議院内閣制―変貌する英国モデル 高安健将

第二章あたりまでをチラ見。

首相の誕生

[名誉革命]
議会は、君主制を維持しながら、これを空洞化させ、権力の実質を奪取する大きな一歩を踏み出したのである。
 とはいえ、政府自体は依然として国王の従者であった。大臣が大臣であるためには、国王の信任をこそ必要としていた。(略)
[だが、1742年議会の信任を失ったとウォルポールが第一大蔵卿を辞任]
これは後に、議会の信任こそ首相が首相たりうる不可欠の前提条件であることを示す事件として記憶されることになった。
 もっとも、「首相」という言葉が使われだした頃、この言葉は、強大になり過ぎた首席の大臣を批判するために用いられていた。ウォルポールの時代に首相という公式の役職は存在せず、ウォルポールも、自身が「首相」であることを強く否定していた。首相という名称が使われる以前には、第一大蔵卿が首席の大臣の職名であった。そしてウォルポール離任後数十年にわたり、第一大蔵卿は確かにいた一方で、誰が首相なのか自明でない時代が続いた。(略)
『ザ・タイムズ』紙は1805年には「首相」という言葉を、批判的表現としてではなく、政府の役職として使い始めている。議会の討論で「首相」という言葉が同様の意味で使われ始めるのも同じ頃だという。
 第一大蔵卿や首相という役職が重要になった背景には、君主が政治運営に議会の承認を必要とするようになり、議会の支持を調達できる人物を必要としたという事情がある。それゆえ、歴史的には、議会のなかで相対的に強い立場にある人物が首相の地位に就いてきたともいえる。

エリートが取り仕切るシステム

 古典的な議院内閣制理解となったバジョットの議論が内包したのは、政治エリートに対する期待と、労働者階級という当時の一般の人びとに対する強烈な不信感であった。(略)労働者階級の政治へのアクセスを制限する一方、政治エリートを信頼して彼らに権力を委ねようとするエリート支配を含意していた。
 議院内閣制は元来、デモクラシーよりも自由主義との親和性が高い。人びとが自らを治める、というデモクラシー的発想よりも、権力の担い手(君主や政府)から人びとの生命、自由、財産を議会が防波堤となって守る自由主義的発想をその本旨としてきたシステムである。議会の多数派が政府を手中に収め、「人びとが自らを治める」世の中になった段階でも、その「人びと」の範囲は制限され、権利を「擁護されるに値する」人びとに限られていた。そうした議院内閣制に対し、19世紀以降デモクラシーの波が押し寄せた結果、議院内閣制は、全ての個人の生命、自由、財産を擁護し、さらには全ての個人の生活を守るシステムへと換骨奪胎して生まれ変わった。

中心は議会か、内閣か、首相か

 英国において、政府とはもともとは王権そのものであった。しかし、議会の力が強まると、議会は王権の代理人であった政府を事実上乗っ取ることに成功する。英国の19世紀は、議院内閣制の、あるいは「議会政治」の黄金時代とみなされてきた。それは重要課題を議会で議論し決定に至ることができた時代とみなされたからであろう。
(略)
既述のように、官僚制改革を提起したノースコートトレヴェリアン報告が提出されたのは1854年である。これ以降、英国の官僚制は、情実任用から資格任用へと転換し、効率性と中立性を重視する方向に展開し、政治家と機能分岐をしてゆく。これにより、大臣とこれを支える官僚制という役割分業が始まることになる。議院内閣制の特徴としてしばしば言及される、有権者→議会→首相・内閣→大臣→官僚制という一元的な委任関係がはっきりと姿を現したのである。こうして、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、政府を率いる内閣が政策運営の中心となる「内閣政治」の時代を迎える。
 1960年代になると、首相こそが政治の中心であるとの議論が登場する。「首相主導型政治」論である。

『大臣は多過ぎる?』

 閣僚以外の大臣は94名いる。閣僚以外の大臣として、各府省に副大臣政務官がおり、それ以外にも両院の院内幹事長以下の幹事が含まれる。このほかにも、政府のメンバーとみなされる一方で大臣の数には含まれない院内幹事がおり、さらに大臣に仕える議会秘書議員という無給の立場もある。議会秘書議員は大臣ではなく、政府の正式な役職でもない。大臣の近くにあって相談相手となり、党内の雰囲気に気を配ってこれを大臣に伝えるとともに、大臣の立場や考えを党内に伝える役割を担う。
 このように、英国の政府に入る政治家の多さは顕著である。議院内閣制の特徴を議会と政府の融合と表現するならば、政府に入る政治家はその融合のひとつの表れである。
(略)
 政府に入る大臣の多さは、政治家がチームとなって各府省に入ることを意味する。これにより、大臣が分担して官僚機構を指揮監督でき、大臣による政治主導も容易になる。省内の会議でも、大臣の数が多ければ、数で勝る官僚に対して、政治的インプットを適切に行い、大臣の立場も打ち出しやすくなる。政治主導にとって、「数」は有用である。
 反面、大臣の多さには批判もある。庶民院行政特別委員会は、2010年に『大臣は多過ぎる?』、2011年には『より小さな政府――大臣たちは何をしているのか?』というタイトルの報告書を立て続けに公表した。同委員会によれば、大臣ポストが必要以上に多いため、大臣たちは、成果を出そうと、やることを探し、過剰に積極的な政策運営や不必要な試みを行い、場合によってはそれが有害とさえなる。政府に入る議員が多過ぎるために、議会に残って活躍する議員も減り、政府に対する議会の監視及び抑制機能も侵害される。こうした強い批判が議会からは出ている。

首相主導型政治論争

合議=集合的決定を政府の中枢に埋め込んだ議院内閣制は、首相の独走を許さない仕掛けになっている。合議によって首相や閣僚の暴走を防ぎ、目配りの行き届いた政策運営を行うというのが議院内閣制の目指すところである。少なくともそれが英国政治の建前なのである。
 このような合議=集合的決定の建前に対して、1960年代には大論争が起きていた。首相の地位をめぐる論争である。1960年代に提起された「首相主導型政治論」は、学問以上に現実政治の問題として大論争のもととなった。
 この論争は、英国の政治がそれまでの合議制と集合的決定を是とする「内閣政治」から実態を変え、首相に権力を集中させる「首相主導型政治」へと変質したのではないか、という問題をめぐって争われた。(略)
官僚支配を「デフォルト(原型)」とする日本政治理解とは違い、英国では、首相や内閣こそが政府の中心であるとの見方を前提とする論争である。
(略)
政府の方向性を設定するのは内閣であり、政策領域ごとの中心主体は各閣僚である。つまり、内閣政治論の考え方に基づけば、首相はあくまで受け身の「議長役」なのである。
 これに対し、首相は、閣僚を含めた大臣たちを部下のように扱い、自らの方針を政府内に貫徹させる独任制下の大統領のような指導者になっているのではないか、という議論が提起された。(略)
「首相主導型政治」や「選挙で選ばれた君主」といった表現は、強い批判を含意していた。(略)
「選挙独裁」や、絶対王政を連想させる「絶対首相制」、あるいは「英国型大統領制」といった言葉も用いられ、多くの場合、その集権性を問題視した。(略)
 議院内閣制下の首相については、「同輩中の第一人者(primus inter pares)」という表現がしばしば使われてきた。その趣旨は、首相が他の閣僚とはあくまで「同輩」であり水平的関係にある一方、確かに「第一人者」という特別な存在ではあるということである。

規制緩和と規制国家

 サッチャー政権の推進した新自由主義改革は、本来的には競争原理により、さまざまな財やサービスに関する供給の責任を供給主体に委ねるはずであった。国家に寄りかかり、誰に対しても応答性をもたない無責任な企業や団体、政策担当者は一掃されるはずであった。市場メカニズムこそが供給主体に責任と緊張感をもたらし、人びとには選択の自由をもたらすはずであった。
 だが、新規参入を認めた市場も、競争原理に基づいて自律的に機能することに成功したわけではなかった。規制緩和が実践された1980年代後半以降、地下鉄駅火災、北海油田爆発事故、列車衝突事故が立て続けに起きた。これらの事故については、安全設備の軽視や過少投資が重要な背景として指摘されている。
 他にも、企業による損失補填と証券詐欺、銀行のマネーロングリングや麻薬取引、武器密輸への関与、経営者による年金基金の流用を伴う不正経理、企業と銀行による証券詐欺疑惑が次々に発覚した。市場は責任と緊張感をもった主体を作り出すことに必ずしも成功しなかったのである。
 こうした事態のなかで、1980年代以降、英国では、電気通信、教育、食品、ガス及び電力、テレビやラジオ、金融などの分野で独立の規制機関が多数設置されることになった。英国は、規制緩和と並行して、規制国家とも言えるほどに規制機関を増やしてきた。

サッチャー、首相府の強化、特別顧問と政策室

 先にも述べたように、英国の政府は、集合的決定を建前としている。しかし、サッチャー首相は、閣議や内閣委員会といった集合的決定を担う公式の会議体には馴染めず、むしろ大臣との二者間協議を好み、非公式の会議を多用した。そもそも、異なる立場からの議論に意義を見出せないという首相の性格もあったであろう。と同時に、首相の考え方が、経済問題や欧州問題で、閣内における多数派の支持を得られていなかったという、当時の政権内の対立も、こうした手法の採用につながっていた。
 集合的決定は、首相の暴走を抑え込む仕掛けである。公式機関による集合的決定の形骸化が懸念されたということは、政府内に埋め込まれた権力の抑制装置が機能不全を起こしている可能性があることを示唆していた。
 サッチャー政権期には、一連の顧問や政策室が活用されることで、首相個人の補佐機構である首相府も強化された。
 もともと、サッチャー首相自身は顧問を置くことには必ずしも積極的ではなかった。だが、1981年に経済学者のアラン・ウォルターズを経済顧問に任命すると、彼の分析を高く評価するようになる。(略)[これに満足し]1983年に外交顧問と防衛顧問も任命する。外務省がフォークランド戦争を予期できず危機への対応に失敗したとみたサッチャー首相は、外交安全保障に関する独自のスタッフを求めるようになった。(略)
 政策室は、ウィルソン労働党政権下の1974年に新設された機関で、保守党政権下で定着した。それまでの首相府に政治スタッフはほとんどいなかった。首相府を切り盛りしていたのはむしろ官僚たちであった。かつての日本の首相官邸に近い状況が英国にもあったと言ってよい。
(略)
 サッチャー政権期には、官僚の政治化も懸念され、指摘されていた。ことの真偽はともかくとして、サッチャー首相が、官僚の登用に際し、「彼はわれわれの仲間か」と問うたとの逸話は語り草になっている。(略)
確かに政権前半、サッチャー首相は、財務省や外務省のなかで輝かしいキャリアをもつ事務次官たちを「旧体制」の代表とみなして冷遇し、官界の大物にしばしば与えられる爵位も認めなかった。
 これに対し、サッチャー政権の官僚人事は、政治化したのではなく、登用される官僚のタイプが変化したのだと論じる研究もある。つまり、政治家の政策を解釈したり、異議を唱えたり、政治的コストや政策の難しさを説明する伝統的な政策顧問としての官僚像から、政治家の意思を効率的に具体化する執行役としての官僚像への変化である。こうした変化は、1990年代以降進められた、いわゆるネクスト・ステップス改革へと結晶化した。もちろん、官僚のイエスマン化が進んだとの見方もできよう。
 他方、首相府をみると、サッチャー政権期には、首相を支える官僚のある種の政治化は確かに観察された。その「政治化」とは、首相の外交担当秘書官と首席報道官という、各省から出向してきた官僚が、首相の長期在任中に実質的に首相と政治的に一体化するという事態であった。交代時期が来ても、首相ばかりか、当の官僚も交代を拒否した。これは英国の官僚制にとってはきわめて異例の事態であった。出向中の官僚が、閣僚や官僚機構との対立も辞さず、首相の意を呈して行動し続けたことは、特筆に価する。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com