ホッブズ・約束という暴力

前日のつづき。
「哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀」その3。

哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀
 

国家はある種の虚構

スピノザ自然主義だというのは、まあわかる。権力も現実の一部であり、現実は彼にとって神=自然なのだから。だがホッブズは、これから見てゆくように少しばかり難しい。ホッブズの場合、国家はある種の虚構、フィクションである。にもかかわらず、それが何だか妙なふうに、現実と接続している。この接続の仕方が問題なのである。
(略)
ホッブズは社会契約説によって近代国家の基礎づけをなしたとされる。変ではないか。だってそうでしょう。機械論的唯物論によれば人間は自動機械みたいなもので、そのふるまいはすべて物理的に決定される。そんなのが互いに約束し契約を結ぶというのである。あなたのパソコンが知らぬ間にネットでどこかのパソコンと契約を結んでいたとして、パソコンに契約の責任が負えるだろうか。機械論的唯物論と契約説というホッブズの取り合わせは妙なのである。

発生がシミュレートできないならサイエンスの対象ではない。逆にもしシミュレートできるなら国家も自然的物体も物体である。きっとホッブズはそう考えている。

ホッブズ決定論が彼の立論を危うくするとは考えない。それどころか、むしろ機械論的決定論こそが義務の盤石の理論基盤を与えると考えているふしがある。彼によれば、行為は必然的に生じるが、だからといって行為する意志がなかったとは言えない。行為は決定されていても意志的なのである。この何だか変な感じは、彼が言及しているストア派のエピソードからうかがえる。だいたいこんな話である。


 ――すべての行為は必然的に生じるとゼノンは主張していた。ところがある日、彼の召使いが盗みを働く。むち打とうとすると、抗弁してくる。おかしいじゃないですか、あなたがいつもおっしゃっているように、私は盗むよう決定されていたのですよ。ゼノンは応じる。そう、お前がむち打たれるということもな。


行為へと決定されているからといって、その責を逃れることはできない。――いずれ見るように、これはホッブズ国家契約説の決定的な論点である。

「取り消し不可能なもの」

ホッブズの哲学では、正確には、意志は現にある、ではなくて、行為がなされたそのときから、あったことになる、というようになっている。ホッブズの言う「意志」は、本質的に、存在していたことにあとからなる、事後の論理的構成物なのである。――よく考えると「意志」なんてものはもともとそういうものなのかもしれない。行為してしまった者は責を問われる。そのとき、行為を説明するためにはじめて「意志」があったことになりはじめる。しかし自分のことを考えてみても、行為の直前に事実自分がどういう欲求や恐れを持っていたかなどわかったものではない。「意志」はあとから作られるのだ。
(略)
ホッブズの哲学の目標は、事実がどうであれ国家契約があったことにしてしまうという、鉄壁の論理の構築にあるのだった。(略)
ホッブズの哲学の中心にあるのは、取り消せない意志、取り消せない約束、「取り消し不可能なもの」なのである。

[相互暴力で自滅を避けるには]
社会契約を結ぶしかない。そして、いったん社会契約を結んだなら、もちろんそれを守らねばならない。さもないとなんじは正当にも滅ぼされるであろう。こうして強大なリヴァイアサン、国家が発生する。
 でも、これって全部フィクションでしょう。そうである。そのことはホッブズがだれよりも知っている。しかしただのフィクションではない。ホッブズにとって、これは現実そのもののシミュレーションなのである。
(略)
国家が事実どのように発生したかではなく、それが作られえたであろうようなシミュレーションが理解を与える。だからホッブズにとって現実は、われわれがそれを作りえたであろうというフィクションとして以外、そもそも理解できるはずがないのである。
 こうしてわれわれは、あたかも契約があったかのごとき現実の中に置かれる。何だか気持ちが悪いが、ホッブズ的にはそうなる。
(略)
意志は本人の意識に現前する何かではなくて、行為がなされたそのときから、さかのぼってその人のうちにあったことになる事後的構成物なのだった。(略)おそらくホッブズは社会契約も同じように考えていて、いつどこでそんな契約があったのかということはまったく関知せず、とにかくそれは必然的にあったことになる、もう取り消せないのだ、と言っているように見える。

約束は暴力である

[社会契約が]本当なら自然状態で滅びていておかしくないあなたの命を保護してくれている。だから、いまさらそんな契約はした覚えがないとしらばっくれることは許されない。否認するなら残りの者たちによって正当にも滅ぼされるであろう――。
 命の贈与を受けてしまっている現実が、取り消し不可能な契約を事後的に確立する……。これがホッブズの論理である。こうしてフィクションと現実はだんだん見分けがつかなくなってくる。
(略)
そんな約束が本当にあったのかという問いをホッブズは無効にするのである。約束は暴力である。いや、国家とはそういう暴力としての約束である。ホッブズはおそらくそう考えていた。

ホッブズスピノザの違い

これだけ原初の暴力を匂わせながら、それを回避させているはずの国家の見えない力の出所についてホッブズは何も語らずパスする。彼の論理が妙に暴力的なのはそのためかもしれない。
スピノザが違うのはそこである。ホッブズが事後の中に服従義務を打ち立てる〈取り消し不可能の哲学〉なら、スピノザは〈リアルタイムの事物の哲学〉である。
(略)
スピノザの『国家論』が異色なのは、国家を人為としてではなく、事物の必然として考えようとしているからだ。
(略)
われわれは自分が身体の真理であることを知らず、身体たちが共同してどんな力を作り出し、どんなようにわれわれ各人にその力を及ぼしているか知らない。さっき言った循環はわれわれの知らない外、「群集」の中で起こっている。それは「群集の力能」という事物の必然に属する事柄なのである。
 ちなみに、各人のまわりに偏在するこの「残りの者たち」の力、これはホッブズのあの国家設立集会で有無をいわせぬ力のプレゼンスとして登場していたものにほかならない。もうおわかりでしょう。スピノザホッブズが隠蔽していたあの契約説の循環を、現実の産出的な循環に変容させているのである。

「正義をなせ」という敬虔の教えには、統治する者もされる者もだれひとり指一本触れることができなかった。そうスピノザは考えている。いいでしょうか。そうさせないのは人間たちの心の正しさではない。群集の力能の「戦争権」、こう言ってよければ、自然という名の神的な暴力がそうさせないのである。
(略)
政務に携わる者たちが意に反してでも正しいことをなさざるをえなくなる仕組み、市民たちが強制でなく自分の意向でそうしていると思えるような仕組み。そうしたありったけの術策・技巧を整備する。すると、あら不思議、結局それはデモクラシーに限りなく似てくる。正義とデモクラシーとはそういうものだ。そういえば、かのアルチュセールはどこかでイデオロギーは永遠であると言っていた。彼はきっとスピノザのことを念頭においていたに違いない。

明日につづく。