ディラン:グリニッチヴィレッジの青春

こんな表紙だけど、あくまでもディランの恋人の青春を描いた本で、ディラン&音楽関係ネタは1/4位。ディランの「彼女」としてしか扱われないことへの苛立ちも語られます。
ネタにされる恐怖と怒りが描かれた箇所。

[イタリアからサプライズ帰国してみれば行き違いでディランは英国へ]
ボブがみんなの前で悲しみをあらわにして嘆いていたとは想像もしていなかった。
 何軒かのクラブをまわってみたが、あまり歓迎されなかった。それどころか恋する男を放ったらかした冷たい女だと非難された。ディランが必要としていたときに、そばにいなかったと。彼が心の痛みを題材につくった歌をわざとわたしの前で歌う人や、残酷な恋人を責めるバラッドを歌う人もいた。
 ヴィレッジのフォーク界の人たちのあてこすりはひどかった。ボブが苦しんでいる様子をみんなに見せてまわったせいで、わたしが悪者になっていた。(略)わたしたちのあいだの感情までが公開されているとは思っていなかった。(略)ボブがくれた手紙や電話がすべて、劇場で上演されたかのようだった。そして休憩のあと第二幕が始まり、わたしがひとりで舞台に立っていた。わたしの出番だった。第一幕の男性は大喝采を受けたのに、わたしは野次られて酷評されていた。(略)
ボブとわたしを知るほんとうに仲のよい人たちは、決めつけずに理解してくれた。

グリニッチヴィレッジの青春

グリニッチヴィレッジの青春

なんとなくハルキ風

わたしたちは若く、すこしのお金で生きていけた。服はリサイクルショップで買うか自分でつくるかした。本やレコードを安く売る中古店がマンハッタン中にあった。そしてたいていの場合、クラブや劇場では、だれか知り合いが働いていて、ただで入ることができた。(略)
だれもがボブとおなじように、自分の家族についてはあまり語らなかった。(略)そういう時代だった。だれもがみんな自分の車をつくりなおすのに忙しかった。家族はそこに載っている荷物でしかなかった。

ウディ・ガスリー

が最高潮に達したころには、口をあまり開けずに話をし、笑うときは頭をうしろにのけぞらせ、「ハ、ハ」、でなければ短く「ハ」とはっきり発音する笑い声を立てた。歩くときは、船がゆっくり揺れているように歩いた。

ブラインド・ボーイ・グラント

ガーディスは、40年代、50年代といった旧世代のミュージシャンたちが出演するクラブツアーと契約していた。(略)
 ボブ・ディランも、ガーディスに出た大勢の旧世代のミュージシャンのバックでハーモニカを吹いた。
[ヴィクトリア・スピヴィー、ロニー・ジョンソン、ビッグ・ジョー・ウイリアムズ]
ベテランとの共演では、ボブは尊敬の気持ちをこめ、同時に少々のいたずら心を加え、ブラインド・ボーイ・グラントと名乗った。(略)
 巡回ツアーでやってくるブルースシンガーのなかに、ジョン・リー・フッカーもいた。彼はいつも静かにバーの椅子に坐り、話しかけてくる人すべてに笑顔で応じた。彼には話をするときに吃音があるが、歌うときにはなかった。

ホセ・フェリシアーノ

 ガーディスなどのクラブに出演していたころのホセ・フェリシアーノは、まだ十七歳だった。わたしは二歳しか年上でなかったが、彼が年の離れた弟のように思えて世話をやいた。
 ホセのなかには、いっぱいに音楽が詰まっていた。小柄だがからだは強靭で、声は甘くて、そして力強かった。とても魅力的な人で議論好きで、自分が進むべき道をよく知っていた。盲目であることでひるみはしなかった。わたしはよく、彼が地下のガーディスまでの階段を下りたり、ステージの階段を上がり下りしたりするのに手を貸した。ホセは自分がわたしの手をとって案内をしているふりをした。そうやって、どちらがリーダーであるのかをはっきりさせたのだ。もの静かな声で「どうしてぼくでなく、あのおかしなしゃべりかたをするやつとつきあうのかな?」と訊いてきて、そのあとボブの物真似をして見せたこともある。(略)
[コニーアイランドへドライブに行った時は]ホビー・マクファレンがするように、声だけでなく足や手を使い、車のさまざまな部分を叩いたり踏みつけたりして音楽を奏でていた。

イタリア留学中に届いた1962年のラブレター

 ここではたいしたことは起こっていないと思う――ボブ・シェルトンはジーンを待っている――犬は散歩を待ち、泥棒は年寄りのご婦人を待つ――子供たちは学校の始まりを待つ――おまわりは殴れる相手を待つ――殴られるほうの汚れた浮浪者は金を待つ――グローヴストリートはベッドフォードストリートを待つ――汚れものは洗濯を待つ――みんなは涼しくなるのを待つ――ぼくはただ、きみを待つ――。

フリーホイーリン・ボブ・ディラン

フリーホイーリン・ボブ・ディラン

フリーホイーリンのジャケ

[宣伝担当のビリー・ジェイムズと社員カメラマンのドン・ハンスタインが]来る日、ボブとわたしはいつもより早く起きて、部屋をかたづけた。
 ボブは念入りに、皺だらけの服を選んだ。わたしはセーターの上にボブの分厚いセーターを重ね着した。(略)
 撮影は楽しい雰囲気のなかで進行し、すこし経ったあと、ドンのすすめで、外で写真を撮ることになった。ボブはスエードのジャケットを着こんだ。その日の寒さにそぐわないジャケットだったが、ボブはイメージを優先させていた。(略)
 ボブと肩を寄せあい、応援するビリーの声を聞きながら、ドンに指示されるとおりにジョーンズストリートを歩いた。ボブは両手をジーンズのポケットに突っこみ、わたしにからだを寄せていた。ブリーカーストリートを背に西四番ストリートに向かって、ジョーンズストリートを進んだ。行き交う車のせいで、とけかかった雪が黒く汚れていた。凍った歩道はすべって歩きにくかったが、風は弱かった。わたしとボブはふざけて、からだをあたためようとした、ドンはシャッターを切りつづけ、配達のトラックが来て駐車したあとは、西四番ストリートに移動した。使われなかった写真を見ると、そのころにはふたりとも凍えきっているのがわかる。

アル・クーパー

 初めてアル・クーパーに会ったとき、彼の生き方、せいいっぱい人生を楽しもうとしているその姿勢に、わたしは強い印象を持った。(略)レコード店などでアルに会うことがあると、かならず何かに大興奮していて、熱い思いが伝わってきた。背が高く、細いが筋肉質のからだをしたアルは、奇想天外なジョークやばかばかしいオチのある話をたくさん知っていた。とてもおもしろい人であると同時に、真摯な意図を持つミュージシャンでもあった。
 [『追憶のハイウェイ61』]セッションのときも、アルがいちばん元気で、びっくり箱のようにスタジオのなかのいろいろなところから顔を出した。同時にいくつものことをやりながら走りまわっていた。(略)
 レコーディングのとちゅうで、アルはわたしを呼び、彼がオルガンを弾いているあいだ、そのオルガンのふたつの音を指で押さえていろと言われた。わたしにはできそうになかったが、アルは取りあわなかった。ほかのミュージシャンもとくに気にしていないようだった。結局、わたしは言われたとおりにしたが、何の歌だったのかはおぼえていない。アルにも訊いてみたが、おぼえてはいなかった。ただ「ライク・ア・ローリング・ストーン」でないのはたしかだ。

情景描写サンプル

 シックスアヴェニューと九番ストリートとグリニッチアヴェニューに囲まれた三角形の土地に女性用の拘置所があって、その風景はヴィレッジのなかでも目立つものになっていた。建物はぶかっこうで大きくて、隣に建つ繊細な建築のジェファーソンマーケット裁判所を小さく見せていた。この裁判所は、いまは公共図書館になっている。(略)
屋上にはフェンスを張った運動場があり、収容された女性たちはそこから通行人に嘲りのことばを浴びせた。