金融失策 20年の真実 太田康夫

金融失策 20年の真実

金融失策 20年の真実

  • 作者:太田 康夫
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

近代化の一環としての貯蓄

 宵越しの金は持たぬ(略)多くの庶民は、今のように貯蓄はしなかった。そもそも貯蓄に回すお金がない貧しい人が圧倒的に多かった。また幅広く預金を受け入れる銀行に当たる組織も存在しなかった。(略)
 今の日本で貯蓄ととらえられている行動は、明治政府による近代化の一環としてスタートした。(略)
英国の郵便貯金制度を見て帰国した前島密(略)
 モデルとなった英国が郵便貯金制度を設けたのは1861年だ。ポスト・オフィスで郵便とともに、少額貯蓄を扱う世界初の試みだった。前島はその合理的な仕組みに感銘を受け、帰国後、74年に「貯金預り規則」を制定し、それに基づき翌75年に郵便為替・郵便貯金の取り扱いを始めた。
 日本は後進国だったが、貯蓄の仕組み作りは世界的にもかなり早かった。(略)まだ中央銀行もない時代に郵便貯金制度が発足したのだ。前島の狙いは中低所得層の将来への備えとしての貯蓄だったが、実際には地方で比較的裕福な層が利用した。
 政府が政策的に貯蓄を奨励し始めたのは1898年だ。(略)
[日清戦争後の恐慌で]不振の民間産業の再生が急務だった。
 蔵相の井上馨は初めて個人貯蓄を奨励する。
(略)
郵便貯金は、大衆貯蓄の受け皿へと変身していく。(略)
 20世紀の最初の10年、郵便貯金は比較的順調に伸びたが、大正時代になると伸びは鈍化する。(略)
 再び貯金の増加が著しくなるのは1930年代だ。昭和恐慌を受けて貯金金利は引き下げられたものの、郵便局は増え続けた。戦時色が強まるなかで、郵便局は貯蓄奨励の拠点と位置付けられていく。
 国家総動員法が成立した1938年には国民貯蓄増強策が国策として展開された。「報国貯蓄」がスローガンとなり、小学生にお小遣いの貯蓄を促すといった徹底ぶりだった。制度的には41年には「国民貯蓄組合法」が設けられ、少額貯蓄を非課税とした。
(略)
広瀬豊作蔵相は敗戦当日に、「預貯金については責任を持ってその安全を確保し、支払い制限の如き措置は絶対にとらない」と言明している。
[が、激しいインフレで、裏切りの預金封鎖]
(略)
 また流通していた10円以上の銀行券(旧券)は3月2日で無効とした。(略)
新円切り替えと呼ばれる措置で、引き換えられない旧券は切り捨てられた。
(略)
預金封鎖の名目はインフレ対策とされた。(略)
 国のためなら国民の預金は犠牲にしてもいいという政府・大蔵省の発想は、国を戦争へと導いた戦前の政府と変わりはなかった。銀行が安全な資産保全手段として機能しないところから復興は始まったのだ。

コラム いま預金封鎖はできるのか

[帝国憲法で]財産権は認められていたが、有事には天皇の命令が優先される。預金封鎖は(略)「勅令」に基づき実施されている。財産権は不可侵の権利ではなかったのだ。
(略)
[日本国憲法では]財産権は基本的人権として保護されている。
 財産権は公共の福祉の制約を受けるとも規定されている。(略)
[だが、金融危機]を食い止めることが公共の福祉だとの理屈は完全に否定しきれない。
(略)
 政府が国債の不履行を宣言してしまえば(略)多くの銀行が債務超過に陥る。(略)[政府が業務停止命令を出せば]事実上、預金は封鎖される。

預金封鎖から1年もたたずに、貯蓄推進運動

 預金封鎖から1年もたたない1946年11月に、衆議院内に設けられた通貨安定対策本部が救国貯蓄運動を展開する。最初の目的はインフレ抑制だった。
(略)
 この運動は、物価の上昇がゆるやかになるにつれて、インフレ抑制から、復興・発展のための資金確保に目的を変えていく。
(略)
大蔵省にも貯蓄推進本部が設けられ、全国運動として貯蓄が推進された。戦後の混乱期だったとはいえ、この時期の政策は無茶苦茶だった。国民の預金を切り捨てながら、1年もたたない間に、今度は国民に預金を呼びかけたのだ。(略)名目が[お国のためから]復興に変わっただけだ。
(略)
高度成長期に突入すると、産業界の設備需要は急拡大する。(略)貯蓄集めを担ったのは、全国の銀行と郵便局だった。(略)銀行などが個人のお金を吸い寄せる切り札は、税金をまけることだった。「マル優」といわれる少額貯蓄に対する非課税制度を導入したのだ。
(略)
 金融債の一部は無記名債として発行された。税務当局から把握されにくいため人気を博した。(略)主に富裕層に節税・脱税手段を用意してまで、貯蓄が促され、それが高度成長を支えていた。 

証券ブーム

成長に伴って証券市場が活性化する。
 このころ、はやった言葉に「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というのがあった。(略)
 ただ証券ブームは五輪後に行き詰まる。(略)[ケネディ暗殺]を機に株価が大幅に下落し、多くの投資信託が元本割れとなった。[64年山一證券赤字、65年取り付け騒ぎ発生](略)
銀行が中心になって日本共同証券を設け、同証券が株式を大量購入した。さようならといわれた銀行が、こんにちはといわれた証券会社を救う皮肉なもので、結局、銀行の信用力が再確認され(略)無責任に株価をあおった証券界への不信感は残った。

財テク

[バブルで]企業は相次いで金融業を手掛け始める。(略)その後のバブル崩壊で大きな痛手を被ることになる。
 より深刻だったのは、多くの企業で本業がおろそかになってしまったことだ。(略)
本業の競争力強化にかけられるべき経営資源が、金融業に回され、空費された。(略)世界を技術力で制覇したかに見えた企業は、競争力を失い始めていた。

米国スタイルの導入――外資の暗躍

[80年代前半の中南米債務危機の影響で収益至上主義が台頭。88年、92年からの自己資本比率規制導入合意。ビジネスモデルの見直しを余儀なくされる]
 当時、最も先端的であると注目されていたのは、米バンカーストラストの経営改革だった。(略)
[副会長]ボイタ氏の説明は衝撃的だった。(略)不良債権問題のような事態を回避するためにも、融資は市場で売却し、リスクは抱え続けない方がいいというのだ。預金を預かり、それを原資に融資するというビジネスモデル自体が古くなっており、市場をベースにしたものに全面的に変えるという発想だった。
(略)
このバンカースの考え方はウォールストリートに急速に広がっていく。
(略)
手数料に基づく収入とトレーディングに基づく収入の拡大だ。
(略)
[米で大転換が起き始めたころ]日本では金融危機のにおいが漂い始めていた。
(略)
銀行の経営者はまだ自分たちは世界で一流とうぬぼれていたが(略)米系コンサルティング会社が、ビジネスチャンスだと見て手ぐすねを引いていた。
(略)
 市場構造を見ると、米国では分厚い資本市場や、ミドルマーケットで業務を拡大しつつあった幅広いノンバンクの存在があり、マネーセンターバンクが融資業務を減らしたり、売却したりしても、それを肩代わりする機能が備わっていた。しかし、日本では融資は銀行が圧倒的なシェアを確保しており、その銀行が融資を抑制すれば景気に甚大な影響を及ぼす。
 コンサルの提案は日本経済全体を見渡すようなものではなかったし、彼らにそんな気もなかった。それでも有効な改革策が打ち出せない銀行にとっては、収益至上主義の導入は目先の収益を高め、不良債権問題を乗り切る処方箋に映った。(略)銀行は米国型の手法をつまみ食いし始める。(略)
[給与の引き下げなどの経費節減で収益はあがり]メガバンクなどでは経営トップの年俸は大きく増えている。行員の給与を下げて成績を上げたトップが懐を肥やしたわけで、その分、従業員のモラルは落ちている。

橋本政権の日本版ビッグバン

 ビッグバンを推進した橋本龍太郎首相はのちに、「銀行の真の状況を知っていたら、ビッグバンを(あの時点では)やらなかった」と述べていた。
 橋本氏は銀行の状況が万全ではないことは当然認識していた。1995年には兵庫銀行が破綻している。しかし、金融行政を担当する大蔵省から上がって来るのは、不良債権は40兆円で対応可能というものだった。(略)
大和銀行がニューヨーク支店で問題を起こしたのを受けて、米国の邦銀への見方が厳しくなる。金融システム改革を求める圧力が強まり、橋本氏はビッグバンの実施を決断する。
 当時、米国からの改革圧力の矢面に立たされていたのは、榊原英資氏が率いる国際金融局だった。米国の圧力を身近に感じていただけに、ビッグバンに積極的で、外為法改正が先陣を切った。米国では意向を酌んだ榊原氏の評価が高まり、財務官を務めた後、米シティグループ傘下のソロモン・スミス・バーニーの顧問委員会メンバーとして迎え入れられた。財務官退官からわずか4ヵ月後だったが、米国の金融機関で天下り規制には抵触しないとの解釈だった。
 ビッグバンは内外からの新規参入などによる競争の促進でもあり、既存の金融業者の経営は圧迫される。橋本氏は銀行経営が厳しいとはいえ、改革を吸収できる体力は残っていると判断していたのだ。
 しかし、邦銀の実態は大蔵省の報告よりも深刻だった。不動産価格が下げ止まらず、不動産担保融資の傷みが拡大した。国際市場では1995年に再びジャパン・プレミアムを付けられ、調達コストは大きく上昇した。そして97年に山一証券北海道拓殖銀行などの連鎖破綻が始まる。翌年には日本長期信用銀行日本債券信用銀行が国有化された。
 ビッグバンを決断した政府は、史上最悪の金融危機の真っ最中に金融構造改革を進めることになる。規制緩和で競争を促す一方で、銀行を救うために公的資金を投入するという異様な光景が現出した。だれが考えても中途半端な政策にならざるをえなかった。
「後講釈かもしれないが銀行の停滞は、銀行局の人事が大きかったのかもしれない」(略)ある大蔵省有力OBがこんな感想を漏らしたことがある。(略)
 大蔵省が当初、最優先だと考えたのは、損失補塡などで揺れる証券システムの立て直しだった。竹下首相の秘書官を務め、総務審議官をしていた小川是氏を証券局長に起用した。小川氏は税務畑のエースであるとともに、銀行局が振り出しの財務官僚で銀行制度にも詳しかったが、政界とのパイプなどへの期待もあり証券の火消し役に回る。
(略)
 しかし本来、90年代半ばに必要だったのは銀行の立て直しだった。小川氏が92年の段階で最も政界とのパイプがあり、金融に明るいのなら、証券局長ではなく銀行局長になって、銀行改革に取り組んだ方がよかったというのが、この大蔵OBの見立てだった。
 実際、その後の銀行行政は蛇行する。銀行の情報開示の不透明さが批判され、住宅金融専門会社問題では農水省との不透明な対応が問題視された。銀行局長の対応は後手後手に回り、肝心の不良債権問題への対応は不十分なまま、97年に北海道拓殖銀行の破綻を迎えることになる。初動ともいえる金融人事のボタンのかけ違いは、日本の金融システムに大きな禍根を残した。

竹中平蔵

 問題の根深さを見せ付けたのが、りそなだった。(略)
 当時の竹中平蔵・金融担当相は、りそなへの公的資金投入を決めている。破綻後に投入されたそれまでの例とは異なり、破綻前に銀行から申請する形で実施された特異なものだった。投入額は1兆9600億円と巨額に上り、りそなは実質国有化された。
 この際、竹中氏はりそなの株主責任は問わなかった。それまでに国有化した日本長期信用銀行などでは、国有化に当たり株主責任を問う、株式は無価値となった。公的資金の投入を受けて、りそなの株価は急騰し株主は株式が無価値にならずに済んだ。それどころか、救済の可能性に賭けてりそな株を購入していた投機色が極めて強い外国の投資ファンドなどは、大儲けした。
(略)
自己責任を問うという流れが、中断するどころか、問わない方向に逆行したのだ。
 当時の当局関係者に聞くと「りそなは繰り延べ税金資産が否認され自己資本比率は4%を割ったが、0%を割る債務超過ではなかったため、株主責任を問うことにためらいがあった」と弁明していた。しかし海外では2%を割れば事実上の破綻対応をとることもあり、2兆円近い公的資金投入の理由としてはあまり説得力がなかった。
 政策転換の本当の理由は別にあると見られていた。りそなの前身の大和銀行は、政治家との関係が深いことで知られていた。
(略)
 株主責任が問われないくらいだから、そこからさらに遠い預金者の自己責任については問えない――。結局、ペイオフが解禁されても預金は全額守られるとの確信が強まった。預金に関しては護送船団のときと大きく変わっていないことが、りそなの事件で改めて、確認されたのだ。
(略)
 りそなで強まった「預金は依然保護されるだろう」との預金者の期待は、2003年11月の足利銀行の破綻でより強いものになる。
(略)
向江久夫氏は社長、頭取、会長と19年にわたり君臨したワンマン経営者で、まさにやりたい放題だった。(略)
[足利銀は]りそなと同じ形での救済を探った。しかし預金保険機構はすでに同行が債務超過に陥っているとして、株主責任を問い、株式は無価値になった。(略)
 足利銀の場合、地方銀行であり、仮にペイオフを発動しても、その直接的な影響は地元の栃木県に限られる。(略)
 しかし政府は地域経済などへの影響が甚大だとして、預金を全額保護している。(略)
預金は守られるという神話は生き続け、預金資金を投資に回そうという政府の目論見はうまくいかないままになる。

海外に資金をいざなう投信

 「貯蓄から投資」は日本のお金の使い道をゆがめた面がある。貯蓄を担った銀行は集めた資金を国内に還流させたが、投資の柱を期待された投資信託は資金を海外に流出させた。お金が国内で使われなければ、国内景気の浮揚には役立たないのは明らかだった。
 古くからの銀行システムは、銀行が預金を集め、それを国内で企業向け融資に振り向ける仕組みだ。それを使った設備投資が、新たな雇用を生み、成長を促し、賃金水準を押し上げ、さらに貯蓄が増える好循環を生んだ。(略)
 このお金を国内に還流させるメカニズムが揺らいでいたのは間違いない。(略)[バブル崩壊で]設備投資意欲は低下していた。また円高の影響でそうした企業の新規設備投資は海外に向かっていた。
(略)
「貯蓄から投資」の掛け声とともに、その有力商品として台頭したのは、おばけ投信といわれたグローバルソブリンだった。(略)
 投信の内訳は、海外物が多かった。国内の株式相場は長く低迷し、有力な株式投信は育たなかった。(略)
「貯蓄から投資」を推進すればするほど、貯蓄資金が海外に流出し、国内の経済活性化に回らないという皮肉な結果になった。
(略)
 ビッグバンのなかで推奨された金融技術に証券化があった。資産を担保にした新しい有価証券を作り出す手法だが、日本ではうまくいかなかった。
(略)
 この仕組みに関心を持ったのが日銀だった。2003年に資産担保証券の買い入れを始めた。新規ビジネスなどへの関心が高かった福井俊彦総裁は「初期段階にある流動化市場をサポートする狙いがある」と言っていたが、本来の日銀の使命に沿っているかどうかは疑問だった。
 日銀の試みは失敗する。米国では融資金利が高いため、それを証券化して、融資金利よりも低金利資産担保証券を作り出した。それでも社債金利よりは高く、市場に受け入れられる余地があった。(略)
 日銀が資産担保証券の担保に想定したのは融資債権だが、日本ではその金利社債金利よりも低い。そもそも証券化する経済合理性に乏しかった。市場は拡大せず、買い入れの残高は低迷を続けた。証券化が機能するメカニズムに対する根本的な理解が欠けていたのだ。

金融を殺した低金利

金利カニズムを使って預貯金から資金を追い出し、投資に回そうとした。
 しかし「投資」を促そうとする金融当局の思惑は外れることになる。(略)
[将来に備えるための]預貯金の資金を振り向けるなら、債券やリスクの低い投資信託だ。しかし、政府も証券会社も個人の運用ニーズを中心には考えず、株式か株式で運用する投資信託への誘導を重視し続けた。保守的な個人がそうした誘いに乗らなかったのは当然だ。
 株式振興だけを考えて超低金利にするより、ゆるやかな低金利にしておいた方が債券の金利面での魅力は残ったはずだ。債券の利回りが極端に押しつぶされなければ、預金代替となり得る金融商品が拡大する余地があったが、日銀の超低金利がそれをつぶした。
(略)
 もうひとつ超低金利で大きかったのは、預金者の利息収入の圧迫だった。1980年代には金利が高く、例えば1000万円貯蓄すれば、年間40万〜50万円程度の預金金利収入が期持できた。(略)
 超低金利政策は預貯金金利を極端に圧迫した。政策的には調達が多い企業、負債が積み上がっている政府部門に延々と配慮し続け、個人部門から企業部門に巨額の所得移転を行った。
 日銀の記者会見を聞いていると、松下康雄総裁までは利下げで「年金生活者に迷惑をかける」という配慮が感じられた。政策的な配慮のポーズだったかもしれないが、一応、個人を犠牲にしている事実に目を向けていた。ところが、そのあと日銀出身の総裁が3代続くが、所得移転で個人に迷惑をかけるといった配慮は全く感じられなくなった。
(略)
 仮に金利が1%高ければ毎年、家計の預貯金金利収入は6・5兆円増えることになる。その半分が消費に回るだけでも相当の効果になるが、そうした預貯金金利を経由した消費刺激は考慮されなかった。景気対策は国の事業、企業への補助金が主役というのが政府の考えで、個人はその資金を拠出する主体としてしか見られていない。

米銀は「預金」重視

 銀行は無責任な金融政策の犠牲者であるのは事実だが、だからといって真っ先に利用者との接点である支店の削減に取り組むのは、どうだろう。
(略)
 「貯蓄から投資」のモデルとなった米国では何が起きているのか。
 邦銀は「預金」より「投信」という流れだが、米銀は「預金」重視が鮮明だ。資金調達全体に占める預金の割合は、2006年に邦銀の73%に対し、米銀は65%だった。ところが、16年には邦銀の70%に対して、米銀は76%と、日米が逆耘している。
 米銀の商工業向け融資を見ると、残高は2017年までの20年で2・4倍になっている。20年前ビッグバンを進めた金融制度調査会の認識は、間接金融から直接金融だったが、その後、モデルの米国で間接金融が復活して、驚異的な伸びを見せたのだ。
 邦銀はフィンテックヘの対応として支店削減に取り組もうとしているが、フィンテックで邦銀のはるか先を行く米最大手のJPモルガン・チェースは2018年1月23日、今後5年間で米国内に新たに400支店を開く計画を明らかにした。
(略)
支店はクレジットカード、住宅融資、自動車融資、商業サービス・ビジネスバンキングの拠点になっている。利用者をベースに考えると、支店サービスは欠かせないという経営判断だ。
 人口10万人当たりの銀行支店数を見ると、日本が16なのに対し、フランスが57、ドイツが44、イタリアが48、英国が17、米国が26、カナダが24となっている。金融庁や日銀は、日本はオーバーバンキングだと言うが、決してそんなことはない。日本はG7諸国のなかで銀行支店が最も少ないのに、さらに減らそうとしているのだ。