もう一つの「バルス」  宮崎駿と『天空の城ラピュタ』の時代

白髪

この頃の宮崎さんの口癖は、
「木原君、この作品は失敗できないんですよ」
だった。
(略)
当時はまだ45歳。
 黒々とした髪が、『ラピュタ』の制作が追い込みになるにつれて、頭頂部からどんどん白くなっていき、完成した時には白髪になっていた。
 驚異的集中力、としか言葉が見つからない。(略)
 鬼気迫る姿とはこのことだ。 

お地蔵さんみたいな人

仕事を一緒にし始めて、僕が宮崎さんに抱いた印象は、
“お地蔵さんみたいな人”
 である。
 宮崎さんの毎日は、判で押したように決まっていた。
 朝10時に自分の椅子に座ると、深夜1時か2時近くまで、そのままずっと絵コンテを描いている(のちに打ち合わせはもちろん、絵コンテに作画打ち合わせ、レイアウトチェック、原画チェック、背景チェックなども同時進行で作業)。それだけの1日だった。
 席を立つのはトイレに行く時と、お茶を汲むときだけ。
 休憩と呼べるのはお昼ご飯と、夕方に晩ご飯を食べに外へ出るくらい。
 お昼ご飯はお弁当で、必ずその日の朝刊で包んできて、それを読みながら食べるのが常だった。
 昼食後は必ず準備室に置いてある折り畳み式のパイプベッドで30分ほど仮眠をとる。
 寝る前に必ず、
 「30分経ったら起こしてください」
 と一声かけるのだが、僕が起こしたことは1度しかなかった。
 宮崎さんはいつそばを通っても、自分の机で背中を丸めて鉛筆を走らせている。その後ろ姿が、僕にはまるでお地蔵さんのように見えた。
 ほかのスタッフは座り心地のいいキャスター付きの椅子に座っているのに、なぜだか宮崎さんだけは、折り畳み式のパイプ椅子だ。その上で胡坐をかいたまま絵コンテなどを描くのである。
 「僕はパイプ椅子が一番なんです」
 とは本人の弁だ。
 そこに朝から晩まで座りっぱなしだったから、『ラピュタ』を制作し終えた頃には、宮崎さんのパイプ椅子の座るところが、V字にへこんでいたのだから凄い。

ムスカ

初期のキャラクターボードのムスカ(ルスカ)は、エラがはった四角い顔で、実際の映画で見るよりも高年齢に見える人物として描かれている。(略)
 さらに服装は、将軍と同じ軍服であった。
 やがて軍服はダブルのスーツ姿になり、眼鏡をかけ、顔は四角いままでやや面長になる。しかし、まだ本編で観るほど高身長ではなかった。
 ただこの段階で、「ルスカ」という名前から「ムスカ」に変更される。
 そして,さらに身長を高くしてスマートにし、顔ももう少々面長に変更、知的な雰囲気も強くされて決定稿となった。
 『ラピュタ』に登場するキャラクターの中で、宮崎さんがこんなに何度も描き直したのはムスカだけだ。
 通常、メインのキャラクター表は、作画監督丹内司さんが、宮崎さんの描いたキャラクターボードから描き起こしていたが、ムスカだけは、最終的に宮崎さん自身がキャラクターのラフ画を描き下ろして、それを丹内さんが線を整理した形で決定稿に至る。
 経緯から考えて、それだけ宮崎さんの、ムスカに対する思い入れは深かったのだろう。
(略)
[ルトガー・ハウアーの吹き替えを寺田農がやっている『ブレードランナー』]を長めの夕食時間と称してスタッフみんなで観ていた。そこへ宮崎さんがやって来た。
「いつまでテレビを観ている気なんですか!」と苦笑しながら怒りに……(10人以上もいたのでそんなに本気で怒らない)。(略)
役柄もムスカのイメージに重なるよねと話していたので、ここぞとばかりに観ていたスタッフみんなで、
ムスカの声は寺田さんがいいんじゃないですか」
と宮崎さんにプッシュしたのだ。

「原画頭」金田伊功

 数多ある日本のアニメーション作品の中で、この「原画頭」という名称は、後にも先にも金田さんだけではないだろうか。(略)
 『ナウシカ』の物語前半、風の谷に落下するペジテの飛行艇のシーン、そして中盤の、アスベルがナウシカたちの乗るトルメキアの編隊を襲撃する緊迫感とスピード感溢れるシーンを担当している。
 その金田さんに対する宮崎さんの信頼は、絶対と言っていいものだった。
 宮崎さんは普段からよく、
 「アニメーションは、タイミングがすべて」
 と口にしていた,
 その“タイミング”を言語化して伝えるのは難しいが、とにかく、
 「金田さんのタイミングは天才だね」
 と宮崎さんは何度も絶賛した。
 金田さんの動きに対する感覚は絶妙で、生理的快感を感じるほどのセンスの持ち主としか書けない。
 そんな金田さんを『ラピュタ』のスタッフに迎えるにあたり、宮崎さんは若い原画マンたちの手本になってほしいと願ったのだろう。最初から「原画頭」という、今までに聞いたことのないポストを用意して、スタジオに入ってもらったのだった。
 金田さんの机は、宮崎さんの真後ろに座る作画監督丹内司さんの隣に用意されていた。それだけで、どれほど宮崎さんの信頼が厚かったかがよく分かる。
 『ラピュタ』のメインと呼ぶべき設定は、ほぼすべて宮崎さんが基本を描いて作画監督の丹内さんがクリーンナップするという形が取られたが、フラップターのデザインだけは、宮崎さんのイメージボードを基に金田さんが幾つものラフを描き上げ、さらに金田さんがクリーンナップして仕上げた。
 世界観の何もかもを自分自身のイメージで作り上げる宮崎さんが、物語の重要な役割を果たすフラップターの設定を金田さんにゆだねて手を加えなかったのだから、金田さんは宮崎さんの右腕とも呼ぶべき存在だったと言っていいだろう。
 そんな金田さんのことを、僕たち若手のスタッフも“頭”と呼んでいた。

セル画通販

[原徹の顔が日々曇っていく]
 ジブリは独立採算制だから、映画の制作が決定されて、その予算が出ないことには、どうしても維持が難しい……ということだった。
 そもそも映画の企画が決まったところで予算がすぐに下りるわけではない。ところがその企画すらまだハッキリしていないのだからどれだけ待てばいいのか、その目処すら立たないのだから代表の責任を負う者として顔が曇っていくのも当然だ。(略)
[そんなある日、「アニメージュ」のセル売買の広告を]
原さんに見せて、ジブリでこのセル画の通販をやりましょう!と持ちかけた。(略)
 幸いなことに、廃棄作業は初期段階でそのほとんどがまだ残っていた。
アニメージュ」の広告料は親会社の雑誌なのだからタダだし、ゴミの量だって減らせる。なによりスタジオ維持費が捻出来るのだから、良いことずくめだ。
「こんなものが、ホンマに売れるんか?」
 原さんにはちょっと信じ難い話に思えたようだった(略)が、最終的に、僕のアイディアにゴーサインを出してくれた。
 これが有り難いことにジブリに残っていた『ラピュタ』の原画マンの篠原征子さんが、面白そうな仕事ねと手伝って下さったので、二人でせっせと『ラピュタ』のセルを通販で売り出す用意を整えた。
 この通販は大成功した。おそらく1000万円くらいにはなったはずだ。この臨時収入がいつスタートするかわからない間のスタジオ維持費に大きく貢献したことは間違いないはずだが、僕にとっては原さんに笑顔が戻ったのが何より嬉しかった。

婦人団体による親子鑑賞会

動員数が77万4271人の『ラピュタ』は決して成功とは言えないが、かといって失敗とも言えない微妙な数字であったように思う。(略)
本公開後の『ラピュタ』のフィルムはどうなったのか?もここに記録として残しておきたい。
 それは現在に至るまでほぼ知られないままの上映があったからだ。
 実は劇場公開のわずか2ヵ月後の1986年10月頃から、東京の各所で婦人団体などが主催して、親子で『ラピュタ』の鑑賞会が行われていたのだ。
 公開終了直後ともいえる時期からの35mフィルムによるリバイバルともいえない上映は比較的に珍しい事例であったように思う。
 大ヒットしたわけではなかったのだから、本当に、“子供たちに観せたい映画”という評価が高かったのではないだろうか?
 もちろん、フィルムレンタル事業部の営業による活躍も大きかったであろう。
 とはいえ、後年の“スタジオジブリ作品”という名のブランド化ともいえる認知の成立は、ここからその小さな第一歩を踏み出したのだ。
(略)
[4ヶ月間、都内9団体75回上映、料金は大人でも平均600円という安さ]