帝国議会 〈戦前民主主義〉の五七年

「国民政党」の誕生

こうした勢力桔抗状態はその後しばらく続き、明治三一年六月には両者合同して衆院の絶対多数を握る大政党・憲政党が出現したりしたが、短期間で自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、また桔抗状態にかえった。
 ところが、明治三三年九月、大きな転機が訪れる。伊藤博文による立憲政友会結成である。維新以来多くの政治的成功を収め、それまでに三度の組閣を経験し、まだ当面は有力な首班候補であり続けるであろう伊藤(略)国民政党をめざす一大政党の誕生であった。(略)[伊藤の全国遊説]を通巻低音の如く貫いていたのは既成政党の宿弊とその打破であり、そこに自ら模範的政党をつくり、率いようとする伊藤の決意がにじみ出ていた。結党式直前(略)[天皇に職を辞すことを願い出、二万円を下賜される]政友会が「勅許政党」といわれた所以であり、それだけ特別な存在と見なされたのである。(略)尾崎行雄が、民権運動以来のしがらみを捨てて政友会創立に馳せ参じたのは、その意義を象徴的に示すものであった。(略)
 この立憲政友会の創立間もなく、正に政友会を基礎として第四次伊藤内閣が成立したが、増税問題などで蹉跌を生じ、七ヵ月で倒れた。そのあと、明治三四年六月、桂太郎が維新の第二世代として初めて組閣した。(略)
その政権初期においては、桂の政友会に対する態度が硬かったことは事実である。(略)桂の後ろ盾である山県有朋が政党を嫌っていたこともあったろうが、それに加えて同郷の先輩であり、元老でもある伊藤が衆院第一党を総裁として率いているという息苦しい状態への、彼なりの挑戦でもあったろう。現に、明治三六年になって桂は、伊藤を政友会総裁から枢密院議長へ祭り上げることに成功している。(略)
 日露戦争が日本の勝利に終わると、状況は一変する。桂は、伊藤にかわって政友会を率いた(略)[西園寺公望原敬らと信頼関係を築き、桂と西園寺が]交互に組閣する時代が現出したのである。その背景にあったのは、日露戦争に勝利したとはいってもロシアから賠償金はとれなかったことから、戦費を賄うための重税に耐えていた国民の不満を抑えきれなくなる危険を感じた桂内閣が、それに備えて政友会を味方につけようとし、政権獲得を視野に入れた政友会もそれに乗ったためであった。実際、国民の不満は帝都東京を舞台とした暴動――日比谷焼き打ち事件となって噴出し、桂内閣を震撼させたが、政友会が暴動に乗じて反桂内閣的態度をとる、という選択をしなかったことで暴動が鎮静化していった。その象徴的な事実を見れば、桂の着眼は正しかったといえるであろう。

第一次護憲運動

[陸軍に逆らい総辞職した西園寺の後任のあてがなく、山県はその独走を嫌って宮中入りさせた桂を起用するしかなかった]
 ところが、そのような密室の経緯をうかがい知ることのできない民衆の目には、この一連の経緯は、陸軍の大御所・山県有朋が(略)横車を押し通そうとする陰謀に映った。そのため、第一次護憲運動と呼ばれる、従来はあり得なかったような民衆による大規模な運動が全国的に展開されたのである。日露戦争にともなう増税により、選挙法改正がなかったにもかかわらず、有権者の数は大幅に増えていた。数が増えただけではなく、戦争終了後も依然として継続していた重税に苦しみ、またそれゆえに勝利への貢献度を自覚する、ものをいう民衆となっていたのである。その彼らの目は、単に政策の是非ではなく、宮中に入って間もない桂の不自然な組閣、その背後にある山県の動きといったような(そうした認識が実態とはずれがあるにしても)権力のあり方にも厳しく注がれ始めていた。そのような民衆が、当時進行しつつあった都市化現象、交通・通信網の発達、新聞の普及などの条件を背景として大規模な直接行動に出、それに政友会や国民党は引きずられるかのように同調していったのである。
 追い詰められた桂がとった行動は、かねてからの腹案であった新政党を結成して、その力をバックに難局を乗り切ることであった。(略)[一時しのぎの考えだけではなく、自分を宮中に押し込めようとした]山県が最も嫌う政党を率いることで、自らの閉塞状況を打破しようともしていたのである。[首相辞任から八ヶ月後桂は死去、それでも桂の遺志を引き継ぎ立憲同志会が成立]

選挙の大衆化

 大正政変のあと成立した第一次山本権兵衛内閣は(略)大正三年になって海軍の軍艦購入にからむ収賄事件、いわゆるシーメンス事件の表面化によって厳しい批判を浴び、退陣を余儀なくされた。この種のスキャンダルで倒れた政権というのは史上初であった。この時期において、戦後日本のような大衆民主主義的状況がすでに萌芽を見せていたということであろう。つい一年前には山県や桂、さらには陸軍を攻撃した民衆は、今度は山本内閣の基盤である薩派・海軍、そして政友会に矛先を向け、疑惑を追求する側にまわった桂の遺産・立憲同志会や、貴族院に拍手を送った。民衆の、振幅の大きな動きは政治を左右する重要なファクターとなっていたのである。後継首班に、政党リーダーを退いてなお衰えぬ人気を誇っていた大隈重信が、76歳の高齢で山県や井上馨によって担ぎだされたのはそれをよく物語っている。(略)
大正四年三月二五日に総選挙が行われた。この総選挙については、違う文脈において後述するが、戦前の総選挙史上画期的な意義を持つものである。解散にあたって国民世論を総選挙に問う、という解散本来の意義を鮮明に打ち出した政府の声明が初めて出されたこと、首相が全国的な選挙遊説に出るという、これも今日なら当然のことがこの時初めて実行に移されたこと、しかもその大隈の演説がレコード化されたこと、政党とはいえない大隈伯後後会が結成され、早稲田ナショナリズムが動員されたこと、等々、多くの新機軸が打ち出された。選挙の大衆化とでもいうべきか、とにかく個々の候補者の選挙運動の集合体ではなく、党として有権者全体に明確なメッセージを発するということが初めて本格的になされた、と総括することができるかもしれない。

自由民権運動がおこった原因は、

大きくいえば明治維新の革命としての性格にあったといってよいであろう。(略)
勝者は圧倒的な勝者であったわけではなく、敗者も徹底的に殲滅されたわけではなかった。(略)
新政府に最後まで反抗した幕軍の指揮官であった榎本武揚は、後に赦免されたばかりか、立身して文相・外相などを歴任した。(略)
 その一方で、革命のあとの路線対立から、勝者の中の勝者といってよい西郷隆盛西南戦争で敗死する運命をたどったし、大隈重信のように追放されてしまう者も出た。勝者と敗者の境界線があまり明確ではなく、敗者といえども、日本の独立・近代化という目的は勝者と共有していた。幕末・維新の政争は、黒船来航に始まる西欧からの衝撃への対応の方法と担い手をめぐって戦われたのである。したがって敗者、あるいは落ちこぼれた勝者が、自分たちにも日本の命運に関与する資格と権利があり、また自分たちも参加することで真の独立と近代化が得られるのだ、という論理のもとに、政治における発言の場と力、それを保障するものとしての議会開設を求めて行動していくことになる。議会制度についての知識が、すでに幕末の段階である程度浸透しており、また民撰議院設立建白が板垣退助らによって提出される以前に、新政府がその近い将来における導入を考えていたというような事情も、それを後押しした。自由民権運動とはそのような背景の中で展開されたのである。
 この自由民権運動を、苦しい中で戦い抜いたリーダーたちは特別視され、後々まで別格といってよい扱いを受けていくことになる。
(略)
[被選挙人資格に直接国税15円以上納付があり]彼らの中にはそれだけの資産を持っていない者も少なからずいた。しかし、名の通った民権運動家ならぜひうちの選挙区から、という要望を受け、不動産の名義貸しのようなかたちで被選資格をつくることができた。
(略)
 だが、民権運動の中で活躍しながら、そこまでたどり着けなかった者は悲惨であった。(略)小田切謙明はその典型で、山梨県自由民権運動中随一の功労をたたえられながら、運動と事業経営とで家産をすり減らした挙げ句、第一回・第二回総選挙で山梨一区から出馬したものの、次点にすら届かぬ惨敗に終わり、その政治歴は一介の院外党員で終わっている。

家長選挙論

昭和一五年、大政翼賛会に結実する、いわゆる近衛新体制運動――ナチス的な一国一党体制をつくり、高度国防国家を実現しようとする運動――が展開される中、普通選挙を廃し家長(戸主)のみ選挙権を認める選挙法改正が計画されたことがある。(略)
 これの源流について、第二次近衛内閣成立と同時に内務次官となった挟間茂が、「国体明徴論が出て来、右翼的な考え方が相当強力に政府方面に力を得るようになつたということで、この際普通選挙制度をひつくり返して、あるいは戸主選挙とか世帯主の選挙にしようという空気が昭和一四年、第二次近衛内閣の頃からずつと起こつて来たわけです。(略)
これは畢境我が国は家族制度の国である、だから家長に選挙権を与えるべきものだという、時代錯誤にも等しい幼稚な議論が背景になっていたと思うのですが、そういう次第で昭和十五年の終り頃になると選挙法改正ということがなんだかモヤモヤとした空気になって来たのです」(『内政史研究資料第三三集 挟間茂氏談話第三回速記録』)という回想を残している。
 近衛新体制運動に合流した諸勢力のうち、復古的傾向の濃い精神右翼系からの強い働きかけ、ということであろう(略)
 家長選挙論が煮詰まってきたのは、その一五年の暮れだったらしい。(略)
 この戸主選挙案がまとめられる経緯については、やはり挟間茂の回想が手がかりを与える。それは、
その後一二月半ば頃に、突然総理官邸で頂上会合がありまして、そのときは政党はもう解消しておりましたが、旧政党の大幹部(略)と関係各省の大臣、陸海軍大臣など約二〇人ばかりが総理官邸の日本間に集まりまして、そして、問題は選挙法改正について協議したのです、審議の結果誰が主張したのかわからないけれども、結局普通選挙制度を廃止して戸主に選挙権を与えるということに決まってしまったわけです。普通選挙を覆して制限選挙になったわけです。それで、ぼくはむろん次官ですからそこに陪席し傍聴させられただけで発言権はないのですけれども、これは余りにひどいことだと思いまして、丁度そこで休憩になりましたのでそのときに――もう夜明けになっておりましたが――戸主選挙ということになるとこれはとんでもないことであります、日本の政治史上一大汚点を印することになります。(略)立派な人でも戸主でない人はザラにあるのですという話を力をこめて話したのです。そうしたら、「それはもっともだ」ということになって会議が再開されたときに、「戸主だけに選挙権を認めることになると洩れが起こるからそれを救わなければならない」ということになりまして、それを補うために但し書をつけよう「但し軍務に服したる者はこの限りにあらず」そういう但し書をつけることで話がまとまりました、ますます複雑怪奇で、どうにもこうにもならないのですね。(挟間茂談話)
という次第であった。(略)
この選拳法の一件だけが原因ではないようであるが、安井英二内相は一二月二一日付で辞任し、挟間と、警視総監の山崎巌が行を共にした。少なくとも挟間は「こんな無茶な法案を立案して将来その無定見を笑われるより、この際職を辞することが賢明な途であると決心」してのことであった。
 結局この選挙法改正は具体化されることなく終わった。

GHQ帝国議会改革案

[GHQによる帝国議会大胆改造を主に担当した民政局立法課長ジャスティン・ウィリアムズ]がみるところでは、日本の議会には四つの弱点があった。それは、「(一)一国の立法府に必要不可欠な尊厳も権威も持っていない。(二)近代国家の国事を方向づけるために必要な機構を欠いている。(三)改正憲法下において国会は著しくその権限を増大させることになっているにもかかわらず、憲法を補足する法律によってそれが縮小されるおそれがある。(四)現在の政治指導者は、中央政府を支配している封建的官僚機構より国会を優位に置くことを望んでもいなければ、そうする意図もない」(『マッカーサーの政治改革』)という諸点であった。(略)
  1 議員歳費を妥当な額にする。
  2 各議員に秘書をつけて補佐させる。
  3 各議員に事務所を与える。
  4 議員に郵便物を無料にする特権を与える。
  5 両院に独立した予備資金を与える。
  6 国会図書館の設立。
  7 法制局と資料提供部門を設置する。
  8 両議院による法制協議会を設置する。
  9 各省に対応した常任委員会を設置する。
  10 各常任委員会に有資格の専門家を配置する。
  11 委員会による公聴会を行う。
  12 議員同士による自由討議を認める条項を設ける。
  13 質疑時間を制限する。
  14 議員の地位を低下させるような慣行を排除する。
(略)
元来日本および日本政治の専門家ではなかったウィリアムズが、短期間のうちに帝国議会の実態について比較的よく研究したことが反映されているように思われる。
 代議士たちが少ない歳費にどれだけ悩まされ、活動に不自由していたかを知っている者の目で見れば、1〜4は極めて妥当な提案に受け取れる。最終的に、歳費は国家公務員の最高の給料額、すなわち最高位の公務員である次官の給料と同額にする、という方針で決められた。(略)代議士たちの政策的知識・情報へのアクセスの不自由さを考慮するならば、6・7も当を得たものであった。

間もなく彼はこの任務について、いくつかの強い不満を抱くようになる。リーダー格の日本の代議士が議会の変革に協力的ではないこと、代議士たちだけではなくワシントンもあまり熱心ではなく、議会改革に関する具体的な指令がさっぱり来ないこと(略)
 エスマンも八月のうちに日本を去ることになったため、ウィリアムズは一人で議会改革に取り組まなければならないという困難な立場に追い込まれたが、そのことは逆に彼の功名心に火をつけたらしい。彼は、スウォープとエスマンの腹案よりも急進的なプランを練って上司に売り込み、承認を得ることで立場を強化し、日本側と折衝しようと考えたのである。
(略)
彼が帝国議会の弱点を解消するための有力な処方箋と考えたのは、本会議中心の読会制をアメリカ議会に特徴的な、常任委員会中心の審議システムに改めることであった。(略)国会が「無能なおしゃべり社交場」に堕すことを防止するためには、アメリカのように、議員を専門性の高い常任委員会に帰属させ、その分野のスペシャリストに叩き直すことが有効だ――彼はそう考えたのかもしれない。付け加えると、[提案]8の法制協議会と11の公聴会も、アメリカ議会で採用されているシステムである。
 帝国議会に対して低い評価しか持ち得ず、またそもそも日本政治の専門家ではなく、政治学畑の出身でもないウィリアムズが帝国議会を改造しようとする時、念頭に置く理想の議会像が彼の母国のそれに傾きがちであるのは自然であった。
(略)
 ただ、戦前期の日本は慣習として議院内閣制に近い政治体制をとっていたし、ウィリアムズが覚書を仕上げているのと同時進行で、帝国議会において審議されていた日本国憲法が定めている政治体制も議院内閣制であった。行政府と立法府とが一体化している面の大きい議院内閣制と、三権分立が徹底しているアメリカの議院制度との親和性について、ウィリアムズが綿密に考察を重ねていた様子はない。まずアメリカ議会的方式ありき、で突き進んでいるように映るし、その点が日本側の認識とのずれとして現れてくるのである。
(略)
 第二次草案において「常置委員会」がどのような位置づけを与えられていたかは、草案本文が見つかっていないので、また西沢の回想(「国会法立案過程におけるGHQとの関係」)に頼るしかないのであるが、それによると、常任委員会が会期中のみ活動するのに対し、「常置委員会」は閉会中の活動を主とし、議院において閉会中引き続き審査を委するものと議決した問題や、閉会中内閣から審査を求められた問題を扱い、その構成員は各党幹部クラスの大物政治家を予定していたという。ところが、ウィリアムズは議会が閉会期間中も活動しているとガバメントが二つできることになるからだめだ(略)という理屈で「常置委員会」構想の削除を迫った。日本側はやむなくそれを受け容れて第三次草案を作成した。
(略)
 真の理由は、要するに「常置委員会」が、ウィリアムズが導入しようとしているアメリカ的な常任委員会中心システムに馴染まないからであった。
(略)
「戦後憲法体制の構築を主導したアメリカは、議院内閣制の土台のうえに、アメリカ的な立法府の要素を接ぎ木した」(山口二郎『政治改革』)という評価が今日ではまったく定着しているが、そもそも国会法成立時において、日本の政治家たちもそれを自覚していた。
(略)
 日本の政治指導者が、そのような英米混淆的な制度について抱いた「懐疑」に対して、GHQは「新しい制度を試してみなさい、良いものは続けなさい、うまく機能しないものは捨てなさい」と助言し続けたという(『マッカーサーの政治改革』)。やがて占領が終わり、いわゆる「五五年体制」のかたちができかけた時に、法制協議会や自由討議は廃止された。