ダーク・ドゥルーズ アンドリュー・カルプ 小泉義之

ダーク・ドゥルーズ

ダーク・ドゥルーズ

主体――寄せ集めではなく、非-生産

 主体性は恥ずべきものである(略)
主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。こうした幾つもの感情が積み重なって、主体性は大きくなってきたのだ。主体としての現存は災禍の結果であり、それが私たちについて語ることはあまりにも少ない。
(略)
だから、ドゥルーズアイデンティティ・ポリティクスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。しかし、クィアの理論家たちが私たちに喚起するのは、恥辱とはこのように自己の特権性を主張する人々に対する防御策であり、それをあえて連中に対する武器として働かさねばならないということである。要は、主体をアイデンティティに縛りつけようとするありとあらゆる勢力を脱臼させる情動として、当の恥辱を武器として使おうということである。
(略)
 ある者たちにとっては、世界は寄せ集め[アッサンブラージュ]でできていて、全ての寄せ集めはそれぞれが主体である。
(略)
寄せ集めの思考に従えば、主体性は、一つの身体が有する諸々の力能の総量を確定させるための単なる名前にまで切り下げられてしまうということである。寄せ集めの思考は、身体が持つ多くの属性を作り上げるネットワーク一覧を作成することによって、無血の世界を神聖化しているというわけだ。それゆえに、寄せ集めによるモデル化は、資本主義が「プレル・シャンプーやフォードカーを生産するのと同じように」、主体性を生産する世界と完璧に適合するのである。
(略)
哲学はあまりにも容易に、精神の自己−中心的な習慣が打ち立てる個人的アイデンティティの経験を通じて、超越の錯覚に投げ戻されてしまうからである。ありふれた経験論者たちが嵌まる罠とは、彼らが主体のパースペクティブから身をかわして進むといった最善のシナリオにおいてさえも、依然として現存を再生産の条件に切り詰め、あるものの「自由の度合い」をチャート化してしまうことである。私たちにとっては、主体は一つの身体が有する諸々の習慣の単なる総量として軽蔑をもって語られるべきものである。これら習慣の殆どは思考を避けるように組織されているのだから。
 主体を私たちが望む破滅へと導くのは、非−生成である。ドゥルーズは主体に対する賞賛を抑制しているが、それに場所を与えないわけではなく、この点において「主体なき主体性」を理論化したアルチュセールとは異なる。しかし、いずれにせよ主体が興味深いものになるのは、主体が「〈外〉へ通ずる線」を投擲するときである――つまりは、主体が主体であることをやめるときである
(略)
フーコーの主体化は、主体を助けるために主体性に「回帰」するものではなく、主体を分裂させるものであった。主体は蒸発して、人格もアイデンティティも生き残ることのない力の領野に消失していくからである。これが生成の秘伝というものだ。というのも、生成は「自己自身を超えたものに発展していく主体」とは無関係であるからだ。本当のところを言ってしまえば、生成は非−生成のプロセスなのだ。(略)
これは、「アイデンティティ、知識、場所、そして存在の安定性を破滅させる」プロセスのことだ。
(略)
破滅は、この世界に対する憎悪を滾らせるといういっそう高次の目的を達成できるのだ。破滅を通じて、自らの〈外〉にある耐え難きものを特定したときに初めて、私たちは「恥辱の外側に跳び出し」、「[私たちの]哀れな計画を抵抗や解放のための戦争に転換する」のである。

民主主義

ドゥルーズ=ガタリが出す結論は、自分たちが求めるユートピアの「新たな民衆と新たな大地は、私たちのどの民主主義のうちにも見出せないだろう」というものであった。(略)
民主主義はどれほど完璧であっても、それはいつも暴力の脅威によって裏打ちされた統治者の超越的な裁きに基づいている

世界を破壊する理由

「この世界を信じるべき何かを見つける」という大義の下で、与えられたものを肯定する生産主義者など批判されてしかるべきだ。世界がこんなに悲惨にもかかわらず、もっと良い世界になるための材料がここに予め全て含まれているかのように思い込んでいるほどおめでたい連中なのだ。こうした輩は、結局のところ、破壊の力を放棄したがゆえに、蓄積と再生産の論理を通じてしか、生産を利用=資本化することができないのだと私はよく分かった。しかし、古いものを条件にして新しい世界を創設したとしても、そんな世界の地平が既存のものを超えて広がることはない。これに対して私が提案する別の選択肢は、世界を破壊する理由を見つけ出すことである。

共謀

 暗黒は秘密を促進する。それは、リベラル派の透明性という強迫反復にとって代わる。フーコーは、「警察の科学」におけるこうした透明性の役割を鮮やかに見抜いている。それは、警察国家というドイツの観念においてリベラリズムが始まったときから、現代の生政治に至るまで連綿と続いてきた、国家と資本の結託による治安維持という任務で用いられるということである。これに対して、共謀は全てをしかるべき場所に配置する一貫性に対抗するものである。それゆえ、共謀が推進する秘密とは、見える通りに在るものなど何もないという事実のことなのだ。とはいえ、共謀は神聖なものや崇高なものの追求ではない。それは秘儀的でもなければ、神秘的でもないからだ。それは、ただ開かれた秘密として循環する。開かれた秘密が秘密のままであるのは、選択的関与という原理を通して、繋がり至上主義に抗いながら秘密が作動する場合だけである。そこから受けるべき教えは、「私たちはみな二重の生を生きなければならない」ということであろう。すなわち、一つは、私たちが現在と結ぶ様々な妥協に満ちた生であり、いま一つは、そうした妥協を無効にしようと企てる生である。

反戦運動の破綻の後に

[巻末の訳者解説とドゥルージアン4名の応答から]
応答2 反戦運動の破綻の後に 小泉義之

カルプは、正義の戦争と自称した対イラク戦争において、米国政府高官がしきりに「米軍は解放者であって占領者ではない」との発言を繰り返してきたことに注意している。(略)
カルプの指摘するところでは、この類の発言が系統的に押し隠していることがある。すなわち、ハーグ陸戦条約とジュネーヴ四条約では、占領者に対しては国内秩序を回復することと住民の福利を保証することが責務として課されているのであるが、米国は、そのような責務を回避するためにひたすら解放者を自称し続けているのである。専制者の首を刎ねさえすれば頭部なき身体は自己回復するというわけである。大量の兵士と市民を殺害し大量の民衆を難民化させ、しかも内戦化の過程を拱手傍観しながら、そのようにして徹底的に毀損された非白色のイスラム化された身体であっても、自己組織化して自己統治する能力を残していると言い立て続けているのである。
(略)
[2003年の]反イラク戦争の一斉行動は最大の動員数を誇ったものであったが、「米国が戦争へ突き進むことに対して何の影響も及ばさなかった」し、そのことによって「リベラルな抗議」の限界が顕わにされた。そのリベラルな反戦運動には二つの極があるが、カルプの語法によるなら、一つは「リベラルで官僚的な」極、もう一つは「ファシスト的でカリスマ的な」極である。
(略)
「リベラルで官僚的な抗議団体では、絶えずニュースや立法作業を追いかけては、次第に議会のスタッフ以上のエキスパートになっていくような個人が増えていくのである」。実際、リベラルで官僚的な主体は、自分はゲームのルールを分かっていると威張り、報道や政治家を活用していると胸を張り、一種のインサイダーになっていくわけであるが、同時にそのようにして大衆社会アウトサイダーになっていくのである。詰まるところ、リベラルで官僚的な諸団体は、大衆を国家へと回収していく通路にすぎない。では、もう一つの「ファシスト的でカリスマ的な」諸団体はどうであろうか。
(略)
あたかも権力がおのれの為していることを知らないかのように想定してその権力に対して自分は真理を告げていると思い込むこと、おのれが真理を摑んでいることの証しとして何かシンボル的なものを身につけること、米軍の一部による拷問だけに批判の焦点をあてることによって米国帝国主義の暴力的な総体を覆い隠すことなどである。そして、カルプによる鋭利な批判を通して浮かび上がってくるのは、現在、戦争を遂行する側も戦争を批判する側も、ほとんど同じ語彙と語法を使用しているということである。ともに人権、自由、民主化、自己統治、内政不干渉、自国の兵士を犠牲にしないこと、内戦に対する対処は難民保護だけであるとすること、人種や宗教を持ちだすことをタブー化すること、人種や宗教に言及するのは偏見を批判する文脈においてしか許されないと見なすこと、等々を共有しているのである。
(略)
現在の市民は、主権や政府や法に自己の意志でもって従属するような法権利の主体でも、何ものかに対して憎悪感情をたぎらせたり愛情を募らせたりしながらそれを馴致されて服従する主体なのでもない。そうではなくて、凡庸なレトリックを浴びながら、退屈なスクリーンに曝されながら、機械の歯車に甘んじるように誘導されている奴隷なのである。
(略)
 カルプが『ダーク・ドゥルーズ』で指し示す方向の一つは、ドゥルーズのいう「堪え難いもの」に対して、憎悪を募らせることである。繋がりをめぐる凡庸な物言いの数々、例えば、SNSは孤を保ちながら繋がることであるとか、グローバルな繋がりが何か新たなものを生み出すとか、専門職間の繋がりが孤独を癒してあげられるとか、繋がりの蓄積は資産であるとか、その類の物言いの退屈さを拒絶するだけでなく、繋がりそのものを増むことである。いまや社会関係やら共同主観性やらは憎むべきものなのである。そのようにして、神の死、人間の死に引き続く第三の死、すなわち世界の死を招来すること、それこそが、ドゥルーズの言い方では、「ユートピア」へ向かう「脱領土化」であり、カルプがしばしば援用するフーコーの言い方では、「陰気で暗い言説」であるものの「最も気違いじみた希望の言説」なのである。

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