グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃

「朝日のあたる家」をディランに持っていかれたデイヴ・ヴァン・ロンクの回想録。

クラレンス・ウィリアムズ

先輩ミュージシャンのなかでも私がいちばん感謝しているのがクラレンス・ウィリアムズだ。クラレンスはもともとニューオーリンズ出身のピアノ奏者で、第一次世界大戦の頃ニューヨークに来た。1920年代の初めごろにはニューヨーク・ジャズの立役者としての名声をほぼ確かなものにし、まさにその名にふさわしい人だった。本物の腕利きのピアノ・プレイアーで、作曲と作詞、音楽出版を手掛けるだけでなく、いわゆる“レコード契約者”でもあった。当時、レコード会社が何か曲を商品化するときは、クラレンスのような人に依頼し、録音する曲の数に応じて必要な資金を与えたのだ。あとはすべて彼次第だった。選曲や作曲、編曲、ミュージシャンやレコーディング・スタジオの選定、すべての支払いを済ませたあとに残ったカネが彼の取り分になった。
(略)
有名なのがクラレンス・ウィリアムズ・アンド・ヒズ・ブルー・ファイヴという、ときにはルイ・アームストロングも参加したメンバー入れ替え制のグループだ。だが、クラレンスが歴史的地位を不動のものにしたのはブルース・ブームが始まってからのことだ。1920年ごろ、黒人シンガーのメイミー・スミスが歌った『クレイジー・ブルース』という曲がまぐれ当たりした。思いがけないことにその曲がミリオンセラーにせまり、突如、レコード会社間での食い争いが始まった。そのなかのひとつ、オーケー・レコーズがクラレンスに電話をし、「うちでもああいうのを出したい」と言ってきた。それでクラレンスは人材発掘のために南へ行き、才能溢れるブルース・シンガーを連れてニューヨークヘ戻ってきた。彼女の名前は、ベッシー・スミス。“発見者が所有者”というむかしながらの掟に従い、クラレンスがベッシーの初期のレコードの契約者になった。
(略)
私がクラレンスと知り合いになった頃、もう引退していた彼は――125番ストリートにハーレム・スリフト・ショップという小さな店を持っていた。そこがオフィス兼根城だった(略)
[二台のピアノがあるだけの情報センターのような場所]
ニューヨークを通るよそ者のピアニストたちがクラレンスに挨拶に来るだけでなく、市内に住むピアニストたちもクラレンスに会いに来た。こうして16歳か17歳の私は、店の隅に坐ってクラレンス・ウィリアムズがジェイムズ・P・ジョンソンやウィリー・“ザ・ライオン”・スミスやジョー・サリヴァンたちとピアノでデュエットするのを聴くことができた。
(略)
[たくさんの逸話やゴシップ、ミュージシャン・トークを聞けたが]
とてもショックを受けることもあった。そこにいるミュージシャンたちは私の大好きな音楽の生みの親なのに、実はお互いを腹の底から憎み合う意地の悪い気難し屋の年寄りだとわかることが本当に多かったからだ。たとえばクラレンス・ウィリアムズにジェリー・ロール・モートンの話を振ると、“あの盗作魔!?あの盗人か!?”というような反応をされ、かんかんに怒らせてしまうのだ。(略)デューク・エリントンモートンについては同じように感じていたらしい。(略)
『セント・ルイス・ブルース』や『メンフィス・ブルース』など、たくさんのヒット曲を書いたW・C・ハンディのことをどう言ったかは見当が付く。実際にこう言っているのだ。「そうだな、あの頃は著作権のない曲がごまんとあったんだ……」
 その頃の私は、こういうことに失望感を覚えていた。

セロニアス・モンク

[1950年代中頃]私たちの寝泊りするロフトがあったクーパー・スクウェア15は、もとの“ファイヴ・スポット”があった場所の目のまえで、その頃はほぼ決まってセロニアス・モンクが演奏していた。午後そこへ行ってバーで待っていると、バンドを連れたモンクが来てリハーサルをし、新しい曲の練習をする。昼間はビールが10セントか15セントのうえ、モンクとコルトレーンのあのバンド演奏が聴けるのだ。さらにいいことは、バーの隅のほうにアコーディオン・ドアのついた古い電話ブースがあり、よくそこで誰かがマリワナを巻いていた。酒の値段が変わる五時か六時になると、彼らは夜のステージの準備のために帰宅する。そこで電話ブースに入ると、ドアの隙間にマリワナの吸いさしが詰まっているのだ。彼らは粗悪品などには手を出さず、本当にいいものしか吸っていないので、私たちはそこにあるマリワナの吸いさしをぜんぶ集めてマリワナを巻き直し、いうなればダダでハイになっていた。
 あの頃はタダで聴けるいい音楽がそのへんにたくさんあった。アレクサンダー・シュナイダーがワシントン・スクウェア・パークで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を指揮しているのを見たことがある。そして、もちろんフォークシンガーたちもいた

フォークへの偏見

私のフォーク・ミュージックに対する関心は、よかれ悪しかれジャズ仲間と運命をともにした時点ですべて捨て去られていた。というのも、もしすべてのジャズ・ミュージシャンの意見が一致することがあるとしたら、それはフォーク・ミュージックというのは救いがたいくらいに野暮だ、ということだったからだ。私たちの考えでは、そんなものは“田舎のへぼ音楽”で、自分の楽器の演奏の仕方もろくに知らず、“カウボーイ・コード”で何とかごまかしている奴らの音楽だ、ということになっていた。
(略)
だがしだいに、そんな過激なロータリークラブの歌の集いの周辺で活動している、かなり腕の立つミュージシャンたちもいることがわかってきた。トム・ペイリーやディック・ロズミーニ、フレッド・ガーラックのような人たちは初期のジャズと同系の演奏をしていて、その繊細さと衒いのなさはまさに衝撃だった。そういう演奏は以前にも聴いたことはあったが、それはジャズ・レコードを探していてたまたま見つかった古いSPレコードだけでのことだったのだ。

'Billy Lyons & Stack O' Lee' FURRY LEWIS

 

ファリー・ルイスの『スタックオーリー』

をはじめて聴いたときは、ベースとメロディを二本のギターが別々に弾いているのだとばかり思っていた。フィンガーピッキングなんてものがあるとは夢にも思わなかったのだ。(略)
1954年か55年ごろだと思うが、日曜の午後にたまたまワシントン・スクウェア・パークを歩いていたら、ニューヨーク・マーティンという、かなり小さくて、かなりいい音の出る古びたギターを弾いている男に気付いた。なんと『スタックオーリー』とびっくりするほどそっくりな演奏をしているではないか。不意に私はその男から目が離せなくなった。というのも彼がそれをたったひとりでやっていたからだ。親指でベース音を鳴らし、あとの四本の指でメロディを弾いている。そんな弾き方を見たことがなかったので、私は立ったままじっと耳を傾け、彼が演奏を終えるとすかさず引き止めて、どうやっていたのか見せて欲しいと頼んだ。それがのちにニュー・ロスト・シティ・ランブラーズの結成メンバーとなるトム・ペイリーだった。彼は本当にいい人で、私の馬鹿げた質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれたうえに、ゆっくりと演奏してみせて大まかなコツを教えてくれた。
(略)
[酔客を]相手に、キング・オリヴァやジェリー・ロール・モートンの曲を演奏するのにはもううんざりしていた。たとえそれに耐えられたとしても、その頃のジャズ・シーンは停滞していたもいいところで(略)音楽からすっぱり足を洗うつもりでもなければ、フォーク・ミュージックヘの転向が唯一の道だった。こうして私は大事に養ってきたジャズの俗物根性を捨て、フィンガーピッキング・ギタリスト兼シンガーとして生まれ変わることにしたのだ。

フォーク・リヴァイヴァル

[口承プロセスが衰退したため]現代アメリカにフォーク・ミュージックと呼べるものはほとんど残っていない。(略)だから“フォーク・リヴァイヴァル”というのは撞着語法的な考え方なのだ。(略)
まず理解しておかなければならないのは、庶民〔ザ・フォーク〕とはほとんど関係がないということだ。いつも中流階級の支持者たちがいて、庶民という捉え方が――それが誰であろうとも――必ず鍵になっている。私が加わっていた当の団結運動は、私が参加する15年ほどまえ、大恐慌時代の左翼運動の流れをくんで始まったものだった。その頃、命がけのストライキや、失業、立ち退きを余儀なくされた大勢の小規模農家たちへ、それ自体も大きな打撃を受けていた中流階級の同情と支持が集まった。“共産党に入ろう”という動きだ。
(略)
アパラチア地方で炭鉱労働者や織物工たちと交わり、また田舎やゲットーの黒人たちと活動するなかで、コミュニストのフィールド・ワーカーたちの一部が、南部の山岳地帯や黒人のあいだに歌の伝統(特にゴスペル・ミュージック)があることを知った。彼らは、こうしたフォークソングを社会の記録とみなした
(略)
[都会の党員にはあまり支持されず]傑作の数々は忘れ去られ、いまではすっかりお馴染みのピケ・ラインと集会が“フォークシンガー”の特徴として浮上してきた。
(略)
もうひとつ、別な流れも起きていた。1930年代の中流階級の左翼と労働者の多くは移民の第一世代か第二世代なので、フォーク・リヴァイヴァルによって彼らにとってのアメリカ人としてのルーツを作ることができたのだ。これは特にユダヤ人にあてはまる。このときのフォーク・リヴァイヴァリストの半数はユダヤ系で、アングロ・アメリカンの伝統に同化するプロセスの一環としてそうした音楽を取り入れた――そんな伝統自体、大部分がただの張りぼてなのだが、それでもある程度の共通項を手に入れることはできた
(略)
 都会のフォークシンガーたちは本やレコード、収集旅行を通じてレパートリーを増やし、伝統的なシンガーとは違い、政治的な理由と芸術的な理由から自覚を持ってフォーク・ミュージックに専念した。その結果、彼らの多くは人づてに知った経験を歌ったり書いたりすることで、自分たちのものではないペルソナを取り入れなければならなかった。これは人格の統合を非常に不安定なものにし、大いに精神的な矛盾を引き起こしたのだが、政治闘争まっ盛りなうえ、音楽的発見の喜びに沸き立っている1930年代後半には、そんな問題など顧みられなかった
(略)
1939年には、グリニッチ・ヴィレッジの西10番ストリートにあるアルマナック・ハウスの一種のコミューンを中心に、この動きが展開していた。住人はそのときどきにより入れ替わり、ピート・シーガー、アラン・ロマックスとベス・ロマックス、ウディ・ガスリー、リー・ヘイズ、ミラード・ランペル(略)なかでも抜きんでて才能があり、影響力が大きかったのはガスリーだった。
(略)
ガスリーが非常にゆるい芸術的主導権を行使することで(ほとんどの実務はシーガーとランペルに任されていたらしい)、アルマナック・ハウスはある種の歌工場のようになり、信じられないようなスピードで、時事的かつ特別な場を意識したプロテスト・ソングを量産し、さらに定期的な“フーテナニー”まで主催していたのだ。
(略)
あの頃は政治と音楽がさまざまな形で重なり合っていたのだが、これまで、それについてすべて理解したうえでフォーク・シーンの歴史を書いている人はいない。たとえば、政治的な歌を歌わないことを選んだ私たちのようなシンガーは、政治に興味がないからそうしたのだ、と結論付けている人たちがいる。確かに、前世代の人たちが政治的な立場に基づいてこうした選択をしたという例はあるが、私たちの場合、多くは純粋に美学に基づく決断なのだ。私について言えば、あれやこれやと何かのきっかけで集会やデモやチャリティ活動に参加し、歌を歌う気ならいつでもあったが、政治をテーマにした歌はほとんど歌わなかった。私のスタイルにそぐわないし、納得のいくように歌えたことが一度もないのだ。(略)私は常に強い政治的見解を持っているシンガーではあるが、私の音楽は、ほかの職人にとっての作品もみんなきっとそうであるように、私の政治観とは関連していないと感じていた。左翼の家具職人だからといって、その人が左翼の家具を作るとは誰も思わないだろう?

56年頃、

日曜午後のワシントン・スクウェア常連となり

 普段は六、七組のミュージシャンのグループがいて、ほとんどがアーチと噴水のそばの場所を取っていた。ダンサーのための場所を充分に確保しなければならないので、いちばん目立つのがシオニストのグループで、いつもサリヴァン・ストリート側の敷地に広がって『ハバ・ナギラ』を歌っていた。そして、スターリニストのLYLのグループもいた。例の“民衆の歌”的なサマー・キャンプの臭いがする大勢の若者たちに囲まれてジェリー・シルヴァーマンのような人がギターを弾き、古い労働組合の歌や、《シング・アウト!》誌から選んだ歌を歌っていた。ときにはその数が百人単位に上り、みんなで『ホールド・ザ・フォート』を合唱していた。ハーモニーの歌い方を知っている参加者がけっこういるので、実はかなり聴きごたえがあった。
(略)
都会のカントリー・ミュージック・シーンの草分け、ロジャー・スプラングが率いるブルーグラス・ミュージシャンたちは、いつも離れたところに陣取っていた。私の知る限り、ロジャーはバンジョーのスクラグス・スタイルを独力で都会に持ち込んだはずだ(略)
そして私を含め、バラッドやブルースを歌う様々な人たちがいたが、だいたい歌う気になっている誰かのまわりに分かれて集まっていた。
(略)
私たちはほかのグループほど大きな音をたてず、ほかのグループ――シオニスト、LYL、ブルーグラス――のメンバーを、死んだ人までひとり残らず嫌っていた。もちろん、あの頃の私たちはたくさんの人たちを嫌っていたのだ。
(略)
あのワシントン・スクウェアでの日曜の午後というのは、私たちの世代全体に大きな刺激を与えるシーンだった。年を追うごとにどんどん規模が大きくなり、1950年代の後半には観光客が訪れるようになった。それはある意味では邪魔だったが、ある意味では観客がいるということなので、基本的にはまだ修行中の私たちにとってはいいことだった。ソロイストなら、ただ坐って――立っていてもいいが、私はいつも坐っていた――演奏を始めれば、人が集まってくるのだ。(略)
ジャズ界にいた頃と同じように、声量のおかげで私は有利だった――うまいか下手かは別にして、必ず声が通るので、いつもかなりの数の観客がいた。ちなみに、これにはまったくカネが絡まなかった。一度として、ワシントン・スクウェア・パークで帽子を回したり、カネをもらったりしている人を見たことがない。

Bessie Smith-Back Water Blues

フォークとジャズ

実のところ、フォーク・シーンに私が惹かれたのは、一部のフォーク・ミュージシャンがしていることと私がずっと取り組んでいる音楽のあいだにつながりがある、ということが耳でわかったのが大きな理由なのだ。ジャズと一部の古いフォークのスタイルは、少なくとも初期の20年から30年のあいだ、お互いにかなり影響を与えていたが、その時代はあの頃の私がいちばん関心を持っていたところだった。ベッシー・スミスが歌う『バックウォーター・ブルース』といった曲は、ジャズなのかフォークなのか? そういう質問に答えるのが嫌いだった。
(略)
最初にレッドベリーを聴いたとき、すぐに、自分の馴染みの音楽と彼の音楽がそっくりだと思った。彼がバンドに合わせてではなく自分でギターを弾きながら歌うことを除けば、彼の歌と私がさんざん聴いているトラッドジャズのレコードの曲はそんなに変わらなかったのだ。だから、しばらくのあいだ私はレッドベリーにそうとう入れ込み、彼の曲をたくさん聴いてできるだけ彼に近づけるようにそれらを練習した。
(略)
こういうつながりがあったおかげで、ブルースが私にとってフォークの世界への入り口となった
(略)
もちろん、フォーク・ミュージシャンたちから得るものも大きかった。(略)
ここで強調しなければならないのは、あの頃のフォーク・シーンはその後のシーンに比べてずっと多彩だったということだ。私たちは小規模のグループだったので、ブルーグラスのプレイアーはフラメンコのギタリストと知り合いで、フラメンコのプレイアーはブルース・シンガーと、ブルース・シンガーはバラッドの伝承者と知り合いで、そして私たちはみんなアイリッシュ・ミュージシャンたちと知り合いだった。こうして膨大な数の他花受粉が起きたのだ。たとえば、あの頃の私はフラメンコの歌い方やギターの弾き方を少し身に付け、チャイルド・バラッドのレパートリーもそれなりにあった。ジョン・ダウランドの『エアズ・フォア・フォー・ヴォイシズ』さえ一部覚えていたのだ。
(略)
のちにこのシーンがさらに広がると、こうしたニッチがもっと専門的なものになり、異なるグループがそれほど交流しなくなってしまったことが実に残念だった。音楽界の棲み分けが進み、もはやいまの人たちはあれほど幅広い影響を受ける機会はない。

次回につづく。