ポール・マッカートニー 告白・その2

前回の続き。
あの時、ライブをやりたくなくて逮捕されたのかあ。

ポール・マッカートニー 告白

ポール・マッカートニー 告白

 

1970年、ソロ・アルバム

 アルバムにするつもりはなかったと思う。レコーディングがしたくてしていただけで。(略)
 今のぼくにとっては、幸せだった時代の最高の思い出だ――リンダと一緒に暮らしはじめたころの。(略)彼女、家にギターとアンプが置いてあるのを見て、「あなたがギターを弾くなんて知らなかったわ!」と言ったんだ。それで、ああ、ちょっとしたブルース・ギターならお手のものさ、これもあれも弾いたのはぼくなんだ、〈タックスマン〉のギター・ソロとか、なんて話をしてね……
(略)
[ビジネス的問題で難しい時期]
家庭をスタートさせたことが逃げ道になってくれたんだ。ビートルズだけが人生じゃないのに気づいたと言うか。(略)とにかく逃げ出したい一心だったんだ。
 「一体どうしたら、あの重苦しいミーティングから脱け出せるんだろう?」と自問してね、「だったら、行かなきゃいいんじゃないか?」となったんだ。チーン!こいつはすばらしい計画だぞ!ボイコットしてやれ。世紀の名案って感じだった。
(略)
このレコードづくりは「そうだ、ぼくはこれが好きだったんじゃないか」って感じだった。それ以外は、外の世界はみんなクソだったからね。(略)でも家のなかに入ると、繭に包まれてるみたいだった。
(略)
[《レット・イット・ビー》]のために、ぼくの発売日を変えると言いだしたんだ。それで「バカ言うな!発売日はもう決まってるんだぞ!そんな真似ができるわけがないだろう?」となってね。あのときはかなり声を荒らげたよ。
(略)
ビートルズが内部で揉めまくっている最中のことだった。それでだれかにテープを燃やされないように、アップルの外で保管しておく必要があったんだ。スタジオは外のを使ったし、ジャケットもアップルには見せなかった。(略)
 あのころはぼくがなにをしても、アップルでは問題になっていた。「いや、どうだろう、それはちょっとマズいんじゃないかな」。勘弁してくれよ。ビートルズのころは、「決めたよ、《サージェント・ペパー》のジャケットはこんな感じにするから、この人たちを載せてくれ。だってクールだろ」と言うだけですんでいたのに。(略)
ぼくがアップルに行くたびに、重苦しい空気が流れていた。わらわらと人がわいて出てきて、「それはできない、この件については弁護士を呼ぶからちょっと待ってくれ、きみのしていることについて、専門家の意見を求めたい」。ぼくはそんなの一切お呼びじゃないと考えた。とにかくやってしまおう、とね。

ポール・マッカートニー(紙ジャケット仕様)

ポール・マッカートニー(紙ジャケット仕様)

 

ビートルズを訴えることになった理由

 悪夢だったよ。正直、その話はしたくないし、考えるだけでぞっとする。簡単に言うとこの男[アレン・クライン]はビートルズを奪い取りに来た。アメリカの某マネージャーが、ビートルズから盗みを働こうとしていたんだ。そしてぼくはその泥棒に目を留めた。ほかのみんなはだれも気づかなかった。むしろこの男を気に入り、嬉々として迎え入れていた。
 ぼくの選択肢はこの泥棒を追いはらうか、家からすべてを盗まれるままにするかのふたつにひとつだった。この男を追いはらわないと、手元にはなにも残らなくなってしまう。ぼくはみんなに、「わかった、じゃあぼくはこの男を訴える」と言った。すると「それは無理だ。どうにかしたいのなら、ビートルズを訴える以外にない」となって。そんな真似ができるわけがない。(略)そのあいだもあいつはずっとタンスを引っかきまわして、なんでもかんでも盗みまくっていたんだけど。
 結局、ぼくはどうにか訴えを起こした。でもそのおかげでぼくは、ほかのメンバーにひどく恨まれてしまったし、一般の人たちからも反感を買った。みんな、ビートルズを訴えるぼくを見ていたからだ。でも理由を説明するわけにはいかなかった。今ではみんな、わかってくれてると思う。
(略)
 そんなことをしたら、自分のイメージが地に落ちてしまうのはわかっていた。そしてぼくはいろんな意味で、20年間ずっとその落ちたイメージと闘ってきたと思う。そうなるのはわかっていたんだ。でも迷いはなかった
(略)
今はみんな、あの当時をふり返って「ありがとう。おまえがオレたちを救ってくれたんだ」と言ってくれる。もしあのままにしていたらアップルはなかっただろうし、《アンソロジー》や《1》も出ることはなかっただろう。みんな、ほかのだれかの懐に入ってたはずだ。

自分から逮捕されに行ったような気がした

 いわゆる日本での“エピソード”が、ウイングスの終わりだったと思う。あの時期はなんだか不思議な感じがする。ぼくはこのバンドで日本に行きたくなかった。リハーサル不足だと感じていたんだ。そしてぼくはその感じが気に入らなかった。普通なら、よし、これで最高のライブができるぞ、と思えるようになるまでリハーサルをするんだけど。そうすれば喜んで行く気になれる。ぼくらは東京でリハーサルをする予定になっていて、ぼくは、うん、ちょっと土壇場すぎるかな、と思っていた……だからそのせいで、けっこうパニックになっていたんだ。
 そしたらいきなり、ぼくは逮捕された。自分でもよくわからない、不思議な気分だった。まるで自分から逮捕されに行ったような気がしたんだ。ライブをやらなくてもすむように。正直、いまだに自分でもよくわからない。だれかが仕組んだんじゃないか? とも思うんだけど。ぼくを逮捕させるためにね。わからない。すごくサイコドラマっぽくて。いずれにせよぼくらはあそこに行き、ぼくはパクられ、そのとき本気で、このバンドはうまく行かない、このバンドでやるのは嫌だ、と思ったんだ。

ロミオとジュリエット

 フランコ・ゼフィレッリ老がロンドンにやって来て、ぼくに『ロミオとジュリエット』の主役をオファーしたんだ。ぼくは「ご冗談でしょう。ぼくはただのミュージシャンですよ。できるわけがありません」と答えた。(略)
 オリヴィア・ハッセーとはデートをした――これはリンダに会う前の話だ。ナイトクラブに連れて行ったんだけど、彼女のことはかなり気に入ったよ。長い黒髪で、すごくきれいだった。「きみは美しいジュリエットだ」と電報を打ったら、「あなたも最高のロミオになるわ」という返事が来て。あれはすごく……[ロマンテイックなため息]。やってたら今ごろ、吐きそうになってるんじゃないかな。子どもたちは信じてくれないだろう。「パパ、嘘でしょう?あんな映画に出てたなんて、嘘に決まってる!」って。

ジョンとの和解

ぼくとジョンの件で最高なのは、それがぼくとジョンだけの話だったことだ。「彼はこれをやった、あれをやった」と言うのはみんなの勝手だけど、すばらしいのはぼくに、おいおい待ってくれよ、あの小さな部屋にいたのは、ぼくとジョンのふたりだけなんだぜ、と言える資格があることなんだ。実際に曲を書いたのは、なんでも知ってるつもりでいるほかの連中じゃなくて、ぼくと彼だった。当然、ぼくのほうが連中よりよくわかってる。彼と同じ部屋にいたのはぼくだったのさ。ときどき、信じられなくなるんだけど。
(略)
みんなが彼のことを、強もてのする労働者階級の英雄あつかいしていた。でも知っての通り、彼はウールトンの中流家庭で育ったんだ。家からしてちがっていた。ぼくらのはみすぼらしかったけど、彼の家にはウィンストン・チャーチルの全集があった。知り合いでそんなものを持っていたのは彼だけだ。しかも彼はたしか、それをちゃんと読んでいたと思う。
 ジョンはすごくたくさんの型にはめられていた。ぼくがうれしく思うのは、ぼくらが結局、最後の何年かで仲直りできたことなんだ。これはぼくの人生で起こった、幸運な出来事のひとつだろう。本当にありがたく思っている。だってもし仲たがいしたままでああいうことになっていたら、ぼくは今ごろ、ボロボロになっていたはずだからだ。
(略)
こっちで[1978年11月に]パン屋のストがあったとき、「どうしてる?」って電話をしたんだ。
 そしたら「パンを焼いてるところだ」。「えっ!ぼくもちょうどパンを焼いてたんだ」。想像してくれよ、世間一般のイメージからすると、パンを焼く話をしているジョンとポールなんてありえないだろ。
(略)
 すごくうれしかった。ようやくあんなふうに彼と話せるようになれて、本当に心があったかくなった。まるで子ども時代に逆もどりしたような感じでね。ぼくらはまたどうでもいいことについて、話せるようになっていた。でもそれが本当に大事なことだったんだ。

エルヴィス・コステロとの共同作業

彼にはプレッシャーがあった。相当ね。ぼくは彼がいちばんジョンに近い存在だと感じたし、大勢のジャーナリストがその点をぼくに訊いてきた。
(略)
 ぼくらがふたりで書いた曲は、ぼくのいつもの曲とはちょっとちがっていて、言葉数がいくぶん多めだった。エルヴィスはすごく言葉に入れこんでる。彼はぼくのいい引き立て役だし、ぼくもかなりいい引きをて役だと思う。箔をつけるのがうまいんだよ[I foil fine]。ぼくがなにかを書くと、彼が一種の編集を加え、それでぼくがかまわないと思えばOKになる。
 時には彼がコードを使いすぎることもあった。ぼくからするとね。長年、曲を書いてきて気がついたのは、コードは半分にカットしたほうが、往々にしてクールだってことだ。メロディはシンプルにして、ゴテゴテ飾り立てないほうがいい。エルヴィスともそんな話をした。「どうだろう、ここは途中の経過コードを全部はぶいて、CからそのままAマイナーに行くのがベストなんじゃないかな」みたいな。
 だからそうやってずっと言い合ってたわけでね、うん、悪くなかったと思うよ。彼のことはすごく頑固だと思ったけど、べつに気にならなかった。すごく率直な男だからだ。
(略)
エルヴィスにはすごく皮肉っぽいところがあるし、性格的にもジョンに似ている――外面はキツいけど、内面はやさしい、という。だからエルヴィスはぜんぜん問題ないし、彼とパートナーが組めてよかったと思う。


 エルヴィスにとってはどうだったのだろう? わたしは1989年に彼の話を聞いた。「そりゃもちろん、信じられるか、ポール・マッカートニーだぞ、となる瞬間もあるにはあった」と彼は答えてくれた。「彼は有名な曲を山のように書いている。曲づくりに関してはすごく実際的だ――すごく型にこだわるんだよ、おかしなことにね。みんなは彼がなんの苦もなく曲を書いているように見えると言うけれど、それは実のところ、まちがっている。
 彼のうたっていることが気に入らないとか、おセンチすぎると言う人もいるけれど、そんなのはあくまでも個人的な意見にすぎない。彼の書いたすべての曲にそれが当てはまるとは思わないし、ふたりで曲を書いていたときも、彼はメソメソした部分をどんどんカットしていた。あれは興味深かったな。
 彼が曲を甘くしたとは思わない。彼には自制心といいメロディを聞き分ける耳があるし、もちろん、ベーシストとして演奏にも加わっている。音楽に聞しては、いい勘をしているわけだ。それにみんな、彼がだれなのか、なにをあらわしているのか、なにをしてきたのか、そしてこれからどうするのかといったことに気を取られすぎだと思う。そこまでハードルを高くするのは、だれに対しても理不尽だろう」

I'm the Urban Spaceman

I'm the Urban Spaceman

  • ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド
  • ロック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

〈恋のスペースマン〉

「ヴィヴ・スタンシャルとポールはウマが合った」[とニール・イネス](略)
「ぼくらは〈恋のスペースマン〉をやりたかったんだけど、当時のマネージャーは1曲のレコーディングに2時間以上費やすのはまかりならん、という考えだった。で、ヴィヴがこのことをポールに嘆くと、だったらぼくがプロデュースしようと言ってくれたんだ。
 スタジオにあらわれた彼はウクレレを弾いた。ヴィヴはトランペットのマウスピースをつけたホースを持ち出し、頭の上でグルグルまわそうとした。で、それを見たエンジニアが『そんなの、レコーディングできません!』と言うと、ポールが『どうして?スタジオの四隅にマイクを立てればいいじゃないか』と言ってくれてね。しきたりをものともしない彼の姿勢はすばらしかった。
 でもぼくらはポールに『あなたの名前に頼るのは嫌なんです。アポロ・C・ヴァーマスという名前にしちゃってもいいですか?』と言ったんだ。ポールは『うん、いいんじゃない』と言ってくれたけど、マネージャーは『なんだと!?』となっていたよ」
 余談だが、実際にこのシングルを完成させたのは、ガス・ダッジョンという新進気鋭のプロデューサーで、彼は〈恋のスペースマン〉を皮切りに、外宇宙をテーマにしたヒット曲を全部で3曲手がけることになる。残りの2曲はデイヴィッド・ボウイの〈スペース・オディティ〉とエルトン・ジョンの〈ロケット・マン〉だった。

曲づくりはセラピー

[最初は他のバンドと曲がかぶるのが嫌でオリジナルを作り出したが]
そのうちに、それだけじゃないことがわかってくる。(略)セラピー的な効果があることだ。気分が落ち込んでいるときは、どこか秘密の場所に行くといい――家のなかで一番隅っこにある場所(略)誰も行かない場所に。曲書きにはそういう場所がいちばん適している。
 まず、自分にいろんな話をするんだ。ずっと考えていたネタを引っぱってきて、それをどこか、できれば自分の心とは別のところに置く。ずっとやってきてることなんだけど、これはすごく効果がある。実際のはなし、精神科医のセッションを受けるようなものなんだ。
(略)
 いろんなふくみを持たせて曲にすると、急にそれが夢みたいになる。自分の思いが額に入って、もっと見やすくなっているんだ――絵画とか写真のように、一歩離れて見ることができるし、曲という具体的なかたちもある。そこからはなにかが伝わってくるけど、それはそれまでにはなかったものを、自分かとらえたからなんだ。それがセラピーになるって意味さ。

曲の解釈のされ方について

[他人の解釈が自分の意図とは違っていても気にしないし、勉強になることもあるという話から]
――《レット・イット・ビー》に収録の〈トゥ・オブ・アス〉もそうですね。ジョンとあなたの友情をうたっていると解釈されることが多い曲ですが、リンダとの関係をうたっていると解釈することも十分可能なのでは?
 ぼくの曲は全部そうだ。よくやるんだけど、ひとつ以上のとらえ方ができる。ぼくはリンダと結婚し、彼女に恋をしていたけれど、[即興でうたう]「ぼくとリンダとで、ドライブに出かけた……」みたいな曲は、一度も書いたことがない。なんだかきまりが悪いし、うまく行くとも思えないからだ。ぼくとしては「ぼくたちふたり」と書くほうがすっきりするし、おかげでちょっとした謎も生まれる。「どのふたりのことを言ってたんですか?」
 リンダはロンドンの郊外にドライブして、そのまま道に迷ってしまうのが好きだった。ある日、西に向かって走ってると、ビルがなくなって、いつのまにか田園地帯に着いていたのを覚えている。ぼくらは車を駐めて、森や野原のなかに入っていった。ギターを抱えて車の上に座り、あの曲をうたっているぼくを撮ったリンダの写真ががあるんだ。だからぼくらふたりがあてどなく旅をするアイデアはそこから来ている。
(略)
 ジョンとぼくでうたったから、「ああ、このふたりのことなんだな」と思われるのは目に見えていた。基本的にはぼくとリンダの歌だけど、それをぼくがジョンとうたうと、ぼくとジョンの歌になるんだ。
 ぼくはそういうのが好きだ。たとえば「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」という歌詞の曲を書いたとして、最高なのはそれが、この場ですごく意味を持つことなんだ。つまり、それを聞かされた相手は[うっとりした声で]「ほんとに愛してくれてるんだ……」となるだろうってことさ。この場でうたってもしっくりくるし、でもセッションの場に持ちこんで、ドラマーを見ながら「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」とうたうことだってできる。最高なのはそこなんだ。曲って魔法みたいだなと思うのは、みんなが勝手に解釈できるからでね。で、そのCDをだれかが手に入れると、今度は家で恋人を見つめてるときに、「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」と聞こえてきたりする。
 そうやって、いくらでも解釈できるところがいいんだ。まさしく魔法だよ。

パンク、時代遅れという危機感

連中はぼくらが10年か12年前にやってたことをくり返していた。それが連中に、ぼくらにもあった切れ味をもたらしたんだ。若さがね。それが最初の印象だった――まいったな、ぼくらももうお払い箱か。でもたとえば[ダムドの]ラット・スキャビーズみたいなドラマーを見てると、なんだ、ただのキース・ムーンじゃないか(略)となってね。ちょっと速いだけなんだ。連中のライブは20分で終わってたけど、考えてみたらそれだって、ビートルズのやっていたことだった。
(略)
[〈夢の旅人〉は]正直、からかってやれという気持ちもあった。だってスコットランドふうのワルツを、みんながやたらとツバを吐きまくってる時代にリリースしたんだぜ。それにいちばん上の娘のヘザーは、すっかりパンクに熱中していた。ぼくの好みからすると、あの子にはその手の知り合いが多すぎた。ビリー・アイドルとデートしてたりしてね。父親としてはもう、最高にありがたい話じゃないか!
(略)
 というわけであの曲は、どんなパンクのレコードよりも大ヒットした。それによく考えてみると、ぼくらだって〈ヘルター・スケルター〉をやってるんだ。〈アイム・ダウン〉だってやってるし。狂ったように絶叫する、リトル・リチャードっぽいやつだ。
(略)
キース・ムーンみたいな連中は、脅威を感じるというより単純に怒っていた。自分のドラム・スタイルをパクったやつらに、退屈なおいぼれ呼ばわりされてたからさ。向こうにあったのは怖いもの知らずの、若さだけだったのに。
 いや、いいことだったと思うよ。あれは箒みたいなもので、音楽シーンを掃き掃除してくれたんだ。あのころは全部がLAのロッド・スチュワートっぽくて、ちょっとデカダンな感じになっていた。でもなんだってそうだけど、行きすぎはよくない。ぼくのいちばんのお気に入りは〈プリティ・ヴェイカント〉だった。ダムドも悪くなかったかな。でもぼく的には短いブームだった。
(略)
[こりゃマズいという]感じがしたのは、あのときがはじめてじゃない――アリス・クーパーが出てきたときもそうだった。(略)。あの時点[1972年]でのアリス・クーパーは、ちょっとマズいんじゃないかという感じがした。暗黒面が忍び寄ってきたと言うか。もちろん実際に会ってみると、アリス・クーパーは最高にいいやつだったけど。単なるイメージの問題だよ。(略)
「ああ、なんてこった。世界はもしかすると、もっと暗くて、もっと暴力的な方向に舵を切ったのかもしれない……」。あのころは、一夜にしてそうなってしまいそうな感じがしていた。
 じゃあ、最後に本気でこれはマズいと思ったのはいつかって?そうだな、デイヴ・クラーク・ファイヴが出てきたときかな。でもみんな程度問題で、いずれは落ち着くところに落ち着く。それ以前だと?ああ、ジェリー&ザ・ペースメーカーズかな。あのときもかなりビビってた。でもそのうちに気がつくんだ。なんだ、ぼくらはそういうのを全部、生きのびてきたんじゃないか、だったら希望がないわけじゃないぞ、って。

ベース

リボルバー》や《ラバー・ソウル》が終わったあたりから、オーバーダビングするようになってきた。ベースをね。問題は〈レット・イット・ビー〉みたいにピアノで書いた曲の場合、ジョンやジョージにそのフィーリングをピアノで伝えるのがむずかしかったことだ。こっちにはバッチリわかっているのに。だからジョージはよくぼくに腹を立てていたし、考えてみるとそれも、無理のない話だったと思う。でもぼくにはそれ以外の手が考えられなかった。曲を書いた楽器じゃないと、どうしても“フィーリング”が出せなかったから、まず最初にその楽器を弾いて、あとから手を入れるようにしてたんだ。
 でもそれはつまりぼくらがいろんな曲を、ベースぬきでレコーディングしていたということだし、そうするとサウンドに欠落感が出てしまうから、ギタリストには決してありがたい話じゃない。ベースの音を想像しなきゃならないし、そうなると最初から、いい音なんて出せるわけがないからだ。

Dear Boy

Dear Boy

  • provided courtesy of iTunes

〈ディア・ボーイ〉

〈ディア・ボーイ〉は、ジョン・レノンに対する当てこすりと解釈された。しかしポールの説明によると、この曲がうたっていたのはリンダの前夫、ジョーゼフ・メルヴィル・シーのことだった。「一度も彼には話さなかったけど。話さなくてよかったと思うよ。だって彼はその後、自殺してしまったんだ。〈ディア・ボーイ〉は『たぶんきみは自分がなにを取り逃したのか、まるでわかってないんだろう』という、ぼくからのコメントだった。なぜならぼくは本気で、なんてこった、こんなにすばらしい女性なのに、あの男にはそれがわからなかったのかと思っていたからだ」

ラム

ラム