ホッブズ政治と宗教

ぼんやりと飛ばし読み、特に後半の宗教の部分はぶっ飛ばし。

罪を犯すように人間を造っておきながら、罪を犯さない「自由意志」を与えないのなら、全ての罪は神が負うことになるというブラムホール

「罪の責任主体」

これに対してホッブズは、「神があらゆる行為と運動の原因だと言っているのであって、それらの責任主体だと言っているのではない」と反論する。ホッブズにとって、神はあらゆるものごとの原因であり、人間の罪の原因でもあるが、厳密に言えば、神は「罪の原因をお」いたのであって、神が罪を犯したわけではなく、「罪の責任主体」ではない。(略)
罪を犯すのはあくまで人間であって神ではない。全能なる神は、たとえ何をしようと罪とはならない。

不条理がある、ただそれだけ。

神と人間の善悪は共通ではない。神の命令を執行するサタンは人間には悪でも、神には善である

ホッブズの場合、ブラムホールとは対照的に、「神の正義」を人間中心に捉える見方を否定する。彼にとって現実とは、「抵抗しえない力」をもつ全能なる神が存在し、かつ世界には不条理が存在する、ただそれだけである。彼はこの人間の善悪と神の善悪との厳然たる断絶を受けとめ、全能なる神とこの世の不条理の存在とを意味的に間連づけることを拒否するのである。救済は神の「選び」にあり、人間の「意志」は人間の力のなかにはない。神は不条理な苦難を与えもするし、神のその行為は神の力によって正当化される。したがって、罪がすべての苦しみの原因ではなく、不条理な苦難に意味はない。この神と人間との善悪の断絶こそが、ホッブズの「自然状態」の姿である。
国家が成立する以前の状態である「自然状態」においては、人間関係を律する国法が存在しないのだから、人間を律するのは神のみである。だが、神にとっての善は人間にとっての善とは限らない。「サタンは我々にとって悪である。というのは、彼は我々の破滅を求めているからである。しかし、彼は神にとっては善である。なぜなら、彼は神の命令を執行するからである」。このように、神と人間との間に善悪についての共通の基準は存在しない。
[したがって自然状態に道徳は存在しない]

神の働きに服する内面に国家は介入できない

「意志」は「自由」ではない。しかし、「熟慮」の過程を経て、心のなかに生起した「最後の欲求あるいは嫌悪」である「意志」が、行為となって現れようとしているときに、それを妨げる障害物がなければ、人間はその行為を行う「自由」をもっているのである。(略)
ホッブズは、人間の「自由」を内面的過程から切り離し、外面的な行為の領域に限定する。この意味は、内面的思考を必然性に従う領域、言い換えれば、神の予知と命令に服従する領域とすることによって、人間の心は神の働きに服する領域であるから、他の人間および国家は介入することができない、ということを明確化することである。また、それの裏返しとして、「自由」が与えられている外面的行為の領域においては、厳格に行動の「責任」ないし「義務」を問うということ、すなわち、国家が介入する政治的領域であるということを明言しているのである。

社会のなかにおいてのみ、罪=悪は発生する

「人間の欲望やその他の情念は、それ自体としては罪ではない。それらの情念から生じる諸々の行為も、それらを禁止する法を彼らが知るまでは同様に罪ではない。法がつくられるまでは、人々は法を知ることができないし、人々が法をつくる人格に同意するまでは、いかなる法もつくられえないのである」。罪とは、「法の侵犯」ないし「法を侵犯しようと意図あるいは決意すること」である。そして、「共通の権力がないところに法はなく、法がないところに不正はない」から、法がなければ、罪も「正と不正の観念」も存在しないのである。(略)
このように、ホッブズにおいては、正や不正は、国家(人民各人の人格を担う主権者)の設立と国法の制定をもってはじめて人々に知られるものであり、自由意志論的発想に見られるように、人間に内在的な能力ではない。

呉越同舟を可能にする外面的国家

ホッブズの外面的国家は、「信仰や内面の思考」には一切介入せず、ただ行為のみを規制するものである。このような国家においては、外面的な行為において法を遵守するならば、思想の「自由」が保たれうる。つまり、互いに対立し争っていたカトリック、アングリカン、ピューリタンその他様々なセクトを、その固有の内面的信仰には手を触れないままで、一つの国家のなかに包摂することが可能となるのである。ホッブズは、あらゆる党派的な対立を超えて、すべての人民を一つの国家に統合しようとするのである。

ピューリタンの根拠

国王に対して武器をとり、「受動的服従」の義務を犯したことに動揺する軍人に対し、クロムウェルは、「神の摂理」に訴えて、政治権力への抵抗を正当化する。彼からすれば、叛逆ないし革命は、「神の計画」の一部であって、「キリストの王国」にふさわしい環境にするための現世改革は、むしろ神の意志であり、それを「神の道具」として履行することが聖徒の義務ということになる。しかし、まさに、こうした独立派の「神の摂理」信仰は、「受動的服従」思想を破壊するものである。
レヴェラーズは自由意志論的な「良心」や「理性」に基づき[暴君へと堕落した王権を倒し]、独立派は予定説を強調する「神の摂理」に依拠して、「受動的服従」の思想を解体する。

本文をちゃんと読まずに「あとがき」引用でスマソ。

「神の王国」の変換

リヴァイアサン』において提示された国家像は、新しい世界観をもとに導出されており、それが当時の人々の異端ないし無神論批判を引き起こしたのであるが、しかし、この新しい世界観---ローマ・カトリックに代表されるような、現在の自分たちの教会を空間的に存在する霊的な「神の王国」と捉える「神の王国」論から、現在に空間的に存在するのではなく、過去と未来においてのみ、現実に地上に存在する歴史的もしくは時間的な存在としての「神の王国」論への変換---こそが政治と宗教との関係についての近代的転換を果たしたと言えるであろう。