小泉義之×千葉雅也「ドゥルーズを忘れることは可能か」

巻頭の、対談 小泉義之×千葉雅也「ドゥルーズを忘れることは可能か」だけ読んでみた。

ドゥルーズ

ドゥルーズ

 

晩年のドゥルーズ

小泉 『哲学とは何か』は、風景がまったく変わっていませんか。私には、『シネマ』以降のドゥルーズは、単独で別物になっている気がします。おそらく、そう考えてみたほうがいい。廣瀬純の語法でいえば、晩年のドゥルーズは絶望している。そういう感触がある。後期のドゥルーズについては、コントロール社会(管理社会)批判や、『哲学とは何か』での政治哲学論などをとって、ドゥルーズの政治性なるものをあれこれの仕方で救おうとする向きもあるけど、それはちょっと違うのではないかと思っています。
千葉 ドゥルーズ晩年の、ですから90年代になされたコントロール社会批判については、そういう社会構造に対してドゥルーズから何らかのアクティブな批判のやり方を得ようとして解釈したがる人がいるようですが――これは主にネグリ=ハート派のことを念頭に置いていますが――、しかしドゥルーズ当人はもっとパッシブでしょう。彼の議論は、コントロール社会に「絶望」しているということであって、批判の可能性を見出すにしても、それは絶望を徹底した果てにあるような批判性でしょう。『記号と事件』に入っているネグリとの対談でも、ネグリが「新しいコミュニケーションにもとづくコミュニズムがこれから可能かもしれない、それはどうですか」と問いかけるのに対して、ドゥルーズは「私はコミュニケーションは全面的に腐っていると思います」と言うわけです。僕はドゥルーズのこういうところに惹かれている。必要なのは「非コミュニケーションだ」と言うわけです。
小泉 遡れば、『差異と反復』についても、ドゥルーズは「序文」で、これは黙示録になりそこねた書物だと書いています。哲学的SFとして、絶滅の最後の日、絶滅の後の最初の日のことを書こうとしたが書けなかったと書いている。

小泉 あと、丹生谷さんの砂漠のイメージだよね。丹生谷さんの資質も相まって、陰気なドゥルーズは貴重でした。
千葉 丹生谷さんの「造成居住区の午後へ」は魅力的ですね、領土化された男の世界とその外部との境界=造成居住区で、女たちがいつ終わるとも知れぬ駄話を続けている。そんな女たちと老人が弛緩した午後に徘徊している場面、それこそドゥルーズ的風景だと言っている。
小泉 早くから、ドゥルーズを老人の哲学者にしていたからね。
千葉 あの当時グローバルに見て、そういう負のドゥルーズ像にむしろ賭け金を置くというのは、珍しいものだったんじゃないでしょうか。

ドゥルーズを忘れろ」

千葉 さて、次の話題に移りましょう。アレクサンダー・ギャロウェイが最近「ドゥルーズを忘れろ」という発言をして、英語圈で話題になっていました。そこでは、三つのドゥルージアンの類型について「忘れろ」と言われている。
(略)
第一には、グーグル・ドゥルージアン。第ニには、カール・セーガン・ドゥルージアン。第三が、訳すのがちょっと難しいですが、ウェット・ディアパー・ドゥルージアン――「濡れたオムツ」のドゥルージアンですから、オムツがまだ取れない幼児的なドゥルージアンということでしょうね。第一のものですが、グーグル・ドゥルージアンというのは、ネットワーキングで何でもやれるぞというタイプ。 コンピュータによる情報ネットワークがリゾームに等しく、それでもって脱領土化が起こっていってバンザイみたいな感じでしょう。第二の、カール・セーガン・ドゥルージアンというのは、大自然バンザイ、宇宙バンザイということでしょうね。そこに人間も含めての、また人工物も含めての、倒錯した大いなる自然のなかへ、というような。
小泉 初期ドゥルーズの、ユング的無意識や、神秘主義的なものに親和的なところとか、そういうことでしょうかね。
千葉 最後のオムツが取れないというのは、60年代のアングラ・革命カルチャーにあいかわらずアディクトしていて、それを繰り返し言うばかりの「おっさんロックファン」みたいなドゥルージアン、そういう感じでしょうかね(笑)。
小泉 で、解放の政治を目指し、その解放の先が多形倒錯。
千葉 多形倒錯で「欲望を解放せよ」みたいな、ヒッピー的なものですよね。こういうのがいけないと言っている。それに対して評価に値するのが、『アンチ・オイディプス』のときのアンチ・ファシスト的なドゥルーズ、あるいはコミュニスト的な含意をもつドゥルーズの部分であり、また管理社会批判をした90年代のドゥルーズ。まとめると、アンチ・ファシズムコミュニズム、そして管理社会批判(これはだいたいネオリベ批判に重なる)というわけですから、まあ、典型的にグローバル・アカデミア的な左派知識人が言いそうなことである、と。
小泉 ギャロウェイもそういう人だよね。
千葉 そうなのかなと思います。そういう典型的な規矩に則る形でのドゥルーズは救えるけど、という話になっている。ところで小泉さんは広義の狂いに立脚する議論を『ドゥルーズと狂気』ではっきり打ち出されたわけで、これは多少なりウェット・ディアパー・ドゥルージアンと揶揄される可能性があると思ったんですけど、いかがですか?
小泉 そうだね。はい、オムツが取れない小泉です(笑)。
千葉 「いまだに狂気とか言ってるのか」って(笑)。
小泉 そうだよね、恥ずかしいよね(笑)。でも、これはむしろギャロウェイに直接に聞きたいくらいだけど、いま、多形倒錯を言祝ぐ人はどこにいるんでしょうか。たとえばLGBTにしても、それは多形倒錯どころじゃないよね。
千葉 規範化されちゃってますよね。まともな市民としてのLGBTでしょう。
小泉 お行儀がいい。
千葉 ええ。性の破壊的な面をプッシュする話は前よりもやりにくい状況だと思います。
(略)
しかしそうすると、小泉さんはやっぱり開き直りということになりますか?
小泉 ちょっと待って(笑)。これは真面目に言うね。もちろん私は、世代的にも時代的にも、解放という理念、自由と同じ意味での解放の理念に動かされたし、いまでも自由としての解放、解放としての自由を心から願っています。ドゥルーズの逃走線や絶対的脱頒土化についても、哲学研究者としては留保をつけますが、人としてはそれは絶対に正しいといまでも思っています。ドゥルーズが多形倒錯に賭けたと文献的に読むことができるとはあまり思わないけど、多形倒錯的なものに賭けたドゥルーズをこよなく愛していますよ。
千葉 それは僕もそうです。
小泉 私自身は、いま、濡れたオムツがどこにあるのか、どこでどのように封印されて不可視化されているのかと問題を立ててもきたんですが、でも、この立て方だと文化左翼的でフレンチ・セオリー的ですね。どうもドゥルーズ的ではない。そこで私などは、オムツをあてがわれる老人のことを考えたことがあるのか、とギャロウェイみたいな人にはツッコミ返して当座をしのいできたわけです。

千葉 かつての狂気に賭けるドゥルーズという面に、バラバラの貧しい特異性に注目するドゥルーズを位置づけ直すという方法があるんじゃないかと考えているわけですよ。それはアンチ・ファシストになるし、管理社会からの落ちこぼれの肯定ですから、ギャロウェイらにとって救われるべきドゥルーズの基準にも合致するでしょう。繰り返しになりますが、僕が重視しているのは、貧しさや狭さ、有限性の問題をドゥルーズからいかに読み取って応用するかなんですが、そういうスタンスより、複雑な力の絡み合いが素晴らしいみたいな、バロック的なスタンスのほうが声が大きい。グーグル・ドゥルージアンにしてもカール・セーガン・ドゥルージアンにしてもバロッキズムでしょう。だから僕としては、切断的ドゥルーズを強調している。
小泉 グーグル系やセーガン系がよろしくないというのはいいのです。しかし、ギャロウェイがわかっていないのはその射程です。千葉さんのいう接続過剰を切りたいのなら、たとえば創発性概念を捨てるべきです。新しいものの発明、創造性、イノヴェーションといったスローガンも捨てるべきです。ドゥルーズは可能性概念を捨てたとも言えますが、ギャロウェイの線で行くなら、現働化概念も潜在性概念も捨てるべきです。関係の外在性という標語も捨てるべきです。要は簡単な話で、ドゥルーズの用語には手垢がついてしまっているから、まずは自前の用語で考えましょう、ということです。その上で、私自身は、グーグル系やセーガン系がまったくダメと言うつもりはない。だって、本当にそこでフロー体験してイッてるなら、千葉さんのいう意味で、圧倒的に貧しいじゃないですか。それに、グーグル的なものやセーガン的なものをどうするかは現実に争われるべきことですし、私の印象では、新しい唯物論には、環境主義や科学技術論などに見られるグーグル系やセーガン系に対する批判が萌していると思います。スローガン的に駄目出ししておけば片付くと思っているギャロウェイの態度はよくない。
(略)
むしろ、ギャロウェイ自身の書き物が不徹底なんです。彼が書いていることは、実質的には、プログラムに関わる概念とドゥルーズ哲学の概念を対応させているだけです。そんなことで、グーグル的なものを批評できるのかと思いますね。

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