外務省革新派

先に巻末のまとめから

革新派はかつての国際協調を英米追随と批判した。(略)
 だが、革新派の主張は、ほとんどの場合、外務省の政策としては採用されなかったのである。(略)彼らの主張の主要部分である枢軸同盟は、松岡外相の手によって成し遂げられたが、松岡は革新派を警戒し、彼らを政策決定の場から遠ざけた。つまり、三国同盟は革新派の力によって実現したわけではなかった。
 政策決定に視点を置く限り、外務省革新派の影響力は限定的であった。(略)
[だが外務省内の強力なプレッシャー・グループであった]
陸軍との協力、あるいは陸軍への密着という理由だけで、外務省革新派の影響力を説明することはできないのではないだろうか。(略)言論の場での彼らの言説に注目しなければならないだろう。(略)
かつて外交はエリートの関心事であったが、革新派が登場してきた時代は、外交がエリートの独占物ではなくなった。そして、このような時代には、革新派が提示した単純明快な説明のほうが、エリート好みの難解な解説よりも説得力を持ち得たのではないだろうか。こうした意味で、外務省革新派は外交の大衆化・民主化の申し子であったとも言えよう。
(略)
外務省革新派は、「皇道外交」と称される独特の外交言説によって、ラディカルな世論を助長し、しばしばそれをリードした。しかし、やがて世論は彼らを超えていってしまう。世論が彼らの主張を超えて過激になっていったとき、白鳥の言説に見られるように、革新派の議論はもはや外交論ではなくなってしまったのである。

外務省革新派 (中公新書)

外務省革新派 (中公新書)

革新派リーダー白鳥敏夫外務省情報部長

の言動具体例。
満州事変勃発後国連事務総長ドラモンドの日中調停勧告私案を暴露し国連のいかなる勧告も拒否すると表明。

 満洲国が誕生した頃、外国人記者からその承認の時期を問われた白鳥は、「別に急ぐこともないさ、運河を掘るわけじゃないからね」と答えたという。アメリカがパナマ運河を掘るためにパナマをコロンビアから独立させたことに対する痛烈な皮肉であった。

軍備撤廃

 もう一つ、支那事変に関する白鳥の議論の中で注目に値するのは、中国から軍備を撤廃せよ、という主張である。(略)「生なか支那が近代式軍隊を持つが故に(略)自己の力を過信し抗日侮日の誤った政策を採り(略)軍隊あるが故に打たれるのである」。もし中国が軍備を撤廃すれば、「兵力なき国を犯すが如きは日本の武士道が許さぬ」し、他国が中国侵略の挙に出るような場合には、日本が自らの意志と必要に基づいてその侵略を排撃するだろう(略)
 さらに、「支那の国民も多年軍閥私兵の横暴に苦しみ抜いたゝめ」、軍備撤廃は「支那国民大多数の歓迎するところであり」、「支那国民の安寧福祉のためにも絶対必要」である。

防共協定の目的

ただし、革新派の多くが最初から反英米、親独伊であったわけではない。(略)
ドイツは対ソ関係の面で日本と同じ立場にあるので、あえて条約などを結ぶ必要はなく、むしろ当面重要なのは何とかしてイギリスと協力のための了解を成立させることである、と白鳥は論じたのであった。(略)
しかも白鳥は、一般の見方とは違って、防共協定にはイギリスを日本に接近させる効果がある、と指摘する。つまり、これまでソ連の軍備強化に日本が脅威を感じているのを見て、イギリスはこれを利用して日本を牽制し冷淡な態度をとってきたのだが、日独防共協定によって日ソ関係のバランスが変わってくれば、イギリスとしては再び日本との接近を図るだろう、というのであった。(略)
支那事変前には、防共協定によって日本はヨーロッパの「思想対立の渦中に飛び込んだ」わけではないと論じていたが、事変後には日本が「全体主義国家群」に属していることは自明であると主張するようになる

白鳥擁立

支那事変の長期化に伴い、白鳥の対ソ強硬論が徐々に前面から後景に退いてきたことがわかる。独伊との提携も対ソという権力政治的観点から、持たざる国々の連合と全体主義的国家観の共通性とにその意味づけが移行してきた。(略)
 このような白鳥の外交論に対して、それまで彼に好意的な眼を向けていた人々の間でも、懸念する声が聞かれるようになる。例えば、1937年晩秋、首相の近衛文麿は、白鳥が「なんとなく誇大妄想狂みたやうになつて」いると心配(略)白鳥を責任ある地位に就けて、言わば彼の穏健化を図ろうとする動きであった
[結局、外相にも次官にもなれなかった]

トンデモ

[1938年11月、ローマ赴任前に帝大で講演]
人種論、物理学、天文学を援用して、白人西洋文明の行き詰まりと全体主義の必然性を説いた。さらに、日本の神道、神ながらの道は「天皇教」という民族宗教であるばかりでなく「宇宙宗教」でもあると論じた。(略)
白鳥のこのような議論は、「偏執狂」のようだとして、既成エリートから批判の対象となっていた。だが、白鳥は、そうした批判を承知の上で、その議論を大胆に繰り返した。その種の議論が一部で期待され、歓迎されたからだろう。外務省革新派の間でも、そうした議論が好まれていた。(略)
 白鳥はこの講演の中で、次のような予想を立てている。「今日若し戦争が起るとすれば、恐らく個人主義国と――即ち人民戦線的諸国と全体主義諸国の大争闘になるのではないかと思ふ」と。はたして彼はこの不気味な予想を、どの程度の確信をもって提示したのだろうか。

独ソ接近を警告するも、それまでの言動が祟って本国では相手にされず。

白鳥は、日本にとって不利な独ソ妥協あるいは独英妥協を防止するためにも、日独伊三国国盟の早期締結が必要であると主張した。ところが、やがて彼の主張は微妙に変化し始める。独ソ妥協は不可避だが、それでも独伊との同盟は必要であると言い始めるのである。[日英対立が不可避だから]

白鳥は、ヨーロッパの戦争が妥協によって収束されることを警戒した。(略)
 帰国後もこの点を再三繰り返している。「日本に外交ありとすれば、欧洲に和平風の起るキザシがあれば直に謀略を以て之を防ぎ、両方を煽動して闘はせるべきである。長期戦になれば必ず英仏は滅亡しないまでも惨敗の外あるまい。さすれば我が国策たる東亜新秩序の建設も理想通りの実現を見る

1940年ドイツがヨーロッパを席捲、

白鳥は得意満面

旧秩序の崩壊を今ごろ気がつく様ではおそすぎるよ。所謂全体主義が来るべき世界秩序であり、又さうさせねばならぬといふことは、我々が多年言ひ続けて来たことだ、そしてそれが必ず可能であることを信じたればこそ日独伊国盟を主張したのではないか〔中略〕南進政策は、日本の東亜新秩序の当然の発展であり、締めくくりだといふ風に自分は考へてゐる。

朝日新聞』1941年頭インタビュートップは白鳥

「僕の意見はいつも半年位先走るやうだ」外務省顧問の白鳥敏夫氏は斯う呟く、低いが信念の籠つた不適な音声である、過去に於て目まぐるしい国際政局の変動が、時に白鳥さんを革新児にしたり異端者にしたりした、昨秋枢軸の盟ひ成つて帝国外交の大本が確立したとき、白鳥さんは今度は時代の予言者と持囃されたものである、霞ケ関の水先案内として白鳥さんには半年どころか百年も先をヂツと睨んで貰ひたいのだ。
 外交の実権は松岡の手に握られていたが、ジャーナリズムでは白鳥は時代の寵児であったと言ってよい。

 実は、白鳥はその後、松岡外相が成し遂げた日ソ中立条約の締結にも、独ソ戦の勃発にも、南部仏印進駐にも、そして日米開戦にも、関わることはなかった。一九四一年四月初め、彼は躁鬱病の完全な躁状態に陥り、以後約一年間は入院と静養のため、公的生活から退かねばならなかったのである。

 大東亜戦争の後半、白鳥の言論活動は『盟邦評論』を中心として展開される。だが、彼の言説にはもはや見るべきものはなかったと言ってよい。白鳥自身は、誇大妄想狂や神懸かりと言われたり、まだ病気が治らないようだと嘲笑されていることを知りつつ、意に介さない素振りを示した。(略)
ユダヤ米英の代表する旧秩序の崩壊は世界史の必然として約束されて居る」。建設さるべき新秩序は「神秩序」でなければならず、日本こそ「邪悪暗黒なるユダヤ勢力」から全人類を解放する世界維新の中心である、と白鳥は論じた。
 彼の議論はもはや外交論ではなかった。摩訶不思議な宗教論とも言うべきものであった。
(略)
ムー大陸の実在を引き合いに出し、「アメリカの先住民族中南米のそれも皆日本民族であつたのみならず[中略」多くの白色民族なども、本来は日本神族の分れであることがやがて了解されるであらう」と論じ

戦後巣鴨収監前に吉田外相に書簡

占領軍による検閲を予想してもともと英文で書かれた書簡の中で(略)
[天皇制護持ため]天皇キリスト教に改宗し、それによってキリスト教を国教化すべきであると主張する。(略)
もう一つの論点は、憲法改正戦争放棄の条項を制定すべしという主張である。(略)
[侵略危惧から当然反対論が起こるだろうが]
この点でこそ天皇制は「甚だ有用なる、寧ろ不可欠なる要素」となる。つまり、「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ、而して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不能ならしむることに依りてのみ、この国民に恒久平和を保証」し得る(略)
この戦争放棄論は、支那事変のとき彼が主張した中国の軍備撤廃論を思い出させる。小国となった日本は、軍備を超大国となったアメリカに委ねるという論理になるのだろうか。