福沢諭吉の『学問のすゝめ』   橋本治

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

  • 作者:橋本 治
  • 発売日: 2016/06/09
  • メディア: 単行本

ステロタイプな名文から逃げろ

 《学問とは、ただむつかしき字を知り》に始まって《世上に実のなき文学を言うにあらず》と言う福沢諭吉は、「学問とは文章の学である」という既成概念から離れろと言っているのですが、それを言わせるだけの魔力が、文章にはあります。(略)
 国木田独歩が『自然を写す文章』を発表した明治39年は、66歳で福沢諭吉が死んだ五年後です。
[独歩は多くの紀行文を読み]「うっかり漢字なんか知っていると、それを使って嘘っぽいことを書いてしまう」と言っているのです。それが《文章に役せられて》です。たとえば、山がけわしくそびえ立っていることを「山嶺峨々たり」と書くと知っていると、その山がそんなにけわしくなくても自分の知っている表現に引きずられてそう書いてしまうのです。そう書けば「教養のある人」と思われるだろうという、一般的な思い込みがあったのです。
 国木田独歩以前、文章を書くというのは、ステロタイプな表現をところどころにあてはめて行けばよいもので、その表現をいっぱい知っている人が「文章家」と言われたりもしたのです。福沢諭吉が死んだ後でさえも、まだそうです。うっかりすると「そういう名文のようなものを書かないといけないのじゃないか?」と思ってしまうくらいに、明治時代以前に完成していた文章には、人を縛る力があったのです。だからこそ福沢諭吉は、「古い学問から逃げろ、じゃなきゃ新しい時代は来ない」と言うのです。

「虚学」と「実学

[孔子の死後]「孔子はこう言ったはず」と時代の要求に合わせて解釈を作り上げて、いつか学問は「孔子の考えを学ぶ」から、「孔子の考えを解釈する」という方向に移ってしまいます。(略)
[1600年後朱子が]それ以前の儒教の解釈を統合し、彼自身の解釈も加えて、儒教のあり方を一変させます。時代の必要に合わせて儒教を変えたと言ってもいいと思いますが、そういう彼は、彼以前に存在していた多くの儒教の解釈学を「虚学」と言いました。(略)
 朱子の考え方は、既に儒教を学んでいて「でも、だからどうだっていうのかな?」なんてことを感じている人に、「あ、そうかー」と思わせるような理解をもたらしました。[その朱子学もやがて時代遅れになる]
(略)
実学」は簡単に「虚学」になります。「虚学」か「実学」かを判断するのは人の心です。納得出来れば「実」で、納得出来なければ「虚」です。(略)でも、「こんなものはもう役に立たない時代遅れだ」と見捨てられたものであったとしても、そこに新たなる目が向けられて「納得」が甦ったら、それはもう「実」の学です。
 「実学か虚学か」を判断する基準は、「社会の役に立つかどうか」ではなく、まず人の心に納得を呼び起こすかどうかで、「社会の役に立つかどうか」はその次です。(略)
[虚か実かの判断方法は]「これはなんの役に立つのですか?」を尋ねた時に、ちゃんと答えてくれるのが「実」で、答えてくれないのが「虚」です。
 答えてくれても、その答え方が嘘臭かったら「虚」ですが、「なんの役に立つのですか?」と尋ねて、「なんの役にも立たないんですよ」という答が返って来たら、それは「実」です。「今はなんの役にも立たないけれど、将来はなにかの役に立つかもしれない」と思っているから、あっさりと「なんの役にも立ちません」と言えてしまうのです。
 自分の学問を「虚」にしてしまっている人は、「なんの役に立つのですか?」と尋ねても答えてくれません。「お前なんかに関係ないことだ」と思っているからですが、従事する人間にとってだけ意味があるようなものは、「実学」なんかじゃありません。

[初編を書いて終わりのつもりだったが、ニ年後、11編までを月刊ペースで発表。3編までは易しく書いたけど、4、5編は学者に喧嘩を売ったので文章が難しくなったよ、でも6編からは元に戻すからヨロシクと諭吉。]

自由と《分限》

 実は、「自由」という日本語には、古いものと新しいものとの二種類があるのです。西洋からやって来た新しい概念が「自由」と訳される[「自由民権」とか「自由の権利」](略)そういう「自由」が西洋からやって来る前の日本にも「自由」という言葉はあって、なんと彼の兼好法師が『徒然草』の中で「自由」という単語を使っています。(略)
[その]使い方は、「好き勝手」であって「わがまま」です。これが日本古来の「自由」だから、福沢諭吉は《ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。》と言って、《自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。》と言うのですね。
 「自由とはわがままのことである」と知っていて(略)だからこそ「今までの“自由”じゃだめだ」と思うのですね。
(略)
 兼好法師の使った「自由」は(略)仏教系の言葉です。(略)解脱してなにものにもとらわれない悟りの境地だ」ということになり、『徒然草』にある「なにものにもとらわれず、好き勝手」ということになります。
(略)
 仏教というのは、「この煩悩まみれの自分をなんとかしたい、悟りを開きたい」というところから出ています。その中心にあるのは「自分をなんとかしたい」ですから、「人とは本来自由なものであるはずだ」という考え方は簡単に生まれて、簡単に「そうだ」という納得を生みます。
 そして、「現実社会じゃそういうことは簡単に実現しないんだな」と思い、「人里離れたところに行って自分を見つめ直そう」になります。(略)
「自分はなんとかならないかな」と、自分のあり方を見つめて行った時になにが見えなくなるのかと言えば、「他人の存在」です。(略)
仏教は簡単に「しがらみを捨ててしまいなさい」と言います。そして「人間は本来自由な存在なのです」と言われると、「他人とは関係なく自分は自由だ」になってしまいます。そういう考え方が、人里離れたお寺から人里へ還流してしまえば、もう「俺は自由だ、なんにも関係ない」の気随気儘は定着します。
 「江戸時代まではそれでもよかった。でもこの先もそうだと困る」と思うのが福沢諭吉で、その彼が出して来る「自由の扱い方」が、先はどの後回しにされた《分限》で
(略)
 人間は、一人の頭で考えてしまうから、「自由」は簡単に「わがまま」になってしまう。そういう人間は、「自分のあり方」も自分の頭で考えて、勝手に「自分はこういうもの」と決めつけてしまいます。「でも、そんなことをしていてもどうしようもない。だから《分限》を考えろ」と、福沢諭吉は言うのですが、そうなると《分限》というものがどういうものかははっきりします。それは「自分なりの自分のあり方」であって、同時に「自分があらねばならないと思える、自分のあり方」なのです。
 そういう考え方をするためには、「剥き出しの自分一人」で考えていても出来ない。「自分か所属する類」の「あってしかるべき一員の姿」という考え方をしなければならない。――つまり「クラスの一員だからクラスのルールに従う」です。それが《分限》で、つまりは「責任ある個」ということだったりはします。
 福沢諭吉は、そういう「自分」にならなきゃ、この先の日本はないなというつもりで『学問のすすめ』を書いているのです。

《自由》と《独立》

 福沢諭吉が「徳川幕府もなくなり、身分制もなくなったので自由になった」という言い方をしない理由はもう明らかで、明治時代にならなくても「自由」はあったし、その「自由」は我々の思う「自由」とは違う「わがまま勝手」に近いものだったからです。(略)
[「他人に迷惑をかけない自由」の説明]をしない代わりに、福沢諭吉は《自由》と《独立》をドッキングさせて、《自由独立》という言葉を使い始めます。
(略)
《独立》をドッキングすることによって、《自由》にfreedomやlibertyの意味が加わ[り、《独立》の中に隠されていた「なにかへの依存状態からの脱出」という意味が浮かび上がる。なににおいて不自由だったのか?]
(略)
 「今の日本人は、昔の日本人のように“自由気まま”の権利を行使するだけでいいわけがない“政治に関わる自由”という義務に目覚めるべきだ」と、私なりに解釈すれば、福沢諭吉は言っているのです。
 福沢諭吉の言うことは、「政治に参加しろ」ではありません。「政治を意識するようにしろ、それが出来るようになれ」で、「政治に目を向けろ」です。

啓蒙思想

ヨーロッパ人達は、「啓蒙思想」と言われるものが登場するまで、自分達の考え方や感じ方を「キリスト教が許容するガイドラインの範囲内に留めておく」ということを、当たり前のこととしていたのです。
(略)
 啓蒙思想は、「他人によって決められたガイドラインに沿って物事を考えなければならない理由なんかないじゃないか」というところから生まれます。「自分はいろんなことを経験しているはずだから、それを基にして考えるということをしてもいいはずだ」というのが、イギリスのロックの経験主義です。これが意味を持つというのは、「自分の思考する力は神様から与えられたものだから、そうそう勝手なことは考えられない」という宗教由来の経験主義を許さない背景があってのことです。
(略)
「人間も、神様由来ではない人間オリジナルの存在であっていいはずだ」というところから近代小説も誕生するのですが、啓蒙思想が最も爆発的に存在してしまうのは、「政治」という局面です。
(略)
 「王様の力は神様に保障されている」になって、王様は好き勝手なことをします。これを「迷惑だ」と思う国民は、「王様の力が神と結びついているなんてことは、嘘だ」ということを理性的に説明しようとして、それが啓蒙思想になるのです。
 だから、「王様のものになっている国家とはなんだ?」とか、「王様と法律と我々の関係はどんなもんだ?」ということを考えます。
(略)
[神様の決めたことで]全部を一まとめにして曖昧なままにしておいたものを、合理的に説明し直そうとしていた時代だからです。(略)
福沢諭吉は「啓蒙思想の人」ではありません。[「啓蒙家」です。](略)
 ヨーロッパの啓蒙思想には、広く浸透してしまったキリスト教の影響力という「敵」がいます。「敵」がいる以上、その攻め方も明確になって、論点やその方向もはっきりします。でも、明治五年初頭段階の福沢諭吉には、その「敵」がいないのです。だから、『学問のすゝめ』で彼の言う《独立》は、「なにかへの依存状態からの脱出」ではなくて、「ただ埋没しているその状態からの脱出」なのです。カントが言うような、「自分の悟性を使えなくさせている他人の指導」というものもないのです。
 「日本人の自由を奪っていた」と言いたい人は言うかもしれない徳川幕府は、もう存在しなくなっています。やがては「新たな敵」として姿を現して来るかもしれない明治維新政府だって、まだ出来たばかりでそうそう大きな力を持っていません。(略)
「平穏」なままで、同時に「なにをしたらいいのか分からない」という状態でした。だからこそそこに、「啓蒙」というものがいるのです。(略)
「視野が暗い」という状態が「蒙」で(略)この暗い状態を「啓く」だから「啓蒙」で、なるほど「光を当てて照らす( Enlightenment)」です。

福沢諭吉は体制擁護か?

福沢諭吉の言うことは、「学問をして新しい時代を創ろう」ではなくて、「学問をしてつまらない文句を言わないようにしよう」である方に、大きく傾いています。
 どうしてそういうことになったのかというと、これまた話は簡単で、『学問のすゝめ』の初編を書く段階で、福沢諭吉はまだ維新政府と対立をしていなかったからです。
 福沢諭吉は、まだ「新しい時代は新しい政府が創る」と考えていて、「だから、普通の国民は“新しい時代”というものがどういうものかを理解して、へんに騒ぎ立てて政府の邪魔をしないようにしよう」という立場を取っていたのです。それで、「政府には慈悲心があるはずだから、おとなしく勉強をしているように」というトーンになるのです。
 『学問のすゝめ』の初編が「政治に目覚めよ」というようなことを言っているような気がして、そのつもりで読むと「なんだか分からないところ」へ行ってしまうのはそのためで、『学問のすゝめ』の初編は、「政府を監視しよう」とは言わずに、「政府はそんなにひどいことをしないはずだから、政府に反抗するのはやめよう」と言っているのです。そういう種類の啓蒙だから、現在の目で見ると、「分かるような気もするけど、なんか分からない」ということになってしまうのです。
 そこのところをとらえて、「福沢諭吉は体制擁護的だ」なんてことを言っても仕方がありません。
(略)
[ところが、4、5編でキレる]
五編の初めで《世の学者は大概皆腰ぬけにてその気力は不慥なれども、文字を見る眼は中々慥かにして、如何なる難文にても困る者なきゆえ》とその理由を言って《学者》を罵っています。(略)
[この学者とは、古い漢学者や国学者ではなく、幕府に派遣されて洋学を学んできた洋学者]
明治の新政府は、その人材がほしいのです。だから新政府は、そういう人材を求めて「ウチの官吏にならないか?」という働き掛けをあちこちにしました。当然、西洋のことに詳しい福沢諭吉にもその勧誘はありますが、彼はそれを断って、明治維新政府とは一生距離を置き続けます。
 だから、福沢諭吉は自分のことを《学者》とは思わないのです。福沢諭吉の言う《学者》とは、改めて明治維新政府に召しかかえられた、旧幕府系の洋学者なのです。
(略)
[森有礼選出の「近代日本に必要な洋学者10人」のひとりとして他のメンバーと話して「これじゃだめだ」と思った結果が]
《学者の職分を論ず》です。
《職分》というのは、「職業上の義務」で、「その職業に就いた以上やっておかなければならないこと」ですが(略)諭吉は、「その職分がなってない!おかしいじゃないか!」と怒って(略)
では福沢諭吉は、なにを「なってない!」と怒っていたのでしょうか。

理想から離れてゆく現実に怒る

 二年前の初編では「愚民になるな」と読者に訴えていたのに、二年後に《学者》相手に訴える時にはもう、《人民は依然たる無気無力の愚民のみ》と断定してしまっています。よほどこれがくやしいのでしょう。二年前にそうは言わず、《政府はその政を施すに易く諸民はその支配を受けて苦しみなきよう》としか言っていなかった《政府》が、《専制の政府》になって、そこに《依然たる》がくっついているのですから、「今に始まったことじゃない、維新政府はその以前から専制だ」と、福沢諭吉は明確に知っていたことになります。
(略)
 《(略)政府は暫くこの愚民を御するに一時の術策を用い(略)欺詐術策は人生必需の具となり、不誠不実は日常の習慣となり、恥ずる者もなく怪しむ者もなく(略)政府はこの悪弊を矯めんとして益々虚威を張り、これを嚇しこれを叱し(略)》
(略)
国が勝手なことをやって「でも国民はついて来るさ」なんていうのを野放しにしていたら、日本はかつての専制政治に逆戻りで、不誠と不実ははびこり、その原因を作ったはずの政府は、力によってその「不誠不実状態」を押さえ込もうとする。(略)
 『学問のすゝめ』初編の段階で、福沢諭吉はこういうことを感じ取っていたはずです。でも、それを言いませんでした。「政府はこわいもので、勉強をしないとこわい人が来るよ」程度で、その結論は、「みんなで平和を信じて護って行きましょう」でした。嘘をついたわけではないでしょうが、「なんにも知らない相手を啓蒙するに際して、希望をなくすようなネガティブなことは言わない方がいいな」と思った結果のことだろうと思います。それが、「戦え!」と号令を掛ける革命家ではなくて、「明るくする」の光の啓蒙家のあり方だと思いますから。
 そうであっても、第四編の福沢諭吉は、ちゃんと、今の国民は《愚民》で、その政府は《専制の政府》だとはっきり言っています。だから、「そういう政府につながってるだけでいいのかよ!」と、福沢諭吉は《学者》に対して怒っているのですね。
(略)
[あからさまに学者を罵る]代わりに、「私は官に結びつく学者じゃない、“私立”の人間だ。少しはこっちのことも理解したらどうだ!」と言うのです。
(略)
福沢諭吉は、「なんでも政府オンリーでいいわけじゃない。政府と民間(人民)が協力しなきゃいけないはずだ。だから、政府は官とは関係ない俺のあり方を認めろ!認めたっていいじゃないか」と言っているのです。言い方は穏やかですが、その相手が《専制の政府》だったりすることを考えると、これはかなりの度胸で、「お前達、俺にこんなことを言われて平気か?」と詰問される《学者》達は、《大概皆腰ぬけ》になってしまうはずで、福沢諭吉は、これを言うことによって、「敵」が存在することをあぶり出したのです。
(略)
 「前の時代のひどさが分かるんだから、今の時代はいい時代だ――少なくとも“いい時代”であらねばならない」と思っているので、福沢諭吉は「新しい時代をどう作って行けばいいのか」という話をしません。だから当然、「あなたの一票が社会を作る」というような話にはならないのです。
(略)
「政府というものはかく作られてしかるべきである!」というように、「民主主義のあり方」を語ったりもしません。福沢諭吉にとって、それは「啓蒙」ではなく「煽動」に当たるようなことなのでしょう。
 激動の幕末に生きて、自身も横暴なる支配階級である武士の一人だった福沢諭吉は、「秩序を乱す」ということが嫌いなのです。

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