生を重視しているのは、『ナウシカ』の舞台挨拶に立ったところ、予想以上に小学生が多かったという宮崎監督の経験が(略)アニメーションにとっての本来の観客層を見つめ直したいという思いにつながったようだ。
(略)
一九八五年五月十八日から、宮崎監督は単身イギリスのウェールズヘ二週間のロケハンにも出かけた。このロケハンの成果は、主人公パズーの暮らすスラッグ渓谷の風景などに生かされることになった。(略)
[案内した]ガイドは、ロケハン中の宮崎について「名所旧跡はあまり見ないで、炭鉱や草原とか変わったところを見物したがったなあ。空を見上げて雲ばかり見ているので、『日本に雲はないのか』と聞こうかと思ったんだがやめておいた」と語っていたそうだ。

興行成績、タイアップ

ナウシカ』と比べた場合、徳間書店一社の製作のため宣伝力が落ちてしまったのが、興行成績がダウンした一因と考えられた。
 また『ラピュタ』では、宣伝の一環として初めて本格的なタイアップが行われた。タイアップ相手は味の素。映画公開に合わせて清涼飲料水「天空の城ラピュタ」をリリースしたのだ。しかし、結果的にこのタイアップはそれほどの効果を生み出すことができなかった。また、この時のタイアップは、使用料をもらってキャラクターを渡す方法をとっていた。そのため、絵の使用などについて逆にジブリサイドから強い意見を出せなかったという反省も残った。この反省が後の「キャラクターは無料で渡すが、その使い方についてはジブリ側がはっきりと主張する」という、ジブリ流のタイアップ手法へとつながっていくことになる。

鈴木敏夫

[初演出の『コナン』]水中キスなんて恥ずかしいシーンを描いたのが、八話だったかな。そこまできた時、彼は「どうしよう?終わっちゃった」と言ったらしい。(略)
プロデューサーの中島順三さんが高畑さんに相談して、九話、十話を高畑さんが演出した。高畑さんは丁寧な人だから一話から順番に全部見直して、「なぜこんなことが起きたのか」と宮さんに矢継ぎ早に質問したそうです。宮さんは「あれは嫌だったんですよね」と後で言ってましたけど、そこで高畑さんが新たに問題設定し直して、宮さんは十一話以降を作ることができた。これは公然の秘密です。
 番組が完結した時、とにかく一人の作家として二十六本作ったから、誰もが「宮崎駿は今後監督としてやっていく」と思っていました。ところが、高畑さんが名作シリーズの第三弾で『赤毛のアン』をやると聞いた宮さんは「俺、手伝うよ」と言って、高畑さんをびっくりさせた。一人立ちした演出家なのにまたもう一度スタッフに戻ろうとする。ここらへんに宮崎駿らしさがあるんです。人間だから自己顕示欲はあるけれど、“自己滅却欲”もある。みんなを率いてやっている時は楽しいけれど、終わってみると戦いすんで日が暮れる。淋しいものが残り、もう一度みんなと作る楽しさを求めるんです。
 そうして宮崎駿は『赤毛のアン』にスタッフで参加するのですけれど、もともと人の作ったものに対して素直に「うん」とは言わない人な上に、何しろ一度監督をやっているから、言いたいことが出てきてしまって、しち面倒くさい。矛盾の固まりですね。結局、途中で降りざるを得なくなる。会社も宮さんの扱いに困り、『カリオストロの城』を任せるのですが、監督をやったりスタッフをやったり、この揺れ動きが激しいのが宮崎駿です。
(略)
じつは『ナウシカ』を作る時、僕は宮崎駿という監督に(略)利益配分があるように契約書を作っておいた。(略)
その結果、今まで地道にやったきた宮さんはこれまで見たこともないような金額を手にして(略)
高畑さんのドキュメンタリーにお金を注ぎ込むことになるんです。(略)
ところが、間もなくお金が足りなくなってしまい、宮さんが僕のところに相談にきました。
 「時間もお金も費やしたけどまだできない。僕の家はボロ家だけれど、家を抵当に入れてまで映画を作ろうとは思わない。鈴木さん、何か知恵はないものだろうか」
 僕は即答しました。
 「大変だけどもう一本映画を作りませんか。そうすりゃ、なんとかなりますから」
 となると、決断が早いのが宮さんの特徴。その場でわずか五分で、『天空の城ラピュタ』の内容を全部喋ったんです。パズー、シータ、ムスカ、『ガリヴァー旅行記』、飛行石をめぐる謎……タイトルだけが『少年パズー飛行石の謎』と違っていましたが、「鈴木さん、これならなんとかなるよ」と言うんです。僕は、びっくりして「ずっと考えてたんですか?」と聞くと、「うううん、小学校の時に考えた。数学でシータって習ったでしょう。あれ見た時に、名前はシータにしようとかいろいろ考えたから、今スラスラ出てくるんだよ」って。
(略)
東京に戻ってきた高畑さんと深夜、石神井公園を歩きながら交わした言葉は忘れられません。
「『ラピュタ』のプロデューサーやってください。僕も高畑さんについて『ナウシカ』でプロデューサーとは何かってことを多少勉強したので、実質は僕がやります。高畑さんは『柳川物語』に専念してもらっていいです。何か問題が起きたら相談に行きます。『ラピュタ』を作ることで、『柳川』の足りない制作費もなんとかなると思うんです」
 「ああ、すみません。このあたりには立派な家がいろいろありますね。僕がこの映画を作らなきゃ、宮さんだってこういう立派な家に住めたのに」
 よく言うよと思いましたが(笑)、こうして始まったのが『ラピュタ』です。
(略)
余談ですが、最初は、コナンが銛を持っていたように、パズーもずっとトランペットを持ちながら冒険をしていく設定になっていました。ところが途中からトランペットがなくなるでしょ?「あれ、トランペットは?」と聞くと、宮崎さんは「あれ面倒くさいんだ」(笑)。
(略)
[シナリオを読んだ]僕と高畑さんの意見は同じでした。(略)「話の構造がムスカの野望と挫折になっているよね。これでいいのかな?」ということ。パズーをもっと主人公らしくしたほうがいいと考えました。パズーの年齢をもう少し上にすればキャラクターに陰影が出て、ムスカの野望と挫折は少し後ろに引っ込むんじゃないか、と。そしてそのことを、宮さんに言いに行きました。僕一人でした。そうしたら宮崎さんが怒ったんです。
 「小学生に見せる映画だ。年齢を上げたら元も子もない!」(略)
[ただ]指摘した時、宮さんはちょっと困った顔をした。宮崎駿ムスカが好きなんです。『コナン』で言うと、レプカ。ああいう人に思い入れがあって、自己投影しているんですね。ドーラは、『ラピュタ』の制作中に亡くなった宮崎さんのお母さんですし。でも、キャラクターに自己や母親を投影してるなんて、本人にしたら恥ずかしいことで、人には言われたくなかったんでしょう。僕がシナリオに注文をつけた時に宮さんがムキになった本当の理由は、そこにあると思う。シナリオから絵コンテをおこしていく過程で、宮崎駿の中にはパズーとシータをもう少し前に出そうという意識が働いたのではという気がしました。

宮崎駿:飛行石のモチーフ、時代を超える通俗文化

――飛行石のモチーフというのは?
『冒険王』という昔の雑誌に、どぎつい四色刷りで、福島鉄次という人が描いた『沙漠の魔王』という絵物語が載っていたんです。ある王様が、あまりに悪逆を働いたために、魔力によって香炉に封じ込められてしまう。それが、ある香木を焚くと魔王が復活し、その香木を焚いた人間の命令に従うという、わけのわかんない(笑)話なんですが、戦車だの、乗り物だの、そこに描かれた絵がおもしろくて、小学校の四年から五年までの二年間、僕はそれをドキドキしながら読んでたんです。ためつすがめつね。じつは、何を隠そう、そこに石を持つと飛べるという話が出てくるんです。ひとつの宝石で、それを持っていると飛べるんです。だから、あんまりオリジナルを主張はできないんですよ(笑)。けど、福島鉄次が飛行石を考えだしたのかといえば、それはちがいます。魔法のじゅうたん、羽のはえた靴と、昔からその種のものはいくつでもあるわけです。
 つまり、通俗文化はほとんどがアレンジにアレンジを重ねていくのが特徴であって、新しいものを提示することに意味があるわけではないと思うんです。むしろ、子どもの時に自分がワクワクしたものが、なぜいまないんだろう、昔ワクワクしたものを、いまそのまま持ってきてもダメだけど、いまのことばでそれをしゃべればいいんじゃないかと思うわけです。
 プロントザウルスが出てくると「ワッ、怪獣だ、やっつけろ」とやっつけてみんなが納得した時代から「ネッシーだから、かくまってやろう」に変わる。これが時代の変化なんです。その中で、じつにみっともなく意地汚なく、時代とともに中身が変わっていくのが通俗文化なんですよね。
(略)
 けど、時代と密接にくっついてはいるけれど、それだけじゃないと、僕は思いたいわけです。つまり、通俗文化は時代とともに歪曲されていく部分と、時代を超えていく部分とかがある。で、僕らが何を受け継ぐかといえば、時代を超えていくものを受け継ぎたいと思うわけです。いまの時代をどうみるかという視線をキチンとふまえたうえで、変わらないものをいまの子どもたちに見せていく。それが、僕達の仕事ではないかと思います。

ロケハン

[鈴木談:高畑が『柳川』の撮影で行けなくなり、一人じゃ嫌だとゴネる宮崎を鈴木と高畑が成田まで送って行った]
プロデューサーの高畑さんが『産業革命の頃を背景にするのならイギリスへ行かなくてはいかんのではないか』といってくれましてね。サセックスというロンドンの南側にある海岸のリンゴの花とウェールズの炭鉱を見に行こうってわめいて行くことにしたんです(略)
露天掘りで掘ってあるのかはわかりませんが、そんな穴がたくさんあいている谷というのを出したら面白いんじゃないかと思ったんです。(略)
[ウェールズの炭鉱を見学]
地下に馬小屋があったりして、馬を使ってたのかぁと感心しました。縦の移動はエレベーターでしたが、かなり遅くまで横移動は馬を使っていたようですね。(略)
旅行の前の年に炭鉱夫の大ストライキがあって敗れたんですね、これが。で、炭鉱住宅が空家だらけになって(略)
判で押したような小さな家で道の両側にダァーッと並んでる。
 労働者っていうのはまだいるんだなぁという感じでした。(略)
引き上げていく労働者たちを写真で見たんですが、敗れても団結を崩さないのが伝わってくる

ラピュタ・アフレコ 3日間密着ルポ

宮崎さんがいう。「あの、パズーはね、鉱山の少年なんだけど、やっぱりインテリジェンスがあってほしいんです」
(略)
高畑さんが加わり、
「もうすこし優しい子にしてもらったほうがいいですね。声の音程をすこし下げて、ソフトな声のほうがいいと思うんですけどね」
(略)
「いまの感じがいいから、それをもうすこし自然にして。男の子であるという気持ちは持ってていいから、それを胸のあたりまでにとどめておいて、出すというのかな」
(略)
「やるぞ、きっとラピュタをみつけてやる!」
の“やるぞ”がベランメエ口調になる。
「品があったほうがいいんです」と宮崎さん。
(略)
 レコーディング・ルームのなかは、声優さんどうしの挨拶や近況報告の声でざわついている。そのなかで、ひとり黒メガネをかけた寺田農さんが静かに座っている。
(略)
[ドーラのモデルは?という流れから]
実在のモデルといえば、
「イイ……」
という名セリフを残した三兄弟のルイ。
「あれはね、金田(伊功)さんなんですよ。クックックッ」
宮崎さんがこっそり教えてくれた。
(略)
宮崎さんがときどきティッシュペーパーを丸めたり、ゴミを丸めたりして、スタジオの隅のゴミ箱に投げ入れようとする。
 「入ったら、この映画はあたる!入らなかったら、あたらない。そう思って投げるんですよ」
 という。見ていた限りでは、入らなかったたゴミの数の方が多かった。天才の胸にも、不安の影のさすことがあるのだろうか。
(略)
 午後五時ごろ、ムスカの出番は終わる。帰る前に寺田さんにインタビューをした。(略)
 「やっぱり、自分で作る役ではなくて、絵にあわせるというのがむずかしいですね。それと、映画のテンポが速いので、とまどってしまいました。もうすこし、ゆったり芝居が出来るところがあると、やりやすいのかもしれませんね。
 どうしても、合わせるという感覚で芝居をしてしまうから、僕のほうに、ここは僕だったらこうは演じないなという気持ちがあると、その迷いみたいなものが、声に出てしまっているかなとも思いました。とにかく、むずかしいもんだなあ、というのが正直な感想ですね」
(略)
 とりあえず、アフレコのほうはラストシーンまで、ほぼ録り終わっている。ここで夕食となり、あとはポムじいさんの常田富士男さんを待つばかりとなった。
(略)
 七時すぎに常田さんが到着する。あのヌーボーとした感じのまま、スタジオのドアから入ってくる。(略)
 「どーも、遅く、なりましてえ」
 なんとなく、最後にふさわしいような感じがするのが、おかしい。
 ポムじいさんの第一声、
 「小鬼だ……小鬼がおる」
 にも感じが出ているのに驚く。テストを二回しただけで、すぐ本番となる。
 ところが、常田さん、どうしても“ラピュタ人”というセリフが“ラピューター人”とのびてしまうのだ。そのセリフの感じは常田さんにぴったりなものなのだが、やはり作品には作品の統一感というものもあるので、残念ながら、何度か録り直しをした。
 それにしても、淡々とした常田さんの語り口調。たった三人になってしまったスタジオ内部の様子といい、不思議に、
 「ああ、これでようやく終わるんだなあ」
 という実感がわいてくる。
 登場してから四十分ほどで録り終えてしまい、常田さんは再びひょうひょうと去っていく。それなのに、たしかな存在感があるから、まったく不思議な人物である。

家族の風景――兄・宮崎駿 宮崎至朗

[駿は]男ばかりの四人兄弟の次男坊。そして私は末っ子の四男坊。(略)
われら兄弟に多大な影響を与えた人間が三人いる。一番目は母親。二番目は父親。そして三番目が長男である。(略)
[母親は]女海賊ドーラを連想してくれるといい。病気がちだったので、あの肉体的活発さはなかったし、もう少し美人だったと信じたいが、精神的迫力はまさにドーラに通ずるものがあった。(略)
[脊椎カリエスによる]長い長い闘病生活が続くわけだが、その間、体はギブスで固定され、春も夏も秋も冬も、首と手しか動かせないというつらい九年間である。
 この九年間は、兄・駿にとっては六歳から十五歳までに相当し、私にとっては二歳から十歳に当たる。いずれにせよ男四人兄弟にとって、思春期・成長期の大きな部分において、実質的に母親を欠いていたのである。
(略)
 わが家ではなんと、小学校から中学・高校と全員が同じ学校に通っている。(略)
 長男は、われら弟に絶大なる力を持っていた。なにしろケンカがめっぽう強かった。小学校でも中学でも高校でも、いわゆる「番長」だった。スポーツ万能で勉強もでき、リーダーシップとエネルギーにみちあふれていた。そんな長男が作り上げた道の上を、次男の駿兄貴はトコトコ歩いていった。
 駿兄貴は、どちらかといえば内向的、ひ弱な感じ、スポーツはニガ手で、好きなのは本を読むこと、絵をかくこと。いまの世なら、いかにもいじめの対象になりそうな子供である。しかし、だれ一人としてそんな気を起こすものはいなかった。なにしろ、長男の圧倒的な力の庇護下にあったのである。中学でも、高校でも、そうだった。性格は百八十度全く異なっていたが、二人とも頭はよかったらしい。勉強さえまともにすれば、東大確実ともいわれたらしい。しかし、残念(?)なことに、長男はケンカとスポーツに明け暮れ、次男は本ばかり読んでは物思いにふけっていた。
 やがて長男は、およそ似つかわしくない学習院大学に入学してラグビー三昧の日々を送り、駿兄貴もマネ(?)をして学習院に入った。まさにマネをしたとしか思えない。
(略)
[高校の頃は]退職した中学時代の先生について、いわゆるまともな絵の勉強も一方でしていた。特にデッサンやクロッキーを徹底的にやっていたようだ。本人は美術系の大学へ進みたかったらしい。しかし父親に反対され[学習院へ](略)
彼にとっては、もうどの大学でもよかったのかもしれない。四年間、じっくり絵の勉強をしてみようと決意していたのだと思う。
 昭和三十四年に大学に入ってからは、特にシステマチックに絵の勉強をしていた。デッサン、クロッキーをするかたわら、ヒマさえあれば武蔵野市にある井の頭公園の動物園に行っては動物を観察し、スケッチしていた。動物を描くには骨格を知らねばならないと、ダ・ビンチばりに、動物の骨格図や筋肉図をよく描いていた。
(略)
 彼は決して一部の人々が想像しているような、頭でっかちで屁理屈屋の暗い青年ではなかった。明るく、マメで、集中力があった。正義感が強く、妥協することがニガ手で、ひとつのことをとことん考えるタチだった。
(略)
 わが家のケンカは凄まじかった。取っ組み合いは日常茶飯事、障子や襖はしょっちゅう破れていたし、日本刀を引き抜いて庭に飛び出したこともあった。母親が病床にいた九年間は特に凄みがあった。母親の目が届かなかったからだと思う。そのぶん逆に、母親の前ではケンカしなかった。
(略)
 話はとんで、再び食べ物について書いてみようと思う。(略)
宮崎駿には、私の知るかぎり大好物が三つある。「トンカツ」「くさや」「牛肉の佃煮」である。
 まずはトンカツについて。(略)駿兄貴は小学五、六年のころだと思う。(略)母親が寝たっきりだったから、トンカツといえば肉屋で揚げてもらうもので、一枚三十円というのが決まりだった。(略)
駿兄貴はトンカツの中でも特にアブラ身が大好きで、自分だけ特注のアブラ身百%トンカツを揚げてもらっていた。それをウスターソースの海に浮かべてうまそうに食べていたが、親兄弟からは気味悪がられた。
(略)
[数年前、駿と二人で旅行]
二人きりでジックリいろんな話をしたのは、この時がはじめてだった。その時私が、自分の七つの娘が草や花が好きになるよういろんな絵や写真を見せるのだが、あんまり興味を示さず困っている、というようなことを話した。すると彼は、そういう押しつけの形では子供は興味を持たないものだ、子供に教える前に、自分で花や草の絵を描いて見てはどうか、そうすれば子供のほうが自然に強い関心を示すにちがいない、といった。そして彼の奥さんは、近所を散歩するとよく道端の野草を摘んで来てはスケッチをし、その名前を図鑑で調べたりしていたのがもう百枚以上になっている、などともいった。(略)
[帰って実行してみると]全く、兄貴のいったとおりだった。あの時の彼の言葉に、彼の子供に対する考え方がとてもよく表れていたと思う。
(略)
[ナウシカの製作に博報堂サイドで参加]
阿佐ヶ谷で開いた総決起パーティのわずか三日前、母親は、自分の息子たちが同じ仕事に取り組むことになったことも知らないまま、世を去った。最後まで病気と闘い続けた七十一年の生涯だった。そして翌年、ナウシカはヒットした。あと一年長生きしてくれていたらと、心から残念に思う。
(略)
[昨年の「となりのトトロ」]
私はといえば、映画の中のあのオンボロの洋館風の家の、今にも朽ち落ちそうな白いテラスに三十五年前の永福町の家を思い出し、七国山の病院で療養しているやさしい着物姿の母親を見て、昔日の自分の病身の母親を思い出していた。もちろん駿兄貴が描きたかったのはそんな郷愁ではなく、むしろ彼は、そう受けとられることをおそれていたが。(略)

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