アメリカの公共宗教

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

原理主義

という言葉は1910年から15年にかけて出版された『ザ・ファンダメンタルズ』という雑誌に由来している。その雑誌は12冊のパンフレットとして刊行され、各巻平均で25万部、累計で300万部ほどが発行された。スポンサーには石油会社の筆頭株主がついていたこともあって、アメリカ全土の教会や神学校に無料で配布され、三分の一はイギリスにも送られている

聖書無謬説

原理主義者は反知性主義なのだから、頭を空っぽにしてただひたすら聖書の文字を一言一句そのままに受け取るのだ(略)そうした考えは、実際は「聖書無謬説」とは異なったものであるし、原理主義を理解するにも適切なものではない。(略)
重要なのは、聖書にはいかなる種類の誤りも含まれていない、ということなのである。聖書には神学的な誤りのみならず、歴史的、地理的、そして科学的な誤りも含まれていない、と原理主義者は考える。そうした考えが「聖書無謬説」なのであって、それと聖書を「文字通り」受け取る「直解主義」とを混同してはならない。
(略)
1910年代に主に敵視されたのは「聖書批評学」であり、それに対抗して「聖書無謬説」が主張されたのであった。そして、そういった論争はほとんど神学の領域でおこなわれたのである。(略)
 当初は「教会内」だけでおこなわれていた原理主義をめぐる論争も、1920年代になると、「教会内」だけではなく「教会外」にも広がっていく。言い換えれば、神学の領域から社会の領域へ、その舞台が移っていくのである。(略)そこで問題になったのが進化論であった。(略)
いざ自分たちの子どもを進学させようとすると、その頃の公立高校では進化論が教えられるようになっていたのである。(略)進化論を教わるようになれば、自分たちの価値観やそれに基づく教育が脅かされることになるだろう。そうなれば、いずれ家族の繋がりまで壊しかねない。(略)
 たんに「原理主義」を時代錯誤なイデオロギーと考えたり、「原理主義者」を反動的な盲信の徒だとみなしたりするのは正確さを欠いている。少なくとも「反進化論」という考え方をもって公的領域に登場してきた第一期の人々は、狂信的に〈世俗外の原理〉を社会に組み込もうとしたのではなく、それまで社会のなかに常識的に潜在していた〈世俗外の原理〉が排除されることに反対した、というほうが正確なのである。

スコープス裁判

[南部州で成立した「反進化論法」に反対する生物学教師ジョン・スコープスが1925年裁かれることになり、原理主義は一躍アメリカ全土に知れ渡る。保守的な陪審員により原理主義が勝利するも、裁判の過程で]
スコープスの弁護人は、検事ブライアンがもっている聖書の知識がどれほど一貫性のないものであるか、それを容赦なく暴いていったのである。(略)[これにより]原理主義と言えば「時代錯誤で反動的な考え方」というマイナス・イメージがアメリカ社会に広まることになったのである。(略)
この後、反進化論法は1926年にミシシッピ州で制定されただけで実効性を失っていき、原理主義の勢いは次第に下火になっていった。公的領域に広がりはじめた宗教の復興は、ここでいったん暗礁に乗り上げたと言えよう。

メイフラワー契約

 ピルグリムたちは経済的に余裕がなかったので、移住を計画するにあたっては出資者を募らざるをえなかった。出資の名目は植民地事業である。事業を成功させるには労働者や実務家の存在が欠かせない。そこで、メイフラワー号には「聖徒」だけでなく、それと同じくらいの数の「よそ者」が乗り合わせることになった。(略)[さらに国王の特許状等がない予定外の政治的空白地帯に上陸。異質な者同士が]共同生活を送るには何らかの合意がなければうまくいかない。事実、上陸に際してはよそ者のなかに叛乱を起こそうとするものまで現れた。こうした経緯があったがゆえに、かれらは「メイフラワー契約」を結ぶ(略)
ここで交わされた「社会契約」では「異質性」が前提となり、「よそ者」をも包摂することになる。「メイフラワー契約」は、信仰を異にしながらも、ともに社会を形成していく必要があったがゆえに結ばれた契約なのであった。この契約が、のちのアメリカに「多元社会」の一つのモデルを提供したと言よう。
(略)
[同じイギリス人という自覚をもとに]「国王と祖国の名誉のため」という、より高次の目的や価値観が掲げられ(略)
分離派である「聖徒」も、英国国教会に属する「よそ者」も、広い意味では同じプロテスタントであった。ゆえに「神の栄光のため、キリスト教の信仰増進のため」という信条が掲げられた。(略)そこには紛れもなく〈世俗外〉の価値観も含まれていたのであって、これをルソーが論じた「市民宗教」のアメリカ的な実現と考えていいかもしれない。
 以上のように、メイフラワー契約には、共同体を創設、維持すべく「政治的正当性」と「宗教的正統性」の両輪が用いられている

マサチューセッツ植民地

[チャールズ一世が即位し]ますますピューリタンが迫害されるようになり、非分離派のピューリタンまでもが、アメリカに活路を見出さざるをえなくなっていった。
 ただし、分離派のピューリタンが貧しい農民や労働者だったのに対して、非分離派のピューリタンは富も地位も持っている人々であった。ゆえに、かれらは国王から特許状を得て「マサチューセッツ湾岸会社」を設立し、十二艘からなる大船団を仕立てて渡航することができた。(略)
 マサチューセッツ湾岸植民地は、プリマス植民地とは違って「よそ者」はおらず、そのことによって両植民地のあいだでは、政治と宗教の関係に違いが生じることになった。いずれの植民地にあっても、牧師が公職に就くことはなく、行政側も教会内の問題に干渉することはしなかった。(略)
[しかし、多元社会プリマスとちがって]マサチューセッツでは、教会員でなければ「公民」にはなれなかったのである。

ロジャー・ウィリアムズ、政教分離

[マサチューセッツでの「神権政治」に異を唱え追放されたロジャー・ウィリアムズは]
プロヴィデンスという町を造った。重要なのは、そこで交わされた「入植者誓約文」である。その誓約文には、政治権力が及ぶのは「世俗の事柄のみ」と明記されていた。この誓約文こそ史上初の政教分離文書とみなされるのである。
 このことからわかるのは、いちはやくアメリカで政教分離の理念が形成されたのは、イギリスで迫害されたピューリタンが「信仰の自由」を掲げてアメリカを建設したからなのではない、ということである。非分離派のピューリタンは、あくまで自分たちの信仰の自由を求めたのであって、信仰を異にする人々の信仰の自由までは認めていない。認めないどころか迫害までするので、プロヴィデンスには、ウィリアムズと同じようにマサチューセッツを批判して追放された人々やクエーカーまでがやってきた。こうしてプロヴィデンスは宗教的にも多様な社会となっていく。以上のような経緯から、ロジャー・ウィリアムズは、「政教分離」の理念の実現者として名が挙げられるのである。

政教分離」の危機

[信教の自由ではなく、土地の利権目当ての入植者が増え]
プロヴィデンスは土地の所有権や境界線、分譲の問題などで紛糾するようになる。しかし、それを調整しようにも、プロヴィデンスは完全な信教の自由を掲げているからには、入植者の目的や意図すなわち「心の中」を審査し、それを基準に人々の自由を統制することはできない。逆に、入植者のほうから、ウイリアムズたちの統治体制が批判される始末であった。
 ほとほと困ったウィリアムズは、かつて自分を追放したマサチューセッツのウィンスロップ二世に、手紙で助言を求めるまでになる(略)結局ウィリアムズは、イギリス本国の議会から特許状を得ることによって政治的正当性を担保し、統治体制を正当化せざるをえなくなった。
 このことからわかるのは、一つに、政教分離の理念は「それだけでは当該社会をどのように形成すべきかという積極的な目的や構想を提供しない」ということである。二つに、「単独ではそれ本来の目的であった自由の基盤をもやがて危機に陥れてしまう」ということである。社会を形成するためには、政教分離の理念だけではなく「積極的な目的や構想」が不可欠となるのである。

アメリカの政教分離

ヨーロッパと違って、多くの教派がしのぎを削るアメリカでは、特定の教派が、国家の保護を受けて強大になり、他の教派を抑圧することが何より恐れられた。あるいは、国家の保護を受けることで、逆に、宗教として堕落することが恐れられた。そうした事態を回避するために求められたのが「政教分離」なのである。したがって、その理念は、宗教の力を抑えこむために企図されたものではなく、多くの教派が自由に信者の獲得競争をおこなうことによって、宗教の力を活性化させるために意図されたものだったのである。

明日につづく。
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