高橋源一郎+大友良英=対談

高橋源一郎との対談のとこだけ読んだ。

フリージャズとノイズ

高橋  [高校の頃フリージャズを友達と聴きながら]「意味はないよね。でもこれはいいよね。なんでいいんだろう?」ってみんなだんだん疲れてくる中で話していました。それで、その頃は同時に政治の話をしてたでしょ。政治は逆に意味しかない。政治の言葉っていうのは、「論理的に言え」とか「何を目指しているんだ?」とか。
 白黒はっきりさせるってことですよね。(略)
言葉と言葉のあいだの余韻とかは読んじゃいけないというか、そもそもないことになっているんです。つまり「本当はこうだろ?」とか「プロレタリア革命とか言ってるけど、本当はそうじゃないんでしょ?」とかいうことはない。(略)
片方では百パーセント意味しかない。もう片方では百パーセント意味がない。でも、僕たちはその中間で生きているよねっていう話を、デモしながらしていました。
(略)
「なんでノイズはあるの?」っていう話が、実は僕には長い間、常に問題になっていた。
(略)
[脳科学者の池谷祐二の話によると]
脳波を分析していくと、そのほとんどはノイズなんだって。(略)
なんでこんなにノイズばかりなのか、なんでこんな無駄なことをしてるんだろう?と考えるわけで、それでノイズのないモデルを実験的に作ったんだけど、でも、それだとダメなんだって。(略)
脳はどうもノイズの中から有意義なものを見つけるっていうのが得意だということみたいなんです。だからノイズのない、意味のあるやつだけだとうまく伝わらない。それをやっていくと壊れちゃうんだって。(略)
だから、意味っていうのはノイズの洪水の中に発見されるものなので、ポーンと自立してあるものじゃない。脳の構造自体がそうなっている。だから、ノイズがないと脳は成り立たない。

「なんの役に立つの?」

高橋  だから、「用がない」 っていうものはないんじゃないでしょうか。(略)
なのに、僕たちの回りでは、いろんな人が「なんの役に立つの?」って言うでしょ?
大友  言う。ミュージシャンがみんな震災後にそう言ってました。音楽は震災に際してなんの役に立つのか?って。でも「僕たちは普段から役に立ってないだろ」っていつも思うんだけど(笑)。
高橋  この世界を覆っている一番メインの言説は、「それ、なんの役に立つんですか?」だよね。

「上手なノイズミュージシャン」

大友  (略)こんな状態の中で、僕らがやるのは正しい答えを出すことじゃ全然なくて、なんというか、とにかく生き延びていくことなんです。そこからとんでもない音楽が生まれてくる。でも学校で教える音楽って、正しい音楽を教えようとしてる。音程はこれが正しい、とか。正しい答えを求めるんですね。だけど、そんなところに音楽の面白さがあるわけがないって思います。なのにノイズと言われているような世界ですら、「上手なノイズミュージシャン」が出てくるわけで、そんなものが出てきた時点で…… (略)
人間って幸か不幸かどんなものでも解釈して身体化してしまって、最初の頃は解釈不能で面白かったノイズですら、上手に答えを出す人が出てくる。つまんないですよ、そんなの。

テキトーがサイコー

高橋  自由であるというのは、なんて難しいんだろうと思いますよね。大友さんはアイラーがお好きだけど、僕は作家だと、ブコウスキーがとても好きなんです。何が好きって、いい加減なところ(笑)。世界文学史上、僕の知っている中で、いい加減さではたぶんトップ3。もう適当そのもの。
 書いてる側から見ると、本当に適当に書いてる。でもブコウスキーを基準にしてみると、ほかのほとんどの作家は全部「お仕事」に見えちゃう。つまり、よそ行きで、「作品などを書こうとしてみんなり」みたいなさ。ブコウスキーは、「あれ、タイトルいるの?」とか「とりあえず」とか、書き始める時は、ほとんど何も考えてないですよ。書きだしても、「もうどうでもいい」とか「やる気なくしてる」とか、なんかね、それがすごくわかる。(略)
僕たちはやっぱりある程度書いてくると、上手くいかないと、失敗したからここはうまく収めようとか、失敗したように見せないようにするわけですね、一応プロだから。でも、ブコウスキーにはそれさえない。「失敗したけどいいや。すみません。終わり〜」とか。(略)
本当に文学をやるとは何か?と考えると、まあ「自由を求めて」ってことになる。その自由ってなんだ?って言うと、一番ぴったり来るのは「適当」じゃないか。適当でいい。全部適当。それを貫くのが、実は一番難しい。壮大なものをつくると褒められるけど、適当なものって、つくっても誉められないし(笑)。「適当じゃないか」って言われちゃう。
(略)
 たとえば僕が仮に、傑作を書くでしょ。でも、傑作なんて書いていいのか?と。傑作って人を自由にしないんじゃないか。人がただ「すごいなあ。これはとても書けない」という作品。そんなの書いたら、悪影響じゃん(笑)。ブコウスキーを読むと、「ああ、生きていても大丈夫」って思えてくるのがよくてね。
 これはノイズの話にもつながるんですけど、僕がこの二十年くらいで一番びっくりした日本の作家は小島信夫という人で、もう十年くらい前に九十近くで亡くなりましたけど、晩年は、呆けていたんです。でも「まだら呆け」で、たぶん自分が呆け始めたことを知っていて、その呆けを利用して書いていた。(略)
晩年は、原稿を渡してゲラが戻ってきても、ゲラを直さない。タイトルは、編集者に「適当につけて」と言っていた。ゲラって間違いを直すんだけど、明らかな事実の間違いがあっても直さないし、固有名詞が間違っていたりもするので、それを直そうとすると、「いや、やめてくれ」って言うわけ。「僕はその時そう思って書いたんだから」 って。
(略)
しかも、状態がだんだん悪くなってきちゃって、思いついたことを順番に書いてるだけだったりするものもある。
(略)
文法もめちゃくちゃ、主語も途中から変わるし、話がどこかで消えちゃうし。それでも読んでいくと、もう頁をめくるのももどかしいぐらい。
 それはなぜかって言ったら、ひとつは面白いということ、そして自由なこと。(略)つまり、みんな直すでしょ。直して直して、ノイズを取る。でも小島さんは、最後に全部をノイズにしちゃった。呆けてるから、ノイズしか出てこない。だから直すなって言った。直すとみんなノイズを取っちゃうでしょ。