元老・その2 なぜ陸軍を統制できなかったか

前日の続き。

対華二十一ヵ条要求

新たに中国への日本の勢力・権益拡大を目指すグルーブ、とりわけ陸軍から様々の要求が出され、加藤ははねつけることができずに、それらを取り込む形の案を作った。これが中国中央政府が政治・財政および軍事顧問として有力な日本人を雇う等の第五号要求(加藤の意思で希望条件)も含めた二十一ヵ条要求となった。
 山県は大戦後に白色人種が連携して東洋に向かってくることを恐れ、日中関係を改善し、日露関係を強化しようと考えていた。したがって、中国への要求に第五号要求のような内容を含めることに反対であった。加藤はプライドが高く、「外交の一元化」を宣言した手前、山県に膝を屈して実情を説明し、陸軍の要求を抑えてください、と頼むことができなかった。
[外国通のイメージのあった大隈重信も]政権から16年近く離れて現実の外交への勘は鈍っていたし、幕末にオランダ語と英語を学んだとはいえ、渡欧体験もなく、英語ですら通訳なしで外国人と直接意思疎通することはできなくなっていた。英語を読む能力も定かでなく、個別の政策に対し、列強や中国の反応をどれだけ正しく予測できたか危ういものがあった。大隈は五号要求の持つ危険性を十分に感知していなかったようである。(略)
袁世凱政権は日本に屈し、第五号要求を除いて承認した。この結果、中国に強い反日感情が湧きあがった。また袁世凱政権は第五号要求の内容を列強に漏らしたので、米国は日本を非難し、同盟国イギリスも日本を警戒するようになった。列強から見ると、第五号要求以外は帝国主義の時代に常識的な要求であり、第五号要求さえなければ、中国からの批判が起きても、米国からの強い批判はなく、イギリスも平静に受け止めたはずである。(略)
山県は時々元老に報告するようにと加藤外相に伝えていたが、加藤は従わなかった。(略)
[第五号要求の危険性を理解していた点]以外の山県の外交論は現実離れしたものだった。(略)
[それに比べて、原敬は]大戦後には米国が台頭し、列強間の経済競争が激しくなるという正確な予測を固めていった。(略)原は大戦後を見通すことができたが、大隈内閣と山県ら元老との奇妙な妥協・連携によって排除され、影響力を及ぼすことができなかったのである(伊藤之雄原敬』下巻)。

原敬 外交と政治の理想(下) (講談社選書メチエ)

原敬 外交と政治の理想(下) (講談社選書メチエ)

元老存廃をめぐる闘争

[辞意を内奏した大隈の主張は、天皇に後継首相に加藤高明を推薦する正当性は、憲法上の根拠もない元老よりも、衆院過半数を得た政党を束ねる自分にあるというものだった]
このようなジャーナリズムの空気に乗り、大隈は元老制度の廃止につながる方向を目指したのである。(略)
山県は松方・大山の両元老が自分と同じ考えであることを確認し、1916年9月30日、大正天皇に拝謁した。山県は大隈辞任問題の経過を天皇に説明し、天皇から支持を得たと確認した。
(略)
 このように、元老制度の存廃をかけ、最有力政治家たちが大正天皇を巻き込んで権力闘争を行った。この間、主導権を握った山県は、政友会前総裁の西園寺を元老に加えることにより、間接的に衆議院第二党の支持を得ている形を作り、元老制度に正当性を加えて守ったのである。また山県は、大隈と加藤・同志会と、原・政友会のそれぞれとの関係を保ち、両者を競わせ、最終的に自分が主導権を握る余地も残した。
 大隈は、個人的に天皇との連携を志し、敗北した。大隈の掲げるイギリス風の政党政治の理念は、大正天皇も共鳴するところであったが、政治経験がなかったので、すでに述べたように1915年に山県に威圧された後は、すべてのことを山県や元老に相談するように、精神的に追い込まれていた。しかも(略)宮中側近も山県の路線でしっかり固められていた。 

大隈、原、山県の死

[1922年大隈83歳で没]山県が彼を元老にしようとして、原内閣の成立に際しては、後継首相推薦のために参内したこともあり、元老であるかのように報道され、自らも元老に類似した行動をすることもあった。しかし、元老松方・西園寺から元老になることの賛同を得られなかったため、元老になることなく世を去ったのである。
(略)
 原が暗殺される前日から、山県は熱を出し、体調を崩していた。その後、原の死のショックもあり、病状は一進一退の状態が続いた。弱気になった山県は、信頼してきた私設秘書の松本剛吉を西園寺に譲ろうと考えた。山県の命で、松本は(略)「坐漁荘」を訪れ、西園寺の御眼鏡に適った。2月1日、山県は眠るように息を引きとった。大隈と同じ、享年83であった。
(略)
 山県が死去し、元老は高齢であまり頼りにならない松方と、松方より14歳若いが72歳になっている西園寺の二人だけになった。(略)[西園寺は元老として]寺内・原・高橋の三つの内閣の誕生にしか関係していなかった。
 また、大正天皇は形式的な政務でさえまったく行えなくなり、前年11月には裕仁皇太子が摂政に就任していたが、20歳の摂政は後継首相推薦の手続き等にも慣れていない。このため、元老の役割は引き続き重要だった。(略)
[1924年松方死去、元老は74歳の西園寺一人に]

若い天皇への批判

[1926年大正天皇崩御]
 残された問題は、天皇としての政治的訓練をほとんど受けていない若い天皇を、77歳という当時としてはかなり高齢な西園寺が元老としてどのように導くか、であった。西園寺はこの役を、基本的に牧野内大臣に任せた。(略)
 牧野伸顕は誠実で力量のある政治家であったが、明治維新と新国家を軌道に乗せるまでの修羅場を体験していない。また、外相・文相・農商務相の経験はあるが、首相として国家を取り仕切ったことはなかった。四年間の宮相を経て内大臣となっても、若い天皇を導くのには、少し経験不足であった。
(略)
[1927]年の秋には、平沼騏一郎枢密院副議長など右翼やそれに近い有力官僚の間で(略)
近年は天皇の「親政」ということがだんだん「薄くなる様」であるとか、天皇は意志があまり強くないとの話があり[弟の]秩父宮には何事も及ばないと(略)
 昭和天皇が威信を強めることができないなかで、それを補完すべき元老西園寺も[重い病状、そこに張作霖爆殺事件。早い段階で日本軍の仕業という真相を知った西園寺は田中義一首相に断固処罰するよう主張。田中は天皇に拝謁し処罰すると述べた。ところが陸軍は真相公表に反対。白川陸相は暴露すれば日本の不利益になると上奏](略)
 これに対し、牧野内大臣昭和天皇は、受け入れるしかないと判断した。その理由は、陸軍首脳が一丸となって決めた事件の処理方針を天皇が認めなければ、陸相が辞表を出す可能性が高い。そうなれば内閣が倒れ、十分な権威のない若い天皇の下では、後任陸相が得られず新内閣ができない。結局天皇が陸軍に屈服せざるを得なくなることが、予想できたからであろう。陸軍を抑えられず、元来田中首相に好感を持っていなかった牧野内大臣昭和天皇は、最初の方針を転換した田中への反感を増大させた。(略)
西園寺は牧野に対し、天皇が首相に問責の言葉がを発することは、明治天皇以来先例がなく、首相の辞任につながるとして反対した。(略)
[だが牧野は西園寺の忠告を無視]
天皇田中首相を問責し、翌日に田中が再び拝謁を求めても、鈴木貫太郎侍従長を通して拒否した(伊藤之雄昭和天皇立憲君主制の崩壊』)。
(略)
 牧野は最後の段階で正義感と田中への悪感情に走りすぎ、その結果、軍も含め右翼や保守派方面から正当性を疑われ始めている。(略)
[西園寺の判断は正しかった]
この後、牧野内大臣ら宮中側近の「陰謀」に、意志が強くない昭和天皇が引きずられて田中首相への問責が起こったというイメージが、軍人や右翼、および政友会など保守派に近い人々の間に、少しずつ広がっていった。これが、天皇は全体を考えて公平に判断している、というイメージの形成に、長期的に大きな障害となっていく。
(略)
[ロンドン海軍軍縮会議]昭和天皇は条約を成立させるよう、浜口首相を密かに激励した。(略)
[「国防があやうくなる」と反対意見を上奏しようとした加藤軍令部長を鈴木侍従長は上奏拒否]

満州事変

混成旅団は天皇の命令を待たず、国境を越えて満州に入り、関東軍司令官の指揮下に入ってしまった。
 これは、天皇統帥権を陸軍がないがしろにした異常な事態であった。田中首相の問責や加藤軍令部長に対する上奏拒否は、昭和天皇内大臣侍従長らの宮中側近が旧来の慣行を破った事件である。宮中側近が攻撃され、軍や右翼・保守派から、天皇も含めてその権力行使の正当性に疑問すら持たれるようになった。今回は陸軍が慣行を破って天皇統帥権をないがしろにしたのであり、うまく対応すれば、逆に陸軍統制を回復し、事変を収束させる好機会にできる可能性があった。
(略)
[京都にいた]西園寺は、万一若槻内閣が辞意を示しても、この事件がすべて片付くまでは、天皇は絶対に許してはならない、と鈴木侍従長と牧野内大臣に伝えるよう、原田に命じた。(略)
[また]独断越境について陸相あるいは参謀総長が上奏した時に、天皇はこれを許してはいけない[一旦保留とし、後日処置せよとの注意も原田に伝えたが、それが伝わる前に金谷参謀総長が拝謁]
天皇はこの時、事変の収拾に尽力するように等の一般的注意を与えただけだった(略)
 ここで問題だったのは(略)[一連のことで牧野が弱気になっており陸軍への]反撃のチャンスであることを意識できず、天皇に適切な助言を与えられなかったことであった。(略)
 それでも、その夜の段階で参謀本部では、混成旅団の独断越境を、天皇統帥権を侵したと若槻内閣がみなしているという情報を得て、翌22日の閣議で確実に責任を追及されるだろうと、悲観的な見通しを持っていた。参謀本部では、南次郎陸相と金谷範三参謀総長および参謀次長は辞職せざるを得ない、とまで考えていた。
 参謀本部のエリート将校たちは、慣行を重視する陸軍の官僚組織の中で昇進してきたのである。したがって、陸軍が勝手に慣行を破ることの責任の重さを、今回は自分たちの罪として、逆に強く受け止めていたのである。
 ところが、22日朝の段階で若槻首相は陸軍に対して宥和的になっており、閣議前の拝謁において、天皇が独断越境については特にふれなかったので、それが承認されたと思ってほっとした。閣議では朝鮮軍の出兵の経費を認め、その後天皇は越境を裁可した。
 結局、統帥権を侵して実施された独断越境は、事後承認されて合法的なものとなってしまった。(略)[西園寺の]助言の趣旨は、まったく活かされず、満州事変の拡大を防ぐ最大のチャンスを見逃してしまった。
 こうして、西南戦争に勝利し「西郷王国」を支配下に収めて以後、太政官制下の「内閣」や近代的内閣が、元老の協力も得て、外交や内政を統制してきた体制が崩壊していった。

五・一五事件以後

[満州国承認を引き延ばした犬養首相が暗殺。後継首相の西園寺の選択肢は三つ。1.陸軍と正面対決となる政友会総裁鈴木喜三郎。2.海軍穏健派の斉藤実。3.陸軍の求める右翼の平沼騏一郎。結局、斎藤内閣発足]
西園寺が「公平」性を示す演技に努めたにもかかわらず、斎藤を推薦したことで、右翼の平沼などは、西園寺の権力の正当性を疑うようになり(略)
斎藤内閣は陸軍の圧力に屈する形で満州国を承認した。(略)
 すでに政府が満州国を承認し、新聞などがそれを支持している以上、西園寺は元老として何もできなかった。国際的孤立がどういう意味を持つかも深く考えず、軍に影響された軽薄な世論が広がっている。そんな状況である限り、西園寺がリットン報告書を支持し満州国承認を撤回すべきとの発言をしたなら、元老としての正当性を疑われ、権力を失墜することは目に見えている。
(略)
第一次世界大戦後にできた、世界の政治・経済・文化交流を活発にして問題を共通に解決していこうという空気は、急速に崩れていった。
 こうしたなかで、陸軍などの主張する、世界は列強間の生き残りをかけた「戦国時代」のような時代に突入したのだ、という見方が支持を広げていった。それに対し、元老西園寺や昭和天皇らの国際協調を維持しようという考え方は、日本国内でしだいに古臭い、現実性のない考え方ととらえられるようになった。このため、軍部の行動を正当であると見る風潮が強まっていった。

三国同盟を嫌う天皇

[日中戦争拡大で辞任した近衛の次は]
陸軍が平沼騏一郎を望んでいるので、平沼に陸軍を統制させようとの考えであった。(略)
 平沼首相は、反ソ(反共)というイデオロギーから世界を見がちであり、元来しっかりした国際観・外交観を持っていなかった。陸軍が推進しようとする日・独・伊三国同盟締結への対応に苦慮し、1939年8月末に独ソ不可侵条約が締結されると、前途の見通しに自信をなくした平沼首相は[辞任](略)
 天皇は[陸軍の要望もあり]阿部信行陸軍大将に組閣を命じ、憲法を守り、時局並びに財政について英米と調整するように命じた。さらに、自分は陸軍に対して長い間不満を持っており、陸軍には粛正が必要であるとして、陸相には畑俊六侍従武官長か梅津美治郎陸軍中将の他適任者がいないので、三長官(陸相参謀総長教育総監の陸軍三幹部)の反対があっても実行するつもりである、と述べた(『昭和天皇実録』)。
 このように昭和天皇や湯浅内大臣・近衛・木戸の意図は、陸軍内で拒否されない阿部大将を首相にし、陸軍を統制、三国同盟の締結を防ぎ、英米との関係悪化を避けようというものである。もちろん日中戦争終結も目指していたことは間違いない。それまで数年間、三長官によって陸相の人選を行うことが定着していたにもかかわらず、天皇が組閣の命を受けた陸軍出身者に対して、陸相人選について名前まで挙げるのは異例である。しかし、これは天皇の意思表示のみであり、公式に陸相を任命したわけではない。天皇はギリギリのところで君主機関説的天皇の枠内にとどまったといえる。
(略)
 この過程は、天皇が強い意思を示せば、陸相人事に影響力を与えることができたことを示している。(略)
[状況の悪化を防ぐため]明治天皇大正天皇が行わなかったことまで、昭和天皇憲法の枠内ギリギリで行い始めたのである。
(略)
天皇があれほど期待した米内内閣も(略)[陸相の辞表提出で]わずか半年で倒れてしまったのだった。(略)
[近衛再登場との情報に西園寺は]「今頃、人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな者じゃ駄目だね」と話していた。(略)
 西園寺は、第一次近衛内閣を見て、近衛がいろいろな人に合わせて気に入られるような言動を取ってしまう、弱い性格の持ち主であることを、しみじみわかっていた。必ず陸軍に引きずられて日本を危うくするに違いないと確信した。老齢と病気を理由に、形式的な奉答すら辞退したのは、西国寺の元老としての意地とささやかな抵抗であったともいえる。
[三国同盟調印から二ヶ月後、最後の元老、西園寺死去]

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