夢の消費革命・その2

前回の続き。

夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆

夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆

 

モークレールの装飾芸術運動。

自ら美を生産すれば大衆も芸術家になれる。

普通の人々が彼ら自身の芸術を創造するようになってはじめて、彼らはだれか他の人間の芸術を評価できるようになるのだ。消費者としての普通の人間に、美的趣味を教えこむことはできない。「生産者」としてはじめて、彼は自分の美的な欲求とニーズを表現するすべを学ぶだろう。(略)
材料を用いて活動的に仕事をすることによってはじめて、人々は美的理解の基本となる線や材料や適合や調和の質を評価することを学ぶだろう。(略)
人々は労働を通じて、自分自身を教育するのだ。したがってモークレールは、1890年代の美学的イデオロギーにおいて優勢であった、芸術家=生産者、民衆=消費者という暗黙の労働区分を捨て去る。芸術家=生産者の滑稽な失敗を目にしたことで、彼は普通の人々を信じるほうへと傾いていた。彼らはモークレールには「暴徒の群れ」ではなく、芸術家になる素質をもった人々であると思えたのである。

仏インダストリアル・アート衰退の原因

フランス革命時における同業組合の消滅が、フランスのインダストリアル・アートのその後の衰退の原因」と考え復活を目指すモークレールに立ちはだかったものとは。

「装飾芸術中央連合」のようなインダストリアル・アートの組織を支配しているビジネスマンは、応用芸術の利害と彼ら自身のビジネスの利害とを「意図的にすり替えている」ことに気づく。新しいモデルの創造は多額の危険な投資を必要とするのに対し、「古いスタイルの模倣は確実な売れ行きと容易な製造を意味する」。何と言っても「大多数の顧客は、豪華さあるいは豪華な印象を欲しているので、そのような模造品を欲しがる」のだ。したがってビジネスマンは、自分たちはただ公衆が欲しているものを与えているのだと主張する。彼らは毎シーズン、いくつかの近代的モデルを導入することで新しいデザインを奨励しているようなふりをしているが、それらはもともと熟練した職人によって作られたプランの、滑稽で非合理的で間に合わせの変形でしかなく、しかもそれら熟練職人たちは彼らの努力に対して十分な報酬を受けていない。ビジネスマンは真剣に新しいモデルを奨励しようとは思っていないのだから、その結果は予想できる。公衆は偽物のアンティックを相変わらず好み、商店主は模造品しか売れないと言い切り、だれもがもはやフランスに残された様式はないと結論づける。ごく少数の目利きだけが、裏通りで、優れた近代的な作品がないかと探し回っているが、「大規模商人の圧倒的な資本主義に比較すれば、彼らの限られた行動などいったい何であろうか」。頭のいい職人は、新しいデザインを提案することに失望して、模造品を作ることで生計を立てざるをえなくなり、「宿命的に愚かさへと導かれる」のだ。

社会主義に優るはずだった美学の袋小路

ふたたびモークレールは袋小路に入りこんだ。彼が装飾芸術運動と関わるきっかけとなったのは、フランスの硬貨の改良を、日用品を美化する計画の最初のステップとして称揚したことだった。十年後の今、彼が関わらねばならなくなったのは、デザインとしての硬貨ではなく、資本主義の金銭の力を体現するものとしての硬貨であった。経済問題は視覚的な問題よりもはるかに御しにくい。ある意味で、彼がいったん放棄した社会主義が、ふたたび彼にまとわりついてきたのだ。彼が社会主義の教義に優るものとして信奉した美学的イデオロギーの包括性と柔軟性にも、それなりの欠陥のあることが判明したのである。
[同業組合の熟練職人は創造的エリートである]
これはモークレール自身が断罪した生産者と消費者を二分する考え方である。彼が忘れているのは、人々は仕事と同様余暇においても生産者でありうるということであり、この意味で贅沢---余暇の贅沢--の民主化は実際、美と有用性の結婚を奨励するものとはならなくても、芸術の民主化を奨励するものとはなるだろうということである。

モークレールのジレンマは

彼が両方を欲していることである。モークレールは民主的な選択を望むが、良いデザインも欲しい。彼はニつの戦線で戦っている。たとえ品物をうまくデザインしても、平均的消費者の生活に入りこめないならば、何の意味があるだろうか。モークレールは、資本主義が消費者に魅力的なモダンスタイルを提供できていないことを非難するのだが、その一方で彼は、多くの消費者がこれ見よがしの模造品の方を確かに好んでいるらしいこと、そしてビジネスマンが自分たちは公衆が欲しているものを与えているのだと主張するのにも一理あることを認めるのである。

「民衆の新しいパリ」

モークレールは「民衆の新しいパリ」(1905)

「美は民主化されるべきだと言うよりもむしろ、芸術家が美に関する知覚を積極的に変えようと努めるなら、美は民主化されつつある」と主張する。

精神は偏見にしがみついているが、視覚はその偏見にもはや賛同しない。我々が事物をだめなものとして退けてもその光景は我々を魅惑する。そして秋の日の午後遅くに煙を出している工場を、たとえ美しいと思ったとしても、その工場に「美しい」という形容詞を与えるのに反対する。なぜなら古い分類の言語用法がまだ我々に取りついているからであり、より広範な「特徴」の観念は、我々にとってはまだ、より広範な「美」の観念と等しくはないからである。我々は、パリ郊外の新しい様相を前にしての自分自身の感覚を、十分に判断しきれていないのかもしれない。

郊外の美

郊外の美は、個々の品物や装飾の中にあるのでも、また個々の建物の中にあるのでもなく、全体的なシルエットとヴォリュームの相互関係における総合的な調和の印象の中に見いだされるべきである。(略)
「何千もの煙突、精錬の火、無数の標識、絡み合ったハイウェイがあり、あらゆる方向から美しい真珠母色の煙が広がり、たそがれの薄明り、がそれを取り巻いている」。日が暮れると郊外の美しさは最高潮に達する。電気照明が魔法のような光景を作りだし、明りのともった家や工場は、黒い大洋の上にじっと動かずに浮かんでいる大きな船のように見えるのだ。
モークレールは、美と有用性、普通の人々の普通のニーズを本当に結びつけるような新しい種類の社会芸術を把握しようと手探りしていた。

消費大衆と禁欲主義エリートは

お互いを映し合う鏡である。大衆消費に一貫して対立することは、大衆消費に加わることと同程度にその力を認めることになる。(略)
禁欲主義のこの特殊な現代版は、古典的禁欲主義とは異なり、穏やかな自信をもたらさず、かわりに、居心地の悪さと恐れの感覚をともなう。禁欲主義者のプライドは傷つきやすいプライドである。大衆を軽蔑する者も、その存在を避けることはできない。(略)
「私は、あなたがそれら[模造品]を買う必要がないことを知っているが、あなたはそれらを目にせざるをえない。とにかく通りにあふれているのだから」。ちょうど、新ストア派が見ないでいるわけにいかない大衆が、通りにあふれているように。

明日に続く。