昭和天皇の戦後日本 自主憲法の「空間」

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

 

日本主導による明治憲法改正が可能だった

看過されてならないのは、実は当時において、日本の側が主導権をもって明治憲法を改正することができる「空間」が存在していた、ということである。しかも今回の『昭和天皇実録』によって、この「空間」に、他ならぬ昭和天皇が自ら積極的に踏み込もうとしていたことが浮き彫りとなった。
(略)
近衛は[マッカーサーに]「軍閥国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキストである」「日本を今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼との結合した勢力であった」と独特の歴史認識を披瀝
(略)
[マッカーサーは]「公〔近衛〕はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられる。又公はまだお若い。敢然として指導の先頭に立たれよ。(略)と、近衛が主導して憲法改正作業を急ぎ進めることを促した。(略)[同席したジョージ・アチソンは]「ナチ的色彩を脱却せしめる要がある」との発言
(略)
つまり、マッカーサー側は「日本側での自主的な憲法改正にきわめて協力的であった」ということなのである。
(略)
[昭和天皇の下命で近衛が憲法改正を進めることに内外から批判。幣原内閣や学会が立憲主義の原則無視であり改正権限は内閣に与えられるべきと主張。GHQからも「戦争犯罪人にあたる」近衛にそんな資格があるのかとの声。しかしマッカーサーの近衛“絶縁”声明後も天皇は近衛に早く仕上げろと矢の催促]
ここには、自らの主導性による憲法改正にむけた昭和天皇の“執念”を見ることができる。
(略)
[戦犯として逮捕されることになった]近衛は、「日中戦争が自分の罪の源泉だろうが、その責任を明らかにしていけば結局統帥権の問題になり究極的には天皇の問題になるので自分は法廷で所信を述べるわけにはいかない」と知人に述べ、出頭期限が切れる前夜に自ら命を絶った。
(略)
[宙に浮いた改正作業は松本烝治が委員長を務める幣原内閣の憲法問題調査委員会が担うことに]
 新憲法の制定過程研究の第一人者である古関彰一は、近衛の「改正要綱」と比較しつつ、この「試案」が孕んでいた問題性を次のように指摘する。つまり、「近衛側がアチソンらから引き出した改憲構想には、後にGHQが作成したGHQ案に通底する条文がいくつかあったのである。従って松本ら憲法問題調査委員会が近衛らに反発するのみでなく近衛案を参酌して草案起草にあたっていれば、GHQの憲法構想に近づく可能性はあったのである」と。それでは、なぜ「可能性」は閉ざされたのであろうか。(略)[松本らが]ポツダム宣言を受諾したことの意味、敗戦の意味、民主化の意味を全く理解していなかった」からに他ならない。[逆に天皇は理解していた]
(略)
[『実録』によれば、明治憲法を維持した]松本案はGHQばかりではなく、昭和天皇からも拒絶されていたのである。
(略)
[ワシントンでの極東委員会開催や、『読売報知』一面トップの「御退位をめぐって」という記事により、マッカーサーは日本政府としての憲法改正案の作成を急がせることに]
宮内省の某高官」と会見した内容を報じたものであって、昭和天皇が「御自身で自己の戦争責任を引受けられる」ために「適当な時期に退位したい」との意思をもっており、その場合「皇太子殿下が皇位を継承される」(略)「皇族方は挙げて賛成」(略)という、衝撃的な内容であった。
(略)
マッカーサーが極度に神経を使ったのは(略)仮に昭和天皇が退位するならば、訴追される可能性は増大する訳であって、文字通り、それまでの「骨折りを無にする」事態となるのである。
(略)
高松宮は、[新憲法草案は]主権在民の概念が強すぎるとの理由で新憲法に反対との立場を明らかにしたのである。
 ところが翌5月31日、マッカーサーとの第二回目の会見に臨んだ昭和天皇は、「新憲法作成への助力に対する謝意」を表明したのである。まだ国会での審議さえ始まっていない段階で、なぜ昭和天皇はかくも明確に「謝意」を伝えたのであろうか。(略)
[侍従長徳川義寛によれば、その]最大の理由は、「国民統合に不可欠の存在」である天皇制が維持された、という点に尽きるのである。内外情勢が緊迫するなかで、先に見たように、1月25日に幣原から新憲法の核心が戦争放棄天皇制維持の“セット”であると聞かされていた天皇にあっては、この核心が具体化された新憲法は、まさに歓迎すべきものであった。この核心を把握できるか否かにおいて、昭和天皇高松宮よりも、はるかにリアリストであったと言うべきであろう。

「押しつけ」論は情念論にすぎない

従来の占領のあり方に対して、「国家改造」をめざす第二次大戦後の占領のあり方は、歴史的に全く新しい占領方式であり、従ってそれは「占領管理」とよばれることになった。(略)
[独伊等と違い休戦協定が欠落していた日本は連合国管理委員会に関する規定がなく、マッカーサーは日本の降伏処理という純軍事的役割が承認されていただけであり、その管理権限をめぐって米ソで激しい論争に]
[東京のマッカーサー]のもとに「諮問機関」にすぎない対日理事会が組織される一方で、ワシントンに連合国11ヶ国で構成される極東委員会が「日本占領の最高政策機関」として設置される
(略)
マッカーサーは「先手を打って、既成事実を作ってしまおう」と事を急いだのであり、その動機はマッカーサーの「天皇に対する好感と熱意」であり、草案の作成は何よりも「天皇の為になる」というところにあった。
 とすれば、天皇制維持の立場にたつならば、「押しつけ」を批判するどころか、マッカーサーに心からの“感謝”を捧げて然るべきであろう。
(略)
 このように見てくるならば、いわゆる「押しつけ」論は、当時の緊迫した内外情勢のなかで、いかに昭和天皇の地位を護り、いかに天皇制の維持を確保すべきであったかという、具体的で実証的な分析を矢いた“情念論”にすぎないと言わざるを得ない。
(略)
[イタリアの場合講和条約締結前年の]「政体選挙」、つまりは王政の維持か共和制を採るかという選択において、イタリア国民自らの判断で共和制の樹立に踏み切った。(略)
[ただイタリアはムッソリーニ体制崩壊ナチス・ドイツ軍の占領→レジスタンス運動→「自力解放」→ムッソリーニパルチザンによって「処刑」]
この「処刑」について英首相チャーチルは「世界はイタリアのニュルンベルクを必要としなくなった」と述懐したが、この言葉には、イタリアの政治的・社会的諸努力が「自らの問題を自らの手で解決する」という基本路線を貫いたことが象徴的に示されている。
(略)
 いずれにせよ問題の焦点は、占領管理のもとにあっても、ファシズム全体主義体制からの「国家改造」を、いかに主体的に行うことができるか、あるいはできたのか、というところにあるのであって、これこそ、「押しつけ」が論じられる前に究明されるべき問題なのである。この点で古関彰一が、象徴天皇制の源泉をたどると民間人の憲法研究会の草案に行きつくこと、憲法九条にGHQ草案にはなかった「国際平和を誠実に希求し」という「平和条項」を挿入し、さらには生存権の規定などを新たに盛り込んだのも日本側であった、と指摘していることは重要である(古関彰一『平和憲法の深層』)。いずれにせよ、この主体性の問題は、きわめて今日的な問題に他ならないのである。

東京裁判」問題

「裁判は日本政府の手により、米国側の提出の氏名・証拠に基づき行うこと」という[日本側の申し入れをGHQは留保、自主裁判構想は挫折](略)仮に自主裁判が具体化された場合の“罪状”をめぐって、きわめて興味深い資料が存在する。[それが全12条からなる緊急勅令案](略)
ここで展開されている論理は、きわめて興味深いものがある。
 つまり、昭和天皇を「平和主義者で、無垢で、政治を超越した存在」として措定したうえで、戦争犯罪者を、この天皇の「平和精神」に従わなかった「叛逆者」として弾劾するのである。彼らは、「軍閥政治」「専横政治」をもたらし、「主戦的、侵略的軍国主義」にうってでることによって、「内外諸国民」の生命財産を破壊した。(略)
要するに、この勅令案は、来るべき東京裁判の論理を“先取り”していたのであり、しかもそれは、まさに日本側によって「自主的」にまとめられたのである。
 さらに興味深いことは、「叛逆者」の処罰にとどまらず、彼らの「犯罪」を支えることになった「教育、宗教、経済」などの施設や組織も解体されねばならないと規定していることである。(略)
「教育」においては教育勅語の廃止であり、「宗教」で言えば、当然のことながら、靖国神社も「閉鎖」の対象とならざるを得ないであろう。
(略)
[この勅令案が立案されたのは、米国で]昭和天皇に処刑や国外追放など何らかの処置をとるべきとの声が70%に達していた。また、昭和天皇の側近にあっても、問題の深刻さは認識されていた。(略)
 かくして、昭和天皇の戦争責任が認識されればされるほど、天皇の側近や指導者たちは降伏以降、「悪くなったら皆東条が悪いのだ、すべての責任を東条にしょっかぶせるのがよいと思うのだ」(東久邇宮
(略)
[天皇が危惧したのは1919年のヴェルサイユ条約227条カイザー訴追]
「従来の国際法において支配的だった主権者無問責の観念を否認して元首の地位にある者を訴追した」ことにおいて大きな重要性をもち、さらに231条によって「それが不正な戦争を開始、遂行したことに対する責任追及を含意することを連合国が公定解釈として確定」することになったのである。
 こうして、歴史上初めて、国家元首が戦争の故にその責任を問われる国際法廷が開かれることになったが、現実にはカイザーはオランダに逃亡し、開廷されることはなかった。ちなみに、オランダはヴェルサイユ条約の調印国ではなく、何より「当地を国際紛争の敗者のための避難地とするという幾百年にわたる栄誉ある伝統に則り、諸国の要請に応え、前ドイツ皇帝を法と伝統の保護から解くことはできかねる」との立場で、引き渡し要請に応じなかったのである。
(略)
[カイザーの訴追はまさに「勝者の裁判」だったが]
日本政府は、「元首に対する問責」などについて「留保」を付しつつも、この条約に同意し署名したのである。(略)仮にカイザーを裁く国際法廷が開かれていたならば、日本は「勝者の裁判官」の一員としてカイザーを裁いていた可能性があったのである。(略)
東京裁判を「勝者の裁判」として批判する場合(略)戦争に勝利した場合は「勝者の裁判」に与しながら、敗北した場合はそれを非難するのか、という問いかけへの答えが用意されていなければならない。

張作霖爆殺事件から敗戦までの17年間についての天皇「独白」

 以上の経緯からして、昭和天皇の「独白」をまとめる作業は、まさに裁判対策であった(略)
つまり[「独白」]英語版は、「なぜ開戦を阻止できなかったのか」という疑問に答えるという点に絞られて作成されているのである。(略)
[開戦裁可は]立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない」「私が若し開戦の決定に対して「ベトー〔拒否〕」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない」ということである。なお、後半のくだりは、英語版の場合は、「私自身も殺されるか誘拐されるかしたかもしれない。実際、私は囚人同然で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮城外の人々に知られることは決してなかっただろう」と、より「無力」さが強調される表現になっている。

東条英機

[東条の国家弁護は]太平洋戦争は「道義に立った戦争」であり、「侵略とか暴虐」といった批判は当たらず、法律的にも道徳的にも「正しいことを実行した」との論陣を張った。[個人弁護では戦争回避につとめたと主張](略)
[さらに]「日本国の臣民が、陛下の御意志に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」と発言して物議を醸すことになった。なぜなら、この発言に立てば、東条の国家弁護、自衛戦争の論理は、実は「陛下の御意志」に他ならない、ということになるからである。そこで、キーナンたちが必死の“工作”を行った結果(略)「戦争を決意」したのは自らの内閣であり、天皇は「しぶしぶ御同意になった」と“真意”を説明した。
(略)
 ところで、そもそも東条に日本の戦争の「道義」を語る“資格”があるのか、という根本問題がある。(略)
[東条の自殺未遂に対し近衛文麿の秘書官の細川護貞は]かゝる馬鹿者に指導されたる日本は不幸なり」と罵倒し、作家の高見順は「みれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損なっている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。(略)なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか」と痛烈に非難した。
(略)
自殺に失敗したばかりではなく、GHQが逮捕にくるまで「みれんげに生きて」いたことで、「人間の出来損なひ」「かゝる馬鹿者」と断罪されたのである。それでは、なぜ東条は「生きて」いたことで、これほど非難されることになったのであろうか。(略)[東条の名で]全軍に「戦陣訓」が示達されたからである。(略)
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」(略)これはつまり、敵側の捕虜となることが「辱」であり、従って「皇軍兵士」にとっては、敵側に突撃をして玉砕するか、自決するかの選択肢しか残されていない、ということを意味した。
 実はこの「戦陣訓」の一節は、1929年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」の批准問題と密接な関係をもっていた。[日本は一度調印したが軍部からの反対で批准を拒否](略)
日本側は、批准していない以上「何等同条約の拘束を受けざる次第」とし、さらに、そもそも「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」と回答した。つまり、日本の軍人が捕虜となることはあり得ない、という立場を対外的に鮮明にしたのである。
 かくして日本は、外国軍の捕虜を“非人道的”に扱ったばかりではなく、日本の軍人は捕虜となる「辱」を受けないがために、玉砕するか自決するかを迫られ、現実には、多くの軍人たちがジャングルや山野をさ迷って餓死することとなった。(略)
 これほどまでに膨大な軍人を死に追いやることになった戦陣訓を、自らの名において全軍に示達した東条本人が[生き恥をさらした]

次回に続く。