ボブ・ディラン自伝 ジョン・ハモンド、フレッド・ニール

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

ジョン・ハモンド

 リーズ・ミュージック・パブリッシング取締役のルー・レヴィにタクシーに乗せられ(略)ジャック・デンプシーのレストランヘ(略)
ジャックはわたしに向かって拳を振りかざして見せた。
 「それじゃヘビー級には軽すぎる。もっと肉をつけなきゃだめだ。それにもう少しいいものを着ろ、冴えたかっこうをしろって――リングの上じゃ、服なんてどうでもいいけどな。強く殴りすぎることを恐れるな」
 「ジャック、この子はボクサーじゃない。歌をつくっていて、うちが作品の著作権管理をするんだよ」
 「そうだったのか。よし、その歌が聞ける日を楽しみにしよう。幸運を祈るよ」(略)
わたしはリーズ・ミュージックに歌の著作権管理をまかせる契約をしたところだった。(略)
 ルーに会うことになったのは、ジョン・ハモンドの仲介によってだった。ハモンドはわたしをコロンビア・レコードと契約させ、そしてルーに面倒をまかせた。ハモンドはオリジナル曲を二曲聞いただけで、わたしがもっとたくさんの曲をつくれると決めていた。(略)
 「ジョンはきみをえらくかっている」ルーは言った。
 ジョンとは、ジョン・ハモンドのことだ。偉大なる新人スカウト、レコード史の記念碑となる数々の大物アーティストの発掘者。ビリー・ホリデイテディ・ウィルソンチャーリー・クリスチャンキャブ・キャロウェイベニー・グッドマンカウント・ベイシーライオネル・ハンプトン――アメリカの日常生活のなかにこだまする音楽を創造したアーティストたち。すべてハモンドが世に出した人たちだ。ハモンドは、ベッシー・スミスの最後のレコーディング・セッションも指揮していた。彼は伝説の人、本物のアメリカの貴族だった。母親はヴァンダービルトの本家の出で、ジョンは上流社会のなかで何不自由なく育てられた。しかしそれに飽き足らず、心から愛するものを、つまり音楽を、とくにホットなジャズやスピリチュアルやブルースの響きわたるリズムを追い求めた
(略)
彼には先見の明があり、未来を見ていた。その彼がわたしを見て聞いて、わたしの思いを感じとり、将来性を信じてくれたのだ。わたしを、最先端を行く天才児としてではなく、ブルースやジャズやフォークの伝統の延長上に立つ者としてとらえている。ハモンドはそう話してくれた。(略)
わたしがやっていたのは毒がいっぱいの辛口フォークソングであり、ラジオで流れるものとはまったくちがい、営利の追求と無縁であるのは明白だった。しかしハモンドは、自分が求めているのはそういうものではない、きみがやっていることの意味はすべてを理解していると説明した。
 ジョンが言ったのは「わたしは嘘のなさを評価する」ということばだった。がさつで率直な言い方だったが、その眼は楽しげに輝いていた。

カフェ・ホワッ?、

フレッド・ニール、デイヴ・ヴァン・ロンク

 ニューヨークに来たのは、レコードで聞いていたシンガーを見るためだった(略)なかでもいちばん会いたいのはウディ・ガスリーだった。
(略)
 到着したのは冬のさなかだった。(略)
 カフェ・ホワッ?は、グリニッチヴィレッジの中心のマクドゥーガルストリートにあるクラブだった。地下に広がったほら穴で、強い酒はなく、薄暗い照明に低い天井、それに椅子とテーブルがあるだけのだだっ広い食堂のような場所だ――昼間から営業していて、午前四時に閉店する。わたしは人に教えられて、カフェ・ホワッ?の昼のショーを仕切るフレッド・ニールというシンガーに会いに行った。(略)
彼は非常に感じがよかった。何をやるのかと訊かれて、わたしは歌とギターとハーモニカと答えた。彼が何かをやってみろと言った。そして約一分後、自分のステージのとき、後ろでハーモニカを吹いていいと言ってくれた。わたしは天にも昇る心地だった。少なくとも、そこは寒さを避けていられる場所だった。いいことだった。(略)
出し物はふつうはどれも十分から十五分だったが、フレッドだけは好きなだけ、やる気が続くだけ長く演奏した。彼はステージでよくしゃべり、服装は保守的でいつも暗く落ちこんでいた。縮れ毛におおわれた頭、ビーチ色をした顔、謎めいた眼で人をみつめ、ブルーノートを歌い、マイクがあってもなくても垂木に響きわたる、怒りのこもった力強いバリトンの声を出す。彼はその店の皇帝であり、ハーレムまで、つまり熱心な取り巻きまで持っていた。彼には逆らえなかった。すべての中心だった。フレディは何年かあとに「うわさの男」というヒット曲をつくる。
(略)
 カフェ・ホワッ?の昼のステージは、だれでもあり何でもありのごた混ぜだった。コメディアン、腹話術師、スティールドラムのグループ、詩人、女性のものまね師、ブロードウェイ作品を歌うふたり組、帽子からうさぎを出す手品師、客に催眠術をかけるターバンを巻いた男(略)
 昼間のめちゃくちゃな見世物は夜八時ごろで終わり、そのあとプロのショーが始まった。リチャード・ブライアー、ウディ・アレン、ジョーン・リヴァーズ、レニー・ブルースといったコメディアン、ジャーニーメンのようなコマーシャルなフォークグループがステージを占領する。昼はステージに立っていただれもが、客になる。午後の出演者のなかに、ファルセットの声で話すタイニー・ティムがいた。彼はウクレレを弾き、1920年代の古いスタンダード曲を女性のような声で歌った。
(略)
ムーンドッグもステージに立っていた。ムーンドッグはほとんどのときを通りで暮らす盲目の詩人だった。ヴァイキングの兜をかぶり、体に毛布を巻きつけ、毛皮の長いブーツをはき、ステージでは独白体の詩を読み、竹笛と口笛を吹いた。ふだんは四十二番ストリートで、それをやっていた。
(略)
フレッドはわたしによく似ていて、礼儀正しいが過度に友好的ではなく、一日の終わりに「ほら……面倒に首を突っこむなよ」とだけ言って小銭をくれた。
 しかし彼との仕事のいちばんいいところは、何といっても食い物だった――フレンチフライとハンバーガーが好きなだけ食べられる。昼の適当な時間にタイニー・ティムとわたしはキッチンに行く。コックのノーバートが脂肪たっぶりのハンバーガーをつくっておいてくれている。
(略)
わたしはフォークウェイズからレコードを出すことを目指していた。フォークウェイズの仲間いりをしたかった。いいレコードはすべてフォークウェイズから出ていた。(略)
フレッドに「レコードを出しているのか」と訊いたことがあるが、彼は「それはおれのゲームじゃない」と言った。フレッドはかげりを音楽上の有効な武器としてうまく使っていたが、技術が高くて迫力はあるものの、パフォーマーとしての何かが欠けていた。それが何なのかはわからなかった。デイヴ・ヴァン・ロンクに会って、それがわかった。
 ヴァン・ロンクはギャスライト――その付近ではもっとも有名で、ほかのどこよりも格が高く簡単には出演できないクラブ――に出ていた。(略)知りあいのつてがなければ出演者の一員にはなれなかった。オーディションもなかった。わたしはそこに出たかった、出なくてはならなかった。(略)
わたしは中西部にいるころに彼のレコードを聞いてとてもよいと思い、レコードの曲をそっくり真似していた。彼は情熱的に刺激的に、血気盛んな兵隊のように、そして数々の試練を乗り越えてきたように歌った。ヴァン・ロンクは叫ぶこともささやくこともできた。ブルースをバラッドに、バラッドをブルースに変えることもできた。わたしは彼のスタイルが好きだった。彼は当時のグリニッチヴィレッジの中心であり、王者として君臨していた。
 寒い冬のある日、トンプソンと三番ストリートの交差点のそばで、雲のあいまから太陽が弱々しく射していたのに突然の雪が散らつきはじめたとき、ヴァン・ロンクが凍りつくような静寂のなかを歩いてくるのが見えた。まるで風が彼をわたしのいるところに向かわせているかのようだった。わたしは話しかけたかったが、なぜかそうできなかった。ただ彼が過ぎていくのを眺め、彼の眼が輝いているのを見た。
(略)
 わたしは午後にカフェ・ホワッ?に行くのをやめた。二度と足を踏みいれなかった。フレッド・ニールとも会わなくなった。カフェ・ホワッ?に行くかわりに、アメリカのフォークソングの砦、フォークロア・センターに通いはじめた。(略)フォークミュージックに関係あるすべてのものを売ったり告知したりしていた。(略)
海の水夫の歌、南北戦争の歌、カウボーイの歌、哀歌、キリスト教集会所の歌、黒人差別反対の歌、組合の歌(略)
[店の奥の]狭い室内いっぱいにアメリカのレコードがあり、蓄音機もあった。(略)
[店主のイジー・ヤングはレコード聞かせてくれた]
ひどく込みいった現代世界に、わたしは興味を持てなかった。それは重要でなく、意味がなかった。魅力がなかった。わたしにとって新しくて生き生きしたもの、わたしにとっての現在とは、タイタニック号の沈没やガルヴェストンの大洪水、トンネル掘りのジョン・ヘンリー、ウエストヴァージニア鉄道で男を撃ったジョン・ハーディなどだった。わたしにとっては、そうしたことがいま現実に起こっていることだった。それこそがわたしが思いを馳せるニュースであり、留意して記億にとどめるべきものだった。
[フォークロア・センターにギターを買いに来たヴァン・ロンクに歌をきかせ、ギャスライトで歌うことを許される]

Tiny Tim - Tiptoe Through The Tulips

TIPTOE THROUGH THE TULIPS/RESURRECTION

TIPTOE THROUGH THE TULIPS/RESURRECTION

  • アーティスト:TINY TIM
  • 発売日: 2000/01/01
  • メディア: CD

記憶の音、列車、鐘、ロイ・オービソン

 わたしはごく小さいころから、列車を見て、その音を聞いていた。その光景と音はいつも安心感を与えてくれた。大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。(略)
鐘の音も、いつもわたしを落ち着かせた。鐘の音は子どものころから聞いていた。鉄の鐘、真鍮の鐘、銀の鐘――鐘は歌う。日曜日、礼拝のとき、休日。重要な人が死んだときや、だれかの結婚式には、鐘が大きく鳴らされる。特別のときにはいつも鐘が鳴る。その音は心地よい。わたしはドアの呼び鈴やNBCラジオのチャイムの音まで好きだ。
(略)
 いつもわたしはラジオで音を探していた。列車や鐘と同じように、ラジオはわたしの生活のサウンドトラックだった。ダイヤルを回していると、小さなスピーカーからロイ・オービソンの声が飛びだした。新曲の「ランニング・スケアード」が部屋に響きわたる。(略)
あらゆるジャンルを超越していた――フォーク、カントリー、ロックンロール、そのほかの何もかもを超えていた。さまざまなスタイルを、いまだ発見されていないものまで含めて混ぜ合わせていた。ロイには、意地悪くて恐ろしい声を出しておいて、つぎの箇所ではフランキー・ヴァリなみのファルセットで歌うという芸当ができた。ロイにかかるとマリアッチを聞いているのか、オペラを聞いているのかわからなくなる。彼はいつも聞く者たちの注意を引きつけた。歌は彼にとって血と脂肪、すなわち神への捧げ物だった。彼はまるでオリンポスの山頂に立つたかのように歌い、本気でそれをやっていた。

Roy Orbison - Running Scared(1961)

読書

わたしは主として詩の本を読んだ。バイロンシェリー、ロングフェローにポー。ポーの「鐘」を暗記して、ギターにのせてメロディをつけたこともある。
(略)
 ページを音読することもよくあり、わたしはことばの響きが好きだった。ミルトンの抵抗の詩『ピエモンテの虐殺』。イタリアのサヴォイ公が無実の者たちを殺害したことを語る政治的な詩だ。この詩はフォークソングの歌詞に似ていたが、ずっと高雅な感じがした。
(略)
子どものころのわたしは本や作家に夢中になることはなかったが、物語は好きだった。神秘的なアフリカについて書いたエドガー・ライス・バロウズ、西部の伝説を書いたルーク・ショート、それにジュール・ヴェルヌH・G・ウェルズ。こうした作家が好きだったが、それもフォークシンガーを知るまでのことだった。フォークシンガーの歌は、歌詞を何番かまで歌うだけなのに、一冊の本のようだった。

Gorgeous George vs. Hans Schnabel (11/03/1950)

ゴージャス・ジョージ

[何をやっても認められない時]思いがけないところからのウインクやうなずきが、途方に暮れてあがくだけの単調な時間に変化をつけてくれることがある。
 わたしの場合、それは有名レスラー、ゴージャス・ジョージが故郷の町に来たときに起こった。1950年代なかば、わたしはヴェテランズ・メモリアル・ビルの州兵訓練用体育館のロビーで歌っていた。その建物ではさまざまな種類の催しがおこなわれていた――家畜見本市、ホッケーの試合、サーカス、ボクシング、巡回説教師による信仰復興伝道集会、カントリー・アンド・ウエスタンのショー。(略)
[ゴージャス・ジョージ一行は]ゴリアテ、ヴァンパイア、ツイスター、ストラングラー、ボーンクラッシャー、ホーリー・テラー、ミジェット・レスラー、女子レスラー、ほかにもたくさん出演者がいた。わたしはいつものように、人がやってきてはそれぞれの方向へ散っていくロビーで、間に合わせの台に上がり、だれも注意を向けてくれないなかで歌っていた。突然、ドアが勢いよく開き、ゴージャス・ジョージその人が入ってきた。バックステージを抜けるのでなく、嵐のような勢いでまっすぐ建物のロビーに入ってきた彼は、ひとりで四十人分に見えた。それがゴージャス・ジョージ、期待どおりの輝きと活力にあふれた、堂々とした栄光の人だった。付き人をしたがえ、バラを持った女性に囲まれ、豪華な毛皮に縁どられた黄金色のケープをまとい、長いブロンドの巻き毛をなびかせていた。その彼が間に合わせのステージの横を通り、音楽のほうに眼を向けた。足を止めはしなかったが、月のような光を放つ眼でわたしを見た。そしてウインクをして声に出さずに「いい調子だよ」と言った。
 ゴージャス・ジョージが本当にそう言ったのかどうかは重要でない。彼がそう言ったとわたしが思ったことが重要で、わたしは決してこのことを忘れなかった。彼から認められたこと、そこから勇気を得たこと――それだけでその先数年間やっていくのに充分だった。(略)ゴージャス・ジョージ。強く大きな人。ゴージャス・ジョージは、人類全部を合わせたぐらいすごいと言われていた。本当にそうだったのかもしれない。

ラジオドラマ

中西部で永遠に続くように感じる少年期を過ごしていたころから、ラジオ番組はわたしの意識の大部分を占めていた。(略)
ラジオから四輪馬車と拍車の金属音が聞こえる『ローン・レンジャー』。科学の徒である金持ちが世の中の悪を裁く『シャドウ』。『ドラグネット』は警官の物語で、テーマ音楽がベートーヴェンの交響楽からとったような音だった。『コルゲート・コメディ・アワー』は、いつも腹が痛くなるほど笑えた。
 遠くて行くことができない場所などなかった。すべてが見えていた。サンフランシスコのホテルには銃を持ったパラディンがいて、依頼人を待っている。サンフランシスコについては、それを知っているだけで充分だった。わたしは、「石」とは宝石のことであり、悪者はコンヴァーティブルを運転し、木を隠すなら絶対にみつからない森がよいことを知っていた。わたしはラジオを聞き、その興奮に胸を躍らせて大きくなった。ラジオは世のなかのしくみを知る手がかりや空想の材料を与えてくれて、わたしの想像力を剌激した。ラジオドラマは不思議な力を持っていた。
(略)
マイク・ハマーの哲学も身につけた。おれにはおれの正義がある。裁判所はのろまでややこしすぎて、ことを片づけてくれない。法律にけちをつける気はないが、いまはおれさまが法律だ。死人は口がきけない。だからおれが代わりに話している、わかったか?

自分で歌をつくる

 自分で歌をつくろうと思ったのがいつだったのかはわからない。そのころ歌っていたフォークソングの歌詞は、わたしが世界に対して感じていることをうまく表現してくれていた。その半分でも的確に自分の気持ちを表現してくれるものを、わたしはまだ自分の手でつくりだせずにいた。それは徐々に始まったと思う。ある日、眼を覚まし、ふいに曲をつくろうと思い立ったりはしない。たくさんの歌を知っていて、毎日さらに歌をおぼえるシンガーであれば、とくにそうだろう。機会は、何かを変えたいとき――すでに存在しているものを、まだ存在していない新しい形に変えたいときにやってくる。そうやって始まることもある。また自分のやり方で歌いたい、ぼんやりした幕の向こうにあるものを自分自身で見たいという場合もある。歌がやってくるのをみつけて、それを招きいれるというようなことではない。そんなに簡単ではない。たとえばスケールの大きな歌を書きたいと思うとする。あるいは自分の身に起こった変わったこと、自分が見聞きした変わったものについて何かを言いたいと思うとする。そのためには自分が何を言いたいのかを知り、それを理解し、ことばに置き換えなくてはならない。昔の人たちが歌づくりのときに使用した的確な表現は、簡単に得られるものではない。ひとつの歌を聞いて、考えが大きく前進することもある。自分が考えるのと同じパターンを歌のなかに見るのだ。わたしは歌を「よい」「悪い」で区別したことはない。ただ、それぞれちがう種類のよい歌と見るだけだ。

マイク・シーガー

マイクのような人はほかにはいない。まるで公爵のよう、中世の遍歴の騎士のようだ。フォーク・ミュージシャンの最高の手本だ。彼ならば、ドラキュラの黒い心臓に杭を打ちこむこともできるだろう。(略)
マイクはさまざまな分野を網羅し、古い演奏法のカタログのようにあらゆる種類の演奏をし、デルタブルースラグタイムミンストレル・ソング、バック・アンド・ウイング、ダンスリール、プレイ・パーティソング、賛美歌、ゴスペルなどの独自の表現法をマスターしていた。マイクをじかに見て、わたしは衝撃を受けた。彼の歌と演奏がうまかったからではなく、それぞれの歌の可能性を最大限に引きだしていたからだ。(略)
 自分が正しい道にいること、さまざまな知識をじかに学んで吸収し、歌詞やメロディやコード進行を暗記するのがまちがいでないことはわかっていた――しかしいま、その知識を実践に移すには一生かかることがわかった。眼の前にいるマイク・シーガーにはそんな必要がない。彼はありのままでいれば、それでいいのだ。マイクはすばらしすぎるくらいすばらしいが、こっちはどうやっても、生きているあいだに「すばらしすぎるくらいすばらしく」なることはできない。マイクのようにすばらしくなるには、ほかのだれでもないマイク本人にならなくてはならない。(略)
フォークソングは人生の真実について歌うが、その人生自体にかなりの嘘が含まれる。しかもわたしたち自身がそれを望んでいる。そうでなかったら快適に生きられない。(略)
フォークソングの意味は変わるものであり、同じ曲がべつの瞬間にはちがうものになる。歌う人と聴く人によって、フォークソングは変容する。
 マイクが知らない、わたしだけのフォークソングをつくったほうがいいのかもしれないという考えが湧いてきた。その考えは、わたしをはっとさせた。
(略)
わたしには地図があり、必要であれば何も見ずにそれを描くこともできる。しかし、いま、その地図を捨てなくてはいけないのがわかった。今日や今夜ではないが、近いうちにそれを捨てなくてはいけない。

次回に続く。

 

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