群集の智慧 ジェームズ・スロウィッキー

うがっ、やり終えてから、前にやった本の改題だと気付いたw
引用ダブってるけど、ま、いいかw
ネジ規格の話、そんなに好きなのか、ole。
kingfish.hatenablog.com

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

多様性の長所、狭隘な専門性

[集団の]多様性は二つの側面で影響を及ぼす。多様であることで新たな視点が加わり、集団の意思決定につきものの問題をなくしたり、軽減したりできる。
(略)
スコット・ペイジの最終的な発見は優秀な意思決定者とそれほど優秀ではない意思決定者が混在している集団のほうが、優秀な意思決定者だけからなる集団よりも必ずと言っていいくらい、よい結果を出しているというものだった。
(略)
集団のレベルで考えれば、知性だけでは不充分だ。問題を多角的に検証する視点の多様性が得られないからである。知性というのは、いろんなスキルが入った道具箱のようなものだと考えると、最良と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど道具箱の中味が似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それほどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わることで、集団全体のパフォーマンスは向上する。
(略)
チェスの名人はチェスを知っているだけだ。私たちは直感的に一つの知的な分野に優れている人はほかの分野でも優れていると思い込みがちだ。ところが、これは専門家には当てはまらない。実際は、チェイスが述べたように専門知識とは「驚くほど狭隘」なのである。
 もっと重要なこととして、「意思決定」「ポリシー」「戦略」といった広範にわたるトピックについての専門家が存在しうるという確たる証拠はどこにもない。
(略)
[ジェームズ・シャントーの調査では、専門家の判断が必ずしも同分野のほかの専門家の判断と一致しない。さらに病理学者の場合は]時間をおいて同じデータを同じ病理学者に見せても、半分の確率でその人が最初の見解とはまったく違う見解を述べる可能性がある。(略)
[また専門家も]素人と同じように自分の正しさを過大評価する傾向にあることがわかっている。
 経済学者のテレンス・オディアンが自信過剰の問題を調査したところ、医師、看護師、弁護士、エンジニア、起業家、投資銀行家などは、全員自分が実際に知っている以上のことを知っていると信じていた。同じように、為替相場のトレーダーを対象にした最近の調査で、七割の確率でトレーダーは自分の為替相場の予測の確度を過信しているとわかった。要するに、彼らはただ間違っているだけではなくて、自分がどれぐらい間違っているかすらまったくわかっていないのである。

均質な集団の問題

 個人の判断は正確ではないし、一貫してもいないので、優れた意思決定には認知的多様性が不可欠だ。
(略)
 均質な集団は多様な集団よりはるかにまとまっている。集団のまとまりが強くなるとメンバーの集団への依存度が増し、外部の意見から隔絶されてしまう。その結果、集団の意見は正しいに違いないと思い込むようになる。自分たちが間違えることは絶対にないという幻想、その集団の意見に対して考えられるあらゆる反論を何とか理屈をつけて退けようと躍起になる姿勢、異なる意見は役に立たないという盲信がこうした集団には共通して見られる。
(略)
 均質性が抱える明らかな短所として、集団の論理にメンバーを従わせようというプレッシャーを生み出すことが挙げられる。これは集団思考と似て非なる問題だ。集団の論理に従うようプレッシャーがかけられると、人は意見を変えることがあるが、それはその人が考え方を根本的に改めたからではなく、集団に従ったほうが自分の意見を貫き通すより簡単だからである。
(略)
[その一方で]彼らが集団の論理に従わないようにするのも決して難しくはないということだ。ある実験では、集団の論理に従わず正しい長さの線を選ぶサクラを一人仕込んでおき、うろたえる被験者に味方を与えた。すると、それだけで大きな違いが生まれた。自分と同じように感じている人が一人でも集団にいると、被験者は自分が思ったとおりのことを言えるようになり、集団の論理に従う人の割合は激減した。

情報カスケード

情報カスケードが抱える根本的な問題は、ある時点を過ぎると自分が持っている私的情報に関心を払うかわりに、周りの人の行動を真似することが合理的に思える点にある。
(略)
情報カスケード自体が悪いわけでもない。たとえば、アメリカの技術史上もっとも重要で価値のあるイノベーションは、情報カスケードをうまく演出することで成し遂げられた。
 イノベーションの主役は、何ということはないネジである。1860年代、ウィリアム・セラーズという男がいた。当時の工作機械業界は、1990年代のハイテク業界のような勢いのある業界だった。その中でセラーズはもっとも有名で、広く尊敬を集めている機械工だった。彼は自分がデザインした規格化されたネジをアメリカ中に広めるキャンペーンを始めた。
 この頃のアメリカでは、ネジは機械工の手づくりだった。大量生産はできなかったが、だからこそ機械工が自分の職を守ることにつながっていた。毎回毎回特別にネジを誂えるということは、顧客の囲い込みを意味するからだ。(略)だが、どこでも同じネジが使われるようになると、顧客がその機械工に修理を依頼する必然性はなくなり、もっと価格に敏感になる。
 セラーズは、機械工が何を恐れているかわかっていた。
(略)
 そこで、彼はアメリカ海軍など影響力の大きい顧客をターゲットに据え、5年かけて規格化されたネジを使うのが世の趨勢だという雰囲気をつくりだした。新たに顧客が増えると、セラーズの試みが最終的に成功する可能性がますます高まったように見えた。そのことで実際に彼が成功する可能性も高まったのである。
 10年も経たないうちに、セラーズのネジは全米規格の地位に上り詰めようとしていた。このネジがなければ、工業製品の大量生産に必要な組み立てラインは実現できなかったかもしれない。かりに実現できたとしても、ものすごく苦労したことは確かだ。セラーズが、近代的な大量生産に必要な基礎工事を行ったと言っても過言ではない。
 この話は、情報カスケードがよい方向に働いた例だ。セラーズがデザインしたネジは、当時もっとも有力なライバルだったイギリス製のネジよりもあらゆる点で優れていた。優れたネジが全米規格になることで、アメリカ経済は飛躍的な進歩を遂げた。だが、機械工たちが単純にセラーズに従っただけで、どのネジがいちばん優れているか自ら考えることなしに漫然と選んだだけだとしたら、最終的に正しい結論に達したのはまったくの偶然の賜物だ。

信頼の非人間性こそが資本主義の美点

 18世紀、19世紀のイギリスでは、経済のかなりの部分がクエーカーの名で知られる宗派の信徒に握られていた。彼らはイギリスの鉄鋼所の半分以上を所有し、金融業界でもキープレーヤーだったし、チョコレートやビスケットなどの消費者向けのマーケットも支配していた。イギリスとアメリカを結ぶ貿易の促進には不可欠な存在でもあった。
 クエーカーは信徒同士の取引から生まれた利得のおかげで成功した。英国国教会と対立したせいで、クエーカー教徒は専門職につくことを禁じられ、結果として実業界に引き寄せられた。資金調達や取引をしたいときには、信仰を同じくする人と組めば仕事をしやすい。共通の信仰が信頼を醸成したため、海を越えて品物を送り出したロンドンのクエーカー教徒の貿易商は、荷がフィラデルフィアに着いた時点できちんと支払いをしてもらえると確信できた。
 やがてクエーカー教徒の成功に周囲も気づいた。彼らが清廉潔白で、ビジネスマンとしては厳格かつ綿密に記録を残すことでも知られていた。また、クエーカー教徒は取引の透明性を重視して、固定価格制度などのイノベーションを起こした。徐々にほかの人たちも貿易相手、仕入れ先、販売業者にクエーカー教徒を選ぶようになった。
 彼らの商売がますます繁盛する様子を見た人々は、クエーカー教徒は確実で信頼できるという評判と、彼らの成功を結びつけて考え始めた。フムフム、どうやら誠実さは儲けを生むらしい。
 1990年代後半の株式バブルの時代にアメリカ企業が貪った腐敗の饗宴を考えると、企業の成功は信頼に基づくという考えは痛いくらいに純朴だ。
(略)
 だが、一般に流布している強欲な資本主義というイメージは、現実とはかなりかけ離れている。資本主義の進化の道筋を検証すると、現実は信頼性の向上、透明性の確保、利己的な行動の制限という方向に向かっていることがわかる。そして、そのおかげで生産性が向上し、経済もまた成長を続けている。
 資本家たちが生まれつき善人だからこうした方向に進化したのではない。信頼から生み出されるメリットが、潜在的にきわめて大きいのである。取引のたびにぼったくりじゃないか、不良品をつかませられるんじゃないかと疑っていると、ビジネスなんてまともにできない。それに、そういう状況で行われる取引のコストは甚大になる。取引ごとにたいへんなチェックが必要だし、契約の履行を求めて法的手段に訴えなければいけないからだ。
 経済的な繁栄に必要なのは、潤んだ瞳の夢見る乙女が周りに寄せるような信頼ではない。どんなときでもリスクを考えて、細心の注意を払ってビジネスをすべきではある。ここで言っているのは、モノやサービスの提供に関するほかの人の約束やコミットメントに寄せるごくごく基本的な信頼のことだ。
(略)
[1800年代]「間抜けなカモはいくらでもいる」と豪語したことで悪名高い興行師P・T・バーナムが、カスタマーサービスという考えの先鞭をつけた。百貨店王ジョン・ワナメーカーが統一価格という新しい基準を打ちたてようとしていた。そして、19世紀末には商品の安全性を認定する保険業者試験所など、日常的な取引における信頼の醸成を目指した独立機関が設立された。
 ウォールストリートではJ・P・モルガンが信頼をベースに利ざやの大きい商売を始めた。19世紀後半、アメリカの鉄道建設への胡散臭い投資でひどい目にあった海外の投資家を中心に、これ以上の投資には慎重になっている人が多かった。そんな中、モルガンの行員が取締役に名を連ねているということ自体が、信頼できるきちんとした企業の証であると見られるようになった。
 こうした変化の根底には、近代資本主義の本質とされる短期的な利益を重視する姿勢から、長期的な資本の蓄積を重視する姿勢への変化があった。個々の取引は、できる限り相手から絞り取るための単発的なものではなく、もっと大きなビジネスの一環として見られるようになった。
(略)
 信頼というコンセプトでいちばん重要なのは、それがある意味では、機械的で人間味のないものだという点だ。かつて、信頼は人と人のつながりや集団内の人間関係に基づいていた。(略)
 近代資本主義は赤の他人でもそうそう裏切ったりはしないと示すことで、個人的な関わりが一切ない人を信頼しても大丈夫だと保証した。そのおかげで信頼は日々のビジネス慣行の基本に組み込まれた。(略)
 こういう非人間的な側面は、通常資本主義では避けられない不幸な代償だととらえられている。血縁とか感情に基づく関係の代わりに、マルクスが「金銭的な結びつき」と呼んだものだけに基づく関係が生まれるからだ。だが、この非人間性こそが資本主義の美点なのだ。

集団極性化

 集団極性化は、いまだに充分解明されていない現象である。(略)
人々が「社会的比較」を拠り所にしているというのが理由の一端だ。集団内の自分の相対的な立場が維持できるように、人は自分と周りの人をいつも比較している。自分は集団の真ん中あたりのポジションから出発したのに、集団全体が右の方向にシフトしたとしよう。すると、ほかの人と比較したときの自分の立ち位置がずれないように、自分もポジションを右にシフトしがちだ。自分が右にシフトすることで、当然グループ全体も右に動かすことになる。したがって、こうした社会的比較はある種の自己達成的な予言だとも言える。真実だと思われることがやがて真実になるのだから。
(略)
 集団の多数派がすでにある立場を支持している場合、議論の場で述べられるほとんどの見解はその立場をサポートするものになるはずだ。多数派の立場を擁護する意見しか耳にしないので、確信が持てない人々は多数派の意見に流されがちだ。同じように、極端な立場を採る人たちは、その立場を擁護するような一貫した説得力のある議論を展開するだろうし、議論でも積極的に発言するはずだ。
 これが重要なのは、人々の発言順がその後の議論の展開に大きな影響を及ぼすとあらゆる証拠が示しているからだ。はじめのほうの発言の影響力が大きく、その後の議論が展開する枠組みを規定することが多い。情報カスケードと同じく一度決まった枠組みを壊すのは難しい。
 はじめに発言する人がきちんとした意見を持った人であれば、これは問題にはならない。だが、明快なソリューションがない問題を議論している場合、正確な情報をいちばんたくさん持っている人がもっとも影響力のある発言者であるとは限らない。
(略)
 集団のメンバー同士が知り合いだと、地位が発言のパターンを規定する傾向が見られ、だいたい地位の高い人は地位の低い人より発言量が多くなる。この場合も、地位の高い人の権威の源は彼らの優れた知識だというのなら問題はない。だが、現実は往々にして異なっている。地位の高い人は自分がまったく知らないことでも、かまわず頓珍漢な発言をしたがる。
(略)
発言量は小さな集団が達する結論にとても大きな影響を及ぼす。集団の中で発言量が多い人は、ほとんど無条件にほかのメンバーから影響力が大きいと見倣される。発言量の多い人は必ずしもほかのメンバーに好かれるわけではないが、少なくともみんなその意見に耳を傾ける。発言量が多いと、さらに発言量が多くなる。
(略)
 自分に専門家としての見識が備わっているときにしか人々が発言しないのであれば、これは問題にならない。多くの場合、誰かがたくさんしゃべっているという事実は、その人が議論に付け加えるべき有益な情報を持っているというサインである。だが、実のところ発言量の多さと専門家としての見識の間には何の相関関係も見られない。
 航空兵の研究が示唆するように、自分がリーダーであると思い込んでいる人は自分の知識を過大評価し、まったく根拠もないのに専門家として自信に満ちあふれた雰囲気を醸し出す。さらに言えば、だいたいにおいて過激派のほうが穏健派より自分の正しさを確信しているし、頑固なので、議論を重ねると集団全体は極端な方向に引っ張られがちだ。