ドゥルーズ「記号と事件」1972‐90年の対話

チラ見。単行本から引用。文庫本は全面改訳されているらしい。

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

 

ゴダール『6x2』をめぐる三つの問題

例のテレビ番組でも、ゴダールは常に相手と対等の立場に立って質問しているのです。ゴダールの質問はテレビを見ている私たちを動揺させますが、質問を受けた当人を当惑させることはありません。ゴダールが妄想症の患者と話すときの態度は精神科医の態度ではないし、他の狂人とか、狂人のふりをした人間の態度でもない。労働者と語りあうとき、ゴダールの態度は雇用者のものでも、他の労働者のものでもなければ、また知識人の態度でも、俳優を指導する演出家の態度でもない。しかし、これはゴダールがあらゆる語り口に同調する策士だということではありません。ゴダールの孤独が並外れた容量をもたらし、密度を高めるということなのです。
(略)
ゴダールは常に孤独だった。映画におけるゴダール的成功なるものは一度もなかったのです。ゴダールは成功をおさめたと喧伝する人たちが、「あいつは変わった、あのとき以来だめになった」とふれまわっていますが、そんなことをする者と、最初からゴダールを嫌っていた者は同一人物であることが多い。ゴダールが誰よりも先を行き、誰にでも影響をおよぼすことができたのは、成功の道を歩んだからではなく、独自の線を引きつづけ、しかもそれが積極的な逃走線となって、しじゅう途切れながらジグザグを描き、地下に潜行していったからなのです。ともあれ、こと映画にかんするかぎり、人びとはゴダールを孤独のなかに閉じ込めるのに、どうにかこうにか成功した。こうしてゴダールの蔓延がくいとめられたわけです。するとゴダールは、その空白期間を利用し、漠とした創造への呼びかけに応じて、6×2回の番組のあいだ、テレビを占拠してみせる。たぶん、ゴダールはテレビに籠絡されることのなかった唯一の人間でしょう。ふつうなら始める前にもう負けているわけですからね。映画の売り込みなら許容されるでしょう。しかしテレビの内側で、しかも(人に質問する、人にしゃべってもらう、意外な映像を見せるといった)テレビの根本にかかわる要素を変革するような番組をてがけるというのは、とても許されることではないのです。
(略)
いろいろな集団や団体が憤慨したのも当然です。報道カメラマン・映画人協会のコミュニケがそのことを雄弁に物語っています。ゴダールは憎悪心を焚きつけることには成功した。しかしそれと同時に、従来とは違う「密度」でテレビを占拠するのが可能だということも証明してみせたのです。
(略)
ゴダールはうまいことを言っています。「正しい映像ではなく、ただの映像さ。」哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。「正しい理念ではなく、ただの理念さ」とね。なぜなら、正しい理念というのは支配的な意味や確固たる指令の言葉に迎合した理念だし、しかもこれが何かを立証するための理念になっているからです。この「何か」なるものが実現していなくても、そこに革命の未来がかかわっていたとしても事情は変わりません。ところが、「ただの理念」というのは、現在時への生成変化をとげることであり、理念の世界で「どもる」ことなのです。それは問いのかたちでしか表明されえないし、しかもこの問いというのが答えを沈黙させる方向性をもつわけです。
(略)
第一の理念は労働に関係している。ゴダールは、いたるところに浸透した、マルクス主義のものとおぼしき図式に疑問符をつきつける作業をやめようとしない。私にはそう思われるのです。その図式によると、「労働力」と呼べるような、かなり抽象的なものがあって、それを売買するときのさまざまな状況により、根本的な社会的不公平が規定されたり、逆にわずかながらでも社会的公平が成り立つという。そこでゴダールはきわめて具体的な質問をなげかけ、「実際には何が買われ、何が売られているのか」という問いに対応する映像をつきつけてくるのです。ある人が買おうとしているものは何か?別の人が売ろうとしているものは何か?そして売られるものと買われるものは、かならずしも同じではないのではないか?
(略)
こうした映像もその他もろもろの映像も、すべて労働力という概念の粉砕をめざしていると思います。労働力の概念がまず最初におこなうのは、ひとつの産業部門をまったく恣意的に切りとり、労働そのものを、愛情や創造性から、そして生産そのものからも切り離してしまうことですからね。つまり労働力の概念は、労働を創造性の対極である保存に変えてしまうのです。そうなれば労働は、閉ざされた交換回路のなかで消費された資材を再生産し、それと同時にみずからの力を再生産していくことを義務づけられる。この点からすると、交換が公平か不公平かということはたいして重要ではありません。支払い行為は常に選択的暴力をともなうものだし、労働力を語るよう強いてくる原理には欺瞞が含まれているからです。だから、あらゆる種類の、雑多で非=並行的な生産の流れが、抽象的な力による媒介とは無関係なまま、直接、金銭の流れと関係づけられるようにするためには、労働をその偽りの力から切り離さなければならないのです。
(略)
第二の理念は情報に関係するものです。言語は本質的に情報を伝達するものだとされ、情報の本質は交換だとされています。(略)
「子供たちは政治の囚人だ」というゴダールの命題は、字義どおりに解釈されなければなりません。言語は命令のシステムであって、情報伝達の手段ではないのです。テレビでよく使われる「さあ、たっぷり楽しんでください……。まもなくニュースの時間です」といった言い回しに注意すれば、これは容易に理解できるでしょう。
(略)
ゴダールは労働力と情報という一般的な概念に疑問符をつきつける。ゴダールが主張しているのは、「真の」情報を提供しなければならないとか、労働力には「正当な」支払いをもって報いるべきだとか、そんなことではありません(それだと「正しい理念」になってしまいますから)。そうではなくて、労働力とか情報といった概念には多分にいかがわしいところがあるとほのめかしているのです。ゴダールは概念の横に「にせもの」と書き込むのです。
(略)
ゴダールがもとめているのは、ヴェルヌイユのように自分の映画を自分でプロデュースすることでも、テレビの世界で権力をにぎることでもありません。そうではなくて、さまざまな労働を抽象的な力によって計測することをやめ、労働のモザイクをつくりたいというのです。部分的な情報や開いた口については、これを指令の言葉と化した抽象的情報に結びつけるのはやめて、一列に並べてみてはどうかと提案しているのです。

媒介者(「オートル・ジュルナル」第八号・1985年)

模倣者たちの陰謀

 いま文学をおびやかしている危機をどう定義したらいいでしょうか。ベストセラーの制度というのは、速いテンポで商品を回転させることにほかならない。すでに多くの書店が、ヒットチャートやヒットパレードにのぼる製品しか置かないレコード屋に同調しはじめています。(略)必然的に〈予期されたもの〉の市場がつくられます。「大胆なもの」ですら、あるいは「スキャンダラスなもの」、そして風変わりなものでさえ、市場で予想されたとおりの型におさまるようになる。しかし、文学創造の条件とは、〈予期されざるもの〉やスローテンポの回転や漸進的な普及がなければ生まれない、きわめて不安定な状態なのです。未来のベケットカフカたちは、ベケットにもカフカにも似たところのない作家になるでしょうが、彼らには作品を出版してくれるところが見つからない恐れがあるし、彼らの存在に気づくような人はひとりもいないでしょう。
(略)
若い作家たちはクリエイティヴな仕事をする可能性をまったく残さないような、おきまりの文型空間の型にはめられてしまうのです。そこから、模倣をもとにした、化け物のような、規格どおりの小説が生まれる。バルザックスタンダールを模倣しても、セリーヌを、あるいはベケットやデュラスを模倣しても結果は同じです。いや、こう考えたほうがいいでしょう。バルザックですら模倣不可能な作家だし、セリーヌも模倣不可能だ、それは彼らが新しいシンタクスをつくり、「予期されざるもの」をつくったからだ、とね。模倣されるのはすでにコピーと化したものにかぎられるのです。模倣者は模倣者同士で模倣しあっている。だからこそ模倣者はひろく世に受け入れられるのだし、お手本よりもうまいという印象を与えるのもそのせいなのです。なにしろ模倣者たちはどんな手法を使えばいいのか、どんな結末をもってくればいいのか、完璧に知りつくしているわけですから。
(略)
ロッセリーニの言い分はこうです。「いまの社会はあまりにも空虚な残忍性に毒された社会である。残忍性とは、他人の人格を侵害しに行くことだ。情報で他人を操作して無用な全面告白に追い込むことだ。はっきりした目的のある告白なら、私も我慢しよう。しかし、実際に見られるのは覗き魔や変態の所業であり、これははっきり言って残忍性以外のなにものでもない。残忍性は幼児性のあらわれだ、と私は固く信じている。現代の芸術は日ましに幼児的なものになっていく。誰もができるかぎり幼児的になりたいというとんでもない欲求をいだいている。無邪気というのではない。まさに幼児的なのだ……。いま、芸術は愚痴をこぼすか残忍性を発揮するかのいずれかである。ほかにどうしようもないのだ。(略)
そこにはいかなる愛情も見あたらない。あるのは並外れた慢心だけだ……。そして、前にも述べたとおり、こうしたことがあるからこそ、私は映画作りをやめる決心をしたのである。」
(略)
[以前は]本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章家になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変質してしまった。(略)ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。(略)女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。(略)
つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産みだせるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産みだせると思いはじめる。(略)文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と努力がもとめられるということが忘れられているのです。

主体化

将来的には主体化のプロセスが新たな権力を産みおとしたり、新たな知に回収されることになったとしても、主体化がおこなわれる時点をみるかぎり、主体化のプロセスにはたしかに反抗の自発性があるのです。そこにはいわゆる「主体」への回帰などありはしないのです。
(略)
世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。

追伸――管理社会について

 規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない。(略)
危機に瀕しているとしたら、それは私たちが[規律社会における]見せかけの放免をはなれて、[管理社会における]果てしない引き延ばしに足を踏み入れているからだ。規律社会にはふたつの極がある。ひとつは個人を表示する署名であり、もうひとつは群れにおける個人の位置を表示する数や登録番号である。(略)権力は、権力行使の対象となる人びとを組織体にまとめあげ、組織体に所属する各成員の個別性を型にはめるのである(略)
逆に、管理社会で重要になるのは、もはや署名でも数でもなく、数字である。規律社会が指令の言葉によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は合い言葉として機能する(略)
いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。本来なら分割不可能だったはずの個人(individus)は「分割可能」(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。
(略)
19世紀の資本主義は生産を目標に据え、所有権を認めたうえで集中化を実施する。だから工場を監禁環境に仕立てあげるのだ。(略)
しかし、現在の状況をみると、資本主義の目標は生産ではないことがわかる。現在の資本主義は生産を第三世界の周縁部に追いやっている。(略)現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。もはや原料を買いつけたり、完成品を売ったりするのではなく、完成品を買ったり、部品を組み立てたりするのである。いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場が企業に席を明け渡したのである。家族も学校も軍隊も工場も、それが国家でも民間の有力者でもかまわないから、とにかくひとりの所有者に収斂していくような、類比にもとづく別個の環境であることをやめた。そして経営者だけで成り立つ同じひとつの企業が、歪曲と変換を受けつける数字化した形象にあらわれるようになるのだ。
(略)
コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の「魂」になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。