- 作者:軽部 謙介
- 発売日: 2015/09/26
- メディア: 単行本
「対日圧力」と「ワシントンの権力構造」
[FRB議長ボルカーは公定歩合引き下げ却下を提案したが、三対四で否決され、財務長官ベーカーに辞表提出、慰留され]
FRBが単独で利下げをすればドルの急落を招きかねないと恐れたボルカーと、利下げを求める理事たちの妥協[で]
(略)
「二週間で日本と西独に利下げをのませる」
FRBの奥の院で発生したクーデターの結果、協調利下げが焦点となった。米側から日本に対する圧力は強烈になっていく。しかし緒方が電話を受けたとき、日銀では誰一人としてそんな事態が起こっているなどとは知らなかった。
(略)
これはレーガン政権だけでなく、ブッシュ、クリントンと続く日米摩擦の典型的な対日話法になっていく。「われわれは保護主義者ではない。しかし、議会の圧力が強いのだ」というロジックだ。
そしてそれはウソではなかった。(略)
日本のような議院内閣制と異なり、米国では連邦議会が強いパワーをもつ。仮に大統領と同じ党派であっても、議員たちは独自の行動をとる。
80年代後半もレーガンは常に議会の攻勢にさらされていた。さまざまな対日制裁法案が議会に出された。ホワイトハウスは「保護主義的立場をとらない」と常に主張したが、その圧力はじわじわと政権を追い詰めた。
85年9月のプラザ合意はレーガン政権が議会に示したひとつの回答だったが、日本の経常収支黒字は縮小せず、米議会内には不満が渦巻いていた。
(略)
[FOMC幹部証言]
「日本への報復として邦銀のプライマリー・ディーラー免許をはく奪せよというバカな米国の政治家がいて、私に圧力をかけてきた。私はそれに反対だったが、ある会合で日本の大臣や総裁たちにこう言ってやった。私はあなたたちを守る。ただ、もう少しやりやすいようにしてくれ、とね」
米国は日本側の誰にものを言えば有効に機能するのかを見極めていた。FRBのジョンソンは駐米公使の内海を例に出してこう説明する。
「我々は彼には影響力があると見ていた。特に竹下登は彼の言うことを聞いていた」
どのボタンを押せば、どういう答えが出てくるかは見えているというわけだ。
それと同時に、米側は日本の統治機構における日銀の位置もしっかりと把握していた。日銀が単独では物事を決定できないこと、大蔵省が事実上権限を握っていること、などなど。
(略)
80年代のボルカー時代の後半、高金利を修正して米国経済を軟着陸させることはFRBの大きな課題だった。しかし同時にドルの急落は避けねばならない。ボルカーが日銀の澄田や緒方にしつこいくらい利下げを要求したのは、あくまでも米国経済の事情によるものだった。そしてその背景には、お互いにもつれあった議会やホワイトハウスからの有形無形の要請があった。
「米国の対日圧力」を解剖していくと、ワシントンの権力構造に行き着くのだ。
協調利下げのためのアメリカの巧妙な罠
郵便貯金との交渉がからむ預金金利の引き下げが難しいことを理由にした日銀の抵抗は、FRBでは有名だった。FRB理事のジョンソンは「預金者の不満」を強調して利下げに抵抗する日銀について、「多少預金者をがっかりさせて消費に向かわせることも望ましいのではないか」と半分冗談交じりに大蔵省に主張していた。
(略)
日銀としてはサミット前に利下げをして「中曽根首相に土産を持たせた」などと言われるのは避けたかった。澄田の言う「政治には巻き込まれたくない」というのは、純粋に経済情勢のみから政策判断をしたいという欲求だった。
ボルカーはこう返した。
「タイミングの点で政治に巻き込まれたくないという意見にはまったく同感である」
ワシントンの権力構造の変化から自分の地位を脅かしたクーデターまで起こされた。ボルカーの言葉は本音だった。
しかし、変化球を投げてきた。
「米国が公定歩合を下げる場合、日本が協調利下げをするには何日前に連絡すればよいのか」
事務的な質問のようだが、この前提は協調利下げに日本が応じるということだ。米側が仕掛けた巧妙な罠にも見える。
それに気づいたのかどうかは不明だが、澄田はこう返答した。
「一週間、あるいはそれより若干短くてもよいかもしれない。(略)
緒方もその席にいたが、のちに「その時の話の具合で、それ〔利下げ〕がすぐに起こるとは思わなかったのです」と話している。しかし、この発言は受取りようによっては「日銀も協調利下げに応じる」ともとれた。(略)
日銀内部には、「澄田は危ない」という認識があった。副総裁として澄田を支えねばならない三重野は常日頃、澄田に対して国際協調などという名目で金利の引き下げなどをすぐに約束しないように、くぎを刺していた。
(略)
このままでは、「すぐに米国の圧力に屈してしまう」として、澄田に対し日銀の中で不信感が広がりかねない。三重野は「不仲説」がでたのを逆手にとって澄田を支えようとした。
行内の求心力は、日銀生え抜きで次の総裁になると見られていた三重野の方がはるかに大きい。(略)
いつも「ここはあなたに、本当に腹の底から決めてもらわなければだめなんです」と強調しながら補佐した三重野は、澄田について「非常にバランスのとれた、理解力のある聡明な人」とみていた。同時に何か一つの信念をもってそれに突き進むというタイプでないことも分かっていた。
「あまり事が起きない平穏なときには非常に仕えやすい人だったと思いますが、修羅場に弱いというわけではないのですが、非常に修羅場に強いという感じはなかった」
「このままでは大恐慌になるぞ」と日銀を脅したボルカー
[170円を突破した円高を懸念する中曽根の意を受け緒方はボルカーに面会したが、その回答は]
「自分たちで何とかしろ。追加利下げでもなんでもすればいいじゃないか」と言っていた。
中曽根の密使作戦はあっさりと失敗しただけでなく、米側に日本の円高恐怖症を強く印象付け、「だったら、金利引下げだ」という要求を強めるという逆効果も呼んだようだ。
(略)
[1986年自民圧勝。「政局、首相に主導権」]
[利下げは考えてないと答えた澄田に、大蔵省事務次官吉野良彦は介入見送りを示唆]
米国との協調利下げに応じないなら、それに伴って円高になった場合の責任は日銀にあるぞ、その場合の始末は日銀が付けろよ――。誰がどう聞いても、脅し以外の何ものでもなかった。(略)
「介入見送り」というのは尋常ではない。(略)
米国と話していたら、突然横から大蔵省が口を出してきて、利下げしろという。おそらくその背後には米国の強い圧力があるのだろうと容易に想像できた。(略)
米国は7月11日に6.5%から6.0%へと公定歩合の引き下げを発表したが、日銀が公定歩合を引き下げなかったことに澄田は「負い目」を感じているようだと周辺はみていた。
サミットの開催など中曽根は日本の国益のために懸命の努力をしている。日銀としてもそれに協力することはできなかったのか――。
「公僕」という考え方に強い共鳴を示す澄田はそう感じているのだろう。周辺はそう思った。
(略)
[宮沢蔵相就任翌日澄田は書簡を手渡し]
――当面の公定歩合引き下げは適当ではない。
――過剰流動性とまでは言えないにしても、株価や地価の値上がりには注意が必要だ。
(略)
澄田はこの書簡に加えて、「公定歩合はすでに3.5%という低水準になっているから、次の引き下げは最後の弾丸と考えねばならない。したがって慎重かつ有効に使うべきである」と宮沢に理解を求めた。宮沢の返事は日銀関係者をほっとさせるものだった。深井メモにはこう語ったと記されている。
「総裁のお考えに異論はない。たしかにやや過剰流動性気味になってきている」
(略)
[9月ボルカーとの会談で澄田は米側は11月の中間選挙前の日本の利下げを望んでいると察知]
FRBは執拗だった。[10月ニューヨーク駐在参事南原晃がボルカーに帰国のあいさつに行くと、利下げの必要性を滔々と説かれ]
――30年代の大恐慌をもたらした最大の責任は、当時世界最大の債権国だった米国が金利を上げてしまったことにある。今は日本が世界最大の対外債権国であり、物価がマイナスなのに公定歩合を3.5%にとどめこれ以上の利下げに抵抗している。
そしてこう付け加えたという。
「このままでは大恐慌になるぞ」
米側は「使えるルートは何でも使う」という攻撃的な姿勢を隠さなかった。
(略)
86年10月は、このような利下げを求める国内の声と米国からの圧力が日銀を取り囲んでいた。しかし、三重野は国会答弁で明確に利下げを拒否した。澄田も米国の要請を断った。少なくとも三重野以下日銀幹部たちはそういう認識だった。(略)
[10月20日大蔵省事務次官吉野良彦から三重野に電話]
「10月中に公定歩合を日銀が決断するという話は、自分も初めて聞いたんだけど、どうなっているんだ」(略)
三重野は宮沢−ベーカーの間で準備が連む日米の共同声明が絡んでいると気づいた。(略)
[10月31日発表の共同声明で利下げが示される]
一つは、ワシントンのトップ同士の話し合いで澄田が宮沢にOKをだした。もう一つは、宮沢が澄田の合意なしに大蔵省事務当局に公定歩合を盛り込むように指示をだした。この二通りだ。三重野もこのどちらかであろうと推測している。
(略)
澄田は「そういうふうに承知した覚えはない」と繰り返した。一方、別の日銀幹部は澄田が「宮沢さんに頼まれたけど、機が熟したらと答えただけだ」と弁明していると聞かされた。
総務局長だった深井は「意思疎通に行き違いがあったというほかはない」と推測した。
しかし、一国の大蔵大臣と日銀総裁が「意思疎通に失敗した」で事は済まされない。
日銀は窮した。意図的かどうかは別にして、すでに宮沢は日銀が利下げをするものだと思い込んでいる。そしてそのことは、たぶん米国にも伝わっていると思われた。(略)
総合的に考えれば、勝負は見えていた。(略)
日銀に圧力をかけてきた大蔵省も無傷ではなかった。
円高を止める。そのためには米国の協力が必要だ。だとすれば彼らの求める内需拡大のためには財政も出動するべきだと、大臣の宮沢が補正予算の編成に意欲を示したのだ。政治からも「円高不況だ。何とかしろ」という声が強い。しかも大臣は財政出動を評価するケインジアンの宮沢だ。結局政治の力に押される形で[「総合経済対策」が決定](略)
それはのちにバブル加速の要因と指摘されるものとなる。
(略)
[日銀は86年はじめに地価上昇に警戒感を持っていた。11月の文書では]
「最近の地価上昇については、金融緩和が一つの要因であることは否定できない」
(略)
[三重野の一高、東大時代の友人で大蔵省事務次官や東京証券取引所理事長を歴任した長岡実談]
「三重野の気持ちは分かるような気がした。われわれが戦後の焼け野原、つまりマイナスの状態から這いつくばるようにして経済を立て直してきたのに、おかしな紳士や地上げ屋がのさばるなど、社会が健全性を失ってしまった。バブルは一種の病気だ。だから一度苦い薬を飲むべきではないかと思ったんじゃないだろうか」
次回に続く。