なぜホッブズは戦争を削除したのか

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上記からのつづき。チラ見でツマミグイ。

夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

なぜホッブズは戦争を削除したのか

(以下「括弧」内はフーコーの発言)
 つまり、ホッブズの「自然状態」は抽象的な人間の平等性を前提としていて、そこにあるのは実は戦争ではない。「だから、ホッブズにおいては最初から戦争なんてないんです」(略)「主権はいつも下から、恐怖する者の意志によって、形成されるのです。だから設立だろうが獲得だろうが、そこにはメカニズムの深い同一性がある」と言い放ってみせる。結局、ホッブズは本物の戦争を考えもしないまま、戦争の「恐怖」という「ルアー」をちらつかせるだけで、最後には主権を持ち出すことになるのだ、と。(略)
「主権の設定は戦争を知らないのです。戦争があろうとなかろうと、同じ仕方でこの設定はなされるのです。根本的に、ホッブズの言説というのは戦争に『否』を言うことなのです」。個体間の差異を抽象することを前提とする自然状態はまったく戦争ではなく、その後にあるものも戦争ではない。ホッブズの理路のなかで、戦争は一度も起こらないのだ。なぜホッブズは戦争を削除したのか。いわく、「ひとことでいえば、ホッブズが削除したいのは、征服なんです」。そう、ホッブズが削除したかったのは、現にある主権が征服によって成立したものであるという具体的で歴史的な事実だ。
(略)
戦争はない。血も、死体も、殴打もない。根本的に抽象的な戦争の観念をルアーにし囮にして、主権という服従の平和を作り出す詐術があるだけだ。ホッブズは「征服」を削除する。真の戦争を、主権を打ち立てたはずの「征服」を。
(略)
「戦争こそが、制度と秩序のモーターなのです。平和は、その仕組みのもっとも小さな歯車において、ひそかに戦争をしているのです。言い換えれば、平和のもとにある戦争を見抜かなくてはならないのだということです。戦争は、平和の暗号それ自体なのです。だからわれわれは互いが互いに戦争を行っている最中なのです。戦線は社会全体を貫通しているのです。(略)中立の主体など存在しない。誰もが、どうしようもなく誰かの敵なのです」

性告白・倒錯

18世紀以来、性は絶えず「全面的な言説上の異常興奮」を引き起こしてきたのである。大丈夫、性は大事なものであり、万人が性的欲望を持つのであり、それは科学的にも精神分析にも保障されているのだから、恥ずかしがる必要はないのだよ。君はどんなときに、どんなふうに、どんな刺激で、どんなことに性的快楽を感じるのかね。どんどん語りなさい。こうして、このようなお墨付きを頂いて安堵した、かつ何か興奮に昂って息を弾ませた言説が繁茂していくことになる。多くは権力に逆らって、道徳に逆らって、性について得々と語る者も多かっただろう。
(略)
 性は禁止されていない。性は抑圧されていない、性は「言葉にならないもの」ではない。そうではなく、性を語るべし、とのこの奇妙な命令、生権力=規律権力の命令の煽動によってひとは常に性を語ってきたのだ。それは巧妙極まりない策略と呼びうる。なぜなら、性を語るということ自体が禁止や抑圧を破るという快楽を与えてくれるものであるからであり、そしてその上擦った声で語れば語るほど性は、「語っても語っても語り尽くせないもの」「深淵」となっていくのだから。
(略)
 その「増殖」のなかに、周縁的な性現象、すなわち倒錯も組み込まれていく。(略)同性愛であり動物愛好症であり、フェティシストであり露出狂であり、視姦愛好症であり、冷感症であり……といった一覧が次々と提出され、その項目数を増やしていく。
(略)
「性倒錯の増加は、……ある種の権力が身体ならびに身体の快楽に干渉することによって生じた現実的産物である」。だからおそらく、こう言える。ある性的嗜好をもって、自らの密やかだが確固とした独自性・個性・同一性とみなすのは無駄なことだと。フーコーは言う、西洋はここで新しい性的快楽を発見したのではない。「そのゲームに新しい規則を定めた」のであって、そこには「性的倒錯の凍てついた顔が描かれている」だけなのだ。
(略)
われわれは抑圧されていない むしろ煽動されている。性の放埓は、何か抵抗や解放に関わるものではない。

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