ダウン・ザ・ハイウェイ ボブ・ディランの生涯

ダウン・ザ・ハイウェイ---ボブ・ディランの生涯

ダウン・ザ・ハイウェイ---ボブ・ディランの生涯

ヒビング

広大な森と湖でカナダと隔てられたヒビングは(略)
典型的な小都市で、独立記念日にはすべての建物に星条旗がかかげられ、だれもが顔見知りで、多くの場合はそれぞの親のことまで知っていた。(略)
松の森には熊が出たし、荒涼とした地平線の上にオーロラを見ることもあった。真冬は、吹き寄せた深雪をかいてからでないと車にたどりつけなかった。「冬は何もかもが静かで動かなかった。それが八ヵ月続く……何もしないで、ただ窓の外を見つめていると、幻覚を見そうになる」とボブは回想している。

ハンク・ウィリアムズ、ラジオ、ブルース、

ハンク・ウィリアムズはシンプルな曲をつくり、それを、とくに美しくもないし音楽的でもないが、説得力のある声で歌っていた。アラバマ州南部の奥地の赤貧の家庭に育ったウィリアムズは、不幸だったし、不健康なアルコール依存症でもあった。その歌の多くは、不実な女との恋に破れることを歌っていて、自身の結婚を反映しているらしかった。短い生涯の晩年、ウィリアムズは土曜の夜にナッシュヴィルから放送されていた番組、グランド・オール・オプリーのスターとなった。オプリーで「ラヴシック・ブルースの男」と紹介されていたウィリアムズを聞いて、ボブはその悲しい歌を心にしみこませた。ボブにとって、ハンク・ウィリアムズはこのころからアメリカでもっとも偉大なソングライターだった。
 深夜のラジオで、ボブはリトルロックやシカゴやはるかに遠いルイジアナ州シュリーヴポートからの放送を聞いた。こういったラジオが、とくにフランク・ブラザー・ゲイトマウス・ペイジの番組、『ノー・ネイム・ジャイヴ』が放送していたのは、主としてブルースだった。(略)「夜遅く、よくマディ・ウォーターズジョン・リー・フッカー、ジミー・リード、ハウリン・ウルフがシュリーヴポートからがなり立てるのを聞いていた。夜中の二時、三時まで起きていて、そういう曲をたくさん聞いて知ろうとした。そして自分でも曲を弾くようになった」と。ロックンロールの大流行(略)の前に、ボブはアメリカ・ポピュラー音楽の基本形に出会っていた。ハンク・ウィリアムズのヒルビリー曲と失恋を歌う歌詞は、ボブに考えることを教えた。ジミー・リードやハウリン・ウルフの扇情的なリフは演奏することへの意欲をかきたてた。ことばとサウンドが合体して、すばらしいものをつくっていた。実際、それは人生を変えるほどの経験だった。「ぼくが音楽だけをやってきたのは、子供のころ、音楽にとても強く影響されたからだ。影響を受けたのは音楽だけだったんだ。音楽だけが真実だった。あのころ特別な音楽に出会えたことをうれしいと思う。あのとき音楽と出会わなかったら、自分がどうなっていたのかわからない」

リトル・リチャード

[ジェームズ・ディーンに憧れ『理由なき反抗』の台詞を暗記し友人と]ふたりで「十年後の答えなんてほしくない」「いま答えがほしいんだ」などと声に出して言いながら街を歩いた。ボブと友人たちは毎日のように、スティーヴンズ菓子店で映画雑誌をめくってディーンの記事を探した。ボブは、ディーンが着ていたような赤いバイカージャケットも手に入れた。(略)
 もうひとり、とてもわくわくさせる人物はエルヴィス・プレスリーだった。「初めてエルヴィスの声を聞いたとき、自分は人に使われるような仕事はやらないし、だれかの下で慟くこともしないだろうとわかった。牢獄から抜けだしたような気分だった」とボブは言っている。ボブが好んだのは、とても早い時期、1954年から55年にかけてメンフィスのサン・レコーズ[時代](略)
[エルヴィスが有名になり]
かわりに、お気に入りはリトル・リチャードになった。リトル・リチャードはテレビで見ておもしろかったし、その音楽はとてつもなく激しかった。一般社会規範の拒否者という点でも筋金入りであり、それがボブの心に強く訴えた。ボブはリチャードの躍動感溢れるピアノのリフをコピーして、家の小型グランドピアノを立ったままでひいた。(略)
ボブは髪を伸ばしはじめ、リトル・リチャードに似せた形にとかしていた。
(略)
1959年の卒業年鑑には、リトル・リチャードを思わせる髪型のボブの写真が載っていて(略)将来の夢は「リトル・リチャードの仲間になること」と書いてある。
(略)
 大学に入ったとき、ボブはまだロックンロール期にあり、刺繍入りのジョーカーズのベストを着こみ、髪をダックテイルにしていた。しかしディンキータウンでロックンロールは流行遅れだった。学生文化の洗礼を受けてボブも変わった。(略)学生たちはみんなビート文学を読み、左翼急進派の政治に入れ込み、音楽は(略)フォークだった。

ふたり目の重要なガールフレンド、ボニー・ジーン・ビーチャー

 ボニーは明るい色の髪を長く伸ばした、エレガントで美しい女性だった。頭がよく、本をたくさん読み、教養が豊かで、そしてボブとおなじぐらいブルースに詳しかった。ボブがのちに「盗まれた時間のなかの生活」のなかで書いている「女優の子」――ボニーは演劇の勉強をしていた――、彼が夢中になったがひどい仕打ちを受けたという女の子は、彼女のことだ。有名なラヴソング「北国の少女」を書いたときに思っていたのも、ボニーだったと思われる。

『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』

[ディランがパンケイクの家から勝手に持ち出した]
 『アンソロジー』を編集したハリー・スミスは風変わりな民俗音楽学者だった。1923年、オレゴン州ポートランドで、自分をロシアの皇后だと思いこんだ母親のもとに生まれたスミスは背骨が曲がっていたせいで、彼が言うところの「健全な」社会からのけものにされた。彼は自分自身について、さまざまな物語を考えだすのが好きで、自分は多重殺人者だと主張した。二十代の終りには、許可を求めることや著作権を明瞭にすることなどの手間をかけずに、20年代、30年代のブルースマンヒルビリーグループがつくったフォークソング、スピリチュアル、ブルース、インストゥルメンタル曲などの78回転盤を集め、[48曲を選び、52年フォークウェイズからLP6枚組で発売]
(略)
それぞれ古風な装丁のふたつ折りジャケットに収められ、表紙にはスミスが天界の一弦琴と呼ぶ架空の楽器のエッチングがついていた。レコードセットには粗雑な印刷の小冊子が添えられていて、スミスの特徴である電報のような文体で、歌詞や主題が大まかに書いてあった。

ウディ・ガスリー

ハンティントン舞踏病という脳の病気におかされ(略)不屈の男だったガスリーは、48歳にして生きたむくろとなっていた。平衡感覚を失いかけているため、歩くときには首が前にたれさがり、ギターを弾くことはもうできなかった。(略)
 ガスリーは病気になる前、ハンガーを曲げたようなワイヤのホルダーを首にかけ、それにハーモニカを固定して吹いていた。(略)ランブリン・ジャックはその真似をし、ボブもおなじようにした。ボブは絵を描いてボニーにホルダーの形を教え、ボニーはスミス・ミュージック・カンパニーでそれを買ってプレゼントした。
(略)
1960年の冬、ボブは風邪をこじらせ(略)気管支炎を起こして声が変ってしまった。声は前よりざらついて、ボブの声として知られているものに近くなった。やがて病気は回復したが、ボニーは声に悪い影響が残ったのではないかと心配した。1969年の『ナッシュヴィルスカイライン』のボブのなめらかな声を聞いて、ボニーは気管支炎になる前の声を思いだしたと言う。「若いころはああいう声をしていた」
 病気が治ってすぐのころ、オデッタが街にやってきた。(略)オデッタはボブが歌うのを聞いて、やっていけると明言した。(略)
ボブはヒビングに帰って今後のことを両親に話すことにした。

ガスリーの声

ガスリーは話をするときも歌うときも、生まれ故郷オクラホマの方言を使ったが、ピート・シーガーとおなじように明瞭に発音することを心がけていた。ふたりとも、歌詞を非常に重要なものと考えていたからだ。しかしボブが会ったころには、病気の影響で、ガスリーの発音は息の音がたくさん混じって、不明瞭に変わっていた。(略)
娘のノーラはこう言っている。「母は、若いミュージシャンたちがハンティントン舞踏病の初期症状を真似していると確信していたわ……音を伸ばしておいて、ふっと消えてしまうようなところよ。あれは、コントロールする力が弱くなっているせいだったの。でも、それが一種のスタイルになって、ディランもそこから出発したのよ」

ピート・シーガー

[ピート・シーガーが結成した]ウィーヴァーズはその極左的な姿勢のせいで、マッカーシーブラックリストの対象となり、1951年には、事実上、活動ができなくなっていた。シーガーは1952年を休養の年としたが、翌年の1953年、大学に来て歌ってくれないかという学生の手紙を受けとった。そこには、出演料は出せないが、募金を集めるのでバス代は用意できるだろうと書いてあった。シーガーはその招きに応じ、やがて国中の大学をまわって歌うようになった。いまになってみれば、こうした大学の小規模なコンサートで若い世代がフォークソングに接し、それによってフォーク・リヴァイヴァルが拡散したのだということがわかる。ジョーン・バエズもトム・パクストンも、それぞれカリフォルニアとオクラホマで(略)ウィスコンシン州マディソンでは(略)ボブがそれを体験した。シーガーはこう語る。「わたしの仕事のなかでいちばん意味があるのは、なんと言っても、たくさんの大学をまわったことだろう。
(略)
いつものコンサートのようにシーガーがガスリーの話をし、その作品を歌うのを聞いて、ガスリーに会いたいというボブの気持ちは強まった。

スージー・ロトロ

スージーはまだ17歳のハイスクールの生徒で、ふたりがセックスの関係を持つことは法律に反していた。(略)
やがてボニー・ビーチャーのときとおなじように、結婚を口走るようになった。のちにボブが「十一のあらましな墓碑銘」で書いているように、スージーは彼の「森の子鹿」だった。

アルバートグロスマン

グロスマンがマネジャーをしていたシカゴのミュージシャン、ニック・グレイヴナイツはつぎのように言う。「人を座らせて酒を飲ませれば、キャッシュレジスターに金が入る。アルバートが知っているのは、そのことだけだった。いい音楽とがらくたの区別もできなかった。だがキャッシュレジスターのことは知っていた。とてもよく知っていたよ」と。グロスマンがクラブ業をはじめたのは、ホットドッグの営業許可に興味があったからだ。「ホットドッグがよく売れるように、客を集める方法をみつけようとしていたんだ」とグレイヴナイツは言う。その過程で、グロスマンはひと財産をつくり、それをすべて失った。「成功するまでに二度、破産をしたと言っていたよ」
(略)
ゲイト・オブ・ホーンでプロとして仕事をはじめたジョーン・バエズと契約しようとしたが、断られた。その後、すでにスターだったオデッタと契約し、グロスマンは成功への第一歩を踏みだした。オデッタはつぎのように言う。「わたしは働きどおしだった。アルバートはわたしをいろいろなところに出演させて、そしてそういうところの人たちはそのことでアルバートに恩義を感じていた。アルバートは、わたしに乗っかって仕事をスタートしたのよ」
(略)
労働者の音楽で金儲けすることはいまわしいことだった。ミュージシャンの多くがグロスマンを嫌った。デイヴ・ヴァン・ロンクは、グロスマンが若いアーティストを堕落させることを喜びとし、だれにでも値段がついているという趣旨のブラックユーモア小説、テリー・サザーン著の『ブラック・クリスチャン』を愛読していたと言っている。めったに人をけなすことのないピート・シーガーは「彼といっしょに仕事をしなくてはならない人を気の毒に思う」と話している。

グロスマンによるハモンド排除

マネジャーとなったアルバートグロスマンは、[ボブに十分な力を注いでいないと]コロンビア・レコーズとの戦闘を開始(略)
[ボブは契約署名時に21歳未満で契約は無効と主張]
ジョン・ハモンドは、自分の秘蔵っ子がこんなやりかたで文句をつけてくることに腹を立て、ボブをオフィスヘ呼び、すでに所定年齢に達した彼を説得して、従来の契約続行に同意する「契約再確認書」に署名させた。グロスマンとブラウンはこれに憤慨した。(略)
グロスマンは、ジョン・ハモンドを排除することにした。ふたりは、まったくの正反対の人物だった。ハモンドは典型的な白人支配者階級出身の芸術愛好家であり(略)
グロスマンはユダヤ系の起業家であり、薄暗い過去を持ち、大金持ちになるために何でもする気でいた。しかしハモンドを排除するのは生やさしいことではなかった。ハモンドはコロンビア・レコーズの伝説的なプロデューサーであり、彼の妻はコロンビア会長の娘だった。そこでグロスマンは、ハモンドが自分からやめたくなるように仕向けることにした。
(略)
[「ゴチャマゼの混乱」にディキシーランドスタイルのバンドを入れるよう提案]
ハモンドは、この故意のいやがらせに仰天したが、それでも何とかしようと試みた。しかしどうやってもうまくいかず、ハモンドはしだいに怒りだしてグロスマンのパートナーであるジョン・コートにスタジオを出ろと命令した。ボブもいらだってスタジオを出ていった。その後まもなくして、ハモンドは二枚目のアルバムから手をひいた。ジョン・ハモンド・ジュニアはつぎのように言う。「グロスマンは、ぼくの親父を嫌っていた。たぶん親父が大きな金儲けに興味を持っていなかったからだ。アルバートはそればかり考えていたからね」

スージー・ロトロとジョーン・バエズ

[イギリスでの]撮影終了後、ボブはローマに行き、オデッタのツアーに同行中のグロスマンに合流した。(略)
ボブは、前の年の夏からイタリアで暮らしているスージーのことばかり考えていた。ローマの郊外ですごすあいだに、ボブはスージーに捧げる重要なラヴソング「スペイン革のブーツ」をつくっている。しかし皮肉なことに、スージーはちょうどニューヨークにもどったところで、ボブが会う機会はなかった。(略)
スージーを慕ういっぽうで、ボブはほかの女性への興味を失ってはいなかった。(略)青年時代のボブは根っからのプレイボーイであり、その後もその傾向は変わらない。たとえばスージーと別れているあいだに、ボブはゴスペルグループ、ステイプル・シンガーズのメイヴィス・ステイプルズにプラトニックな思いを寄せた。
(略)
 1963年1月、スージーはボブのもとにもどった。そしてすぐに、一年半前に耐えられなくて逃げだしたはずの、プレッシャーのある関係にひきもどされた。しかもボブが有名になっていたため、前よりも自分の生活を保つことがむずかしくなっていた。スージーはつぎのように言う。「イタリアからもどったら、まわりに知らない人たちが大勢いて、わたしの個人的なことにまで口出ししてきたの。『いちばんたいせつなとき』にボブのそばにいてあげなかったと怒っている人たちが、ほんとうにいたのよ。わたしは『ボブを捨てた女』だったの」と。またあるクラブに行ったときには、シンガーがスージーに向けているとしか思えない熱っぽさで「くよくよするなよ」を歌うということもあった。
 スージーはボブが有名人になったことで押しつぶされそうになっていたが、それでも『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケット用写真を撮るときには、ボブといっしょにポーズをとった。冬の日の夕暮れ、ボブの肩に顔を寄せて、ブラウンストーンの建物が並ぶ雪におおわれたヴィレッジを歩くスージーの写真は、人々の記憶にいまもとどまる60年代のアルバムジャケットのひとつとなった。それは同時に、望ましくない関心をひきよせることにもなった。スージーは「あのジャケットがなければ、アルバムの歌が何を歌っているかが知れわたることもなかったでしょうね。わたしたちのことが歌のなかにあるの。ボブがわたしのことを書いた歌のなかにね。全部、そこにあるのよ」
(略)
 ボブはPPMといっしょにニューポート・フォークフェスティヴァルに出演し(略)
バックステージで、ボブは映画スターのようにサングラスをかけ、贈り物としてもらった鞭を鳴らしていた。鞭のせいで、話題のカップルのまわりの空気がぴりぴりし、またスージーもフェスティヴァルに来ていたので、公然の秘密である恋愛を巡っての興奮がいっそう高まった。バエズは日曜の夜の最後にステージで「くよくよするなよ」を歌ったが、歌う前に、この曲はずっと昔に終わった恋愛を歌ったものだと説明した。スージーは泣きだしそうになって、会場を出た。トム・パクストンは「あのフェスティヴァルはボブにとっては、重要な突破口となった。評判が急速に広まって、まるでボブとジョーンの戴冠式のようだった。フェスティヴァルの王様と女王様のね」と言う。
(略)
ボブがバエズのツアーに参加することを知ったあと、スージーは西四番ストリートのボブのアパートメントでガス栓をひねって自殺を試みたらしい。(略)
「ボビーはたいへんな傷を残していったわ。あのころのボビーは最低な男だった」[とカーラ・ロトロ]
(略)
 この中絶が、みじめな最終的な別れをもたらした。1964年3月のある夜、カーラが仕事から帰ると、スージーとボブがキッチンで口論をしていた。「ふたりは別れたの。別れることに決めたのよ。それなのにボブが帰ろうとしなかったの」(略)
ボブは帰ることを拒否した。カーラが彼の体を押すと、彼も押しかえしてきた。やがてふたりはほんとうに争っていた。(略)結局、友達が呼ばれ、ボブは無理やりに追いだされた。
 ボブは別離に動揺し、カーラに対して怒り、むきだしの感情をこめたことばを綴って、彼の作品のなかでもとくに自伝的要素の強い曲となった「Dのバラッド」をつくった。そこには、ふたりの姉妹が登場する。彼はブロンズのような肌をした妹を愛するが、恋は裸電球の灯る部屋の喧嘩で終わり、姉――寄生虫と表現されていた――は彼に出ていけと叫ぶ。(略)カーラは寄生虫ということばに怒り、部屋代を払うために働いていたのは自分だと言い、さらにボブとスージーの邪魔をしていたような言い方に異議を唱える。
(略)
最終的には、ボブはこの歌をつくったことに良心の呵責をおばえていたらしく、1985年の『バイオグラフ』のライナーノーツでそれを語っている。「ぼくは告白の歌はつくらない。ほんとうは一曲つくったことがあるが、よいできじゃなかった――レコードにしたのは失敗で後悔している……ずっと前、三枚目か四枚目ぐらいのアルバムだ」。特定することを避けた、この漠然とした発言だけが、ボブがこれまでにカーラやスージーに対して示したおおやけの形での謝罪だ。しかし『バイオグラフ』が発売されたころ、ボブはカーラに電話をかけて昔話をして、彼なりの不器用なやりかたで和解しようとした。しかし、もう遅すぎた。このころにはスーパースターの彼の人生は、昔の友人たちとはあまりにもかけ離れていて、カーラは知らない人と話しているような気がしたと言う。
(略)
スージーは、ボブとの関係については慎重な発言しかしない。(略)「全部の歌を聞けば、それ以上ないほどよくわかるわ。わたしたちふたりのこと、ふたりで暮らしたときのことが、はっきりと歌のなかに書いてあるの」と。その思い出は複雑だ。「とてもいい思い出よ。同時にとてもつらい思い出でもあるわ」。

次回に続く。

フリーホイーリン・ボブ・ディラン

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