政治と歴史 ルイ・アルチュセール

ホッブズ――マキァヴェッリ

 ホッブズマキァヴェッリの差異を見ること。ホッブズの根本的境位は恐怖である。マキァヴェッリにおける恐怖はさまざまな統治手段のひとつである。恐怖は普遍的ではなく、人間相互の紐帯ではない。マキァヴェッリの逆説のひとつは、彼の概念が個人主義的政治概念ではなく、彼が個人の心理学を作らずに社会集団の心理学を作ることである。彼が「人間」について語るとき、それはつねに集団とみなされた人間たちである。孤立した個人の分子的ふるまいから社会関係が演繹されることはない。あらゆる政治理論にとっての前提である個人が、彼には欠けている。非常に奇妙である。
なぜなのか。
 マキァヴェッリの根本的境位は暴力の政治利用であり、恐怖ではない。暴力を用いるが、暴力に依拠しない。個人主義的社会構成理論とは完全に無縁である。
 ホッブズの境位は恐怖であり、そこには二つの次元がある。競合と政治闘争である。しかしそれらは、すでに経済的個人主義の諸問題の解決として存在している有機体のただなかで展開される。
 マキャヴェッリにおける個人は国家を構成する者である。つまり個人は形相であり、その質料が、彼らの生活、彼らの抗争、等々である。ホッブズにおける君主の特異な位置と比較すること(この君主は一人の個人であっても合議体であってもよい)。この君主は操作のそとにいる。契約の当事者ではない。つまり彼はすでに権力の座にいる。権カヘの彼の到達は問題を構成しない。
 ホッブズの登場により、契約は個々の個人にかかわるようになる。個人はつまり契約における法的地位をもつ(この地位はすでに獲得済みの経済的地位を反映している)。まごうことなき個人である君主が、個人ではない……彼以外のすべての者が個人である。マキァヴェッリにおいて、君主はただ一人の歴史的個人である。他の人間たちは社会集団である。その解消は起こりえない。個人にとっても集団にとっても。
 ホッブズは同意の理論的哲学である。マキァヴェッリは創設の哲学である。創設の権利を問わない創設の哲学である。
 なぜマキァヴェッリは権利問題をまったく立てないのか。あるいは、彼が立てる権利問題(恐怖や不実などの制限)は、なぜ事実としての状況のなかでしか立てられないのか。状況には、緊急性‐明証性以外にはなんの権利もない。
 新しい政治形態が出現する時代の哲学。

絶対権力

 ホッブズはラディカルなテーゼを主張する。すなわち、あらゆる権力の本質は(君主政であれ民主政であれ)絶対的であることにある。権力は絶対であり、取り消すことができない。贈与された権利を取り戻すことは不可能であり、君主はいかなる義務ももたない。権力はその本質と持続において絶対的なのである。
 なぜ、絶対主義なのか。契約が唯一であるからではなく、反転不可能であり、相互性をもたないからである。ことは権利上の問題である。主権者に譲渡されたものを誰も取り戻すことはできず、それは主権者においては譲渡不可能である。このテーゼの深い理由は、絶対権力があらゆる契約に先立ち、あらゆる人間生活の合理的組織の根本要件をなすという点にある。契約はそれを確立する政治権力なしに現実的なものとはならない。自然法の可能性の条件(そして自然法そのものを命ずる条件)は、それに具体的意味を与える権力である。
(略)
 この権力は統一性に基礎を置いて構造化される。人民とは統治される多数者であり、単一の意志も固有の人格ももたない総和にすぎない。唯一の現実的統一は、政治権力が課す統一である。人民が共通の意志をもつとは、人民が人格をもちうるということであり、それは人民に命令する個人の人格においてはじめて成立する。ホッブズは多数者を統一する人格を人民と呼ぶが、この人民は、唯一の人格すなわち君主であってもかまわない。君主自身が人民なのである。主権の本質は一般意志ではない。一般意志とはホッブズにとって抽象的なものにすぎず、君主の意志こそ主権の本質である。君主の意志において、全員の意志が基礎づけられ、実現する。国家全体が君主の人格に含まれるのである。
 絶対権力の理論は、臣下に対して自然状態にある絶対的個人の理論であり、唯一者と全員のあいだで自然状態を再建する。絶対権力とは、唯一者の全員に対する戦争である。しかし、この戦争は起こりえない。主権者だけがすべての権力を握っているからである。主権者は国家に対して、人間が自分の能力に対してもつのと同様の権力をもつ。
 結果:ホッブズは権力の分割(執行・立法・司法)をいっさい退ける。それらの権力は同一の人間のなかで渾然一体となる。ここでは、立法権と執行権の不分割が特に注目に値する。君主が法律を発布し、法権利を実現するのである。国王はすべての権力である。ホッブズは所有権を強調し、悪しき教義に対して戦う権利を強調する(ホッブズは意見の自由を断罪する)。
 しかし以上すべての議論は、主権者の責務を説く教説に集約される巨大な矛盾に逢着する。実際、
  ――主権者は臣下たちに保証を与えねばならない。自分の利害が人民の利害であることを理解した主権者は、自分自身が人民に対して自然状態に置かれていることを反省せざるをえない。その結果、主権者は平和と勤労を保証しなければならない。
  ――主権者が定める法律は最小限でなくてはならない。絶対権力は市民生活において最小限の場所を占め、市民たちに最大限の空間を与えねばならない。出発点にあった空虚な空間がふたたび現れるのが見てとれるだろう。最大の逆説がここにある。主権者の権力の絶対性を最小限の介入と共存させねばならないのである。自由主義的な絶対主義。解決不可能な問題である。絶対主義は自由主義を、すなわち勤労の成果の享受を目標とする。
(略)
 政治と経済のレベルの二重性は、死の二重性(内戦と競合において見られる)を反復している。戦争による死を妨げつつ、競合による死を保証せねばならない。国家は経済的なものを作用させる機能をもつ。絶対主義的理論が、ブルジョワ的観点から素描されている(≠ボシュエ)。しかしこのブルジョワ的観点は、イギリス第一革命の内戦を生きたブルジョワの観点である(これはすでに、移行期における階級独裁の必然性の理論である)。
 ホッブズはこの点で、ロベスピエールマルクスに先駆けていよう。

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